詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柴節子「落下」、渡会やよひ「夏の森」

2015-07-30 09:04:34 | 詩(雑誌・同人誌)
小柴節子「落下」、渡会やよひ「夏の森」(「蒐」4、2015年07月25日発行)

 小柴節子「落下」は抽象的でよくわからない。二連目に「耳を伝い頬に沿って/隠しておいたはずのものが溢れ出てくる」ということばがある。涙のことだろうか。横を向いて臥しているときでもないと、涙が「耳を伝い」ということは起きないと思うが、涙だろうとは思って読んだ。
 その三連目、

正しい名前で
わたしを呼んではならない
魂の内壁に潜む声で
わたしに語りかけてはならない
わたしは更に
わたしを生きてしまうに違いないから

 この六行が非常に印象に残る。私は「魂」というものがあるとは思っていない。だから「魂」という部分は「肉体」と置き換えながら読むのだが。(だから、この段階からすでに私は小柴を「誤読」していることになるのだが、「読む」とはいずれにしろ「自分の読みたいことを読む」ということろに落ち着くので、まあ、そう読むしかない。)
 何らかの「苦悩/悲しみ」というものを抱えながら、小柴は「正しい名前で/わたしを呼んではならない」という。この「正しい名前」は「魂の内壁に潜む声」であり、「わたしを呼んではならない」は「わたしに語りかけてはならない」である。同じことをことばを変えながら繰り返している。言い直している。「正しい名前」では言い切れないものがある。「魂の」をわきにおいておいて、「内壁に潜む声」に目を向ける。「正しい」は「潜む」という動詞に置き換えられている。「正しい」というのは「用言」である。「潜む」も「用言である」。「潜んでいる」ものが「正しい」。これは、よくいう「ほんとう」ということかもしれない。「ほんとうのわたし」は「潜んでいる」。
 なぜだろう。なぜ「ほんとうのわたし」は潜まなければならないか。人が潜むときは、何かに傷つくのを恐れてである。被害に遭いたくないから隠れる。そんなふうに私はこの四行を読む。
 つづく二行は「潜んでいる」理由を書いたものだろう。
 ふつうに生きている。(「ふつう」というのは、定義がむずかしいが、いつものように、くらいの意味である)。そのふつうに暮らしているときは「ほんとう」の自分をさらけ出すのではなく、内部に「潜めている」。いわば「見かけ(他人とつきあうためのわたし)」を演じている。ところが何かあって、衝撃で、思わず「ほんとうのわたし(隠している気持ち)」が出てしまう。そこからいろいろな変化が生じ、怒りや悲しみが生まれ、涙が流れるというようなことも起きる。涙を流し、痛みを感じながら、「ほんとうのわたし」はもっと何かを叫びそうになる。「ほんとうのことを言ってしまえ/思っていることを言ってしまえ/自分をさらけだしてしまえ」という気持ちになる。「ほんとうの名前」を呼んで、「ほんうとのわたし」を表に出してしまえ。「ほんとうのわたしよ出て来い」と誘いかけたい気持ちになる。けれど、それを押さえる。「呼んではならない」「語りかけてはならない」と自分で抑制する。
 なぜか、「ほんとうのわたし」が出てきてしまったら、その「わたし」はもう一度同じ苦しみ、悲しみを体験するからである。「見せかけのわたし(本心を隠していわたし)」が味わったものを、「ほんとうのわたし」がもう一度、繰り返す。「ほんとうのわたし」として体験しなおす。私はこのことを「もう一度」と表現した。「再び」と言い換えることもできると思う。この「もう一度(再び)」を、小柴は

更に

 と書いている。この「更に」が強い。強くて、痛い。「更に」と「もう一度(再び)」とどう違うか。「更に」はただ単なる繰り返しではなく、何か「もっと」という意味があるように感じる。(これは私が感じることであって、小柴がそういう感じを持っているかどうかはわからないのだが……。だからこそ「誤読」と私はいうのだが。)最初の体験は、痛いは痛いが、何か表面的でもある。しかし、それを何が起きているかを知った上で繰り返すと、「痛み」が深まる。なぜ痛いか、どこが痛いかが、より明確に自分にわかってくる。「わかる」ことの変化、「深く」わかることが「更に」ということばとのなかにある。それは単なる繰り返しではなく、(繰り返しとは前のこと、古いことを繰り返すのだが)、そこでは体験が「新しく」なる。「深く/新しく」が「更に」なのだ。
 これを小柴は避けたいのだ。「わたしを生きてしまう」の「しまう」に、そのつらさが滲んでいる。
 そういうことを書いたあと、ことばは一層抽象的になる。

生まれ落ちた瞬間から
人は死に向かう生を生き
生に向かう死を
死ななければならなかった

 この連のことばの動きは二連目と同じで、ひとつのことを繰り返している。ここでは「生から死」という動きと「死から生」という対立する動きが書かれているが、それは「言い方」の違いであって、ほんとうは区別はできない。ふたつは融合している。だから、言い直すことで、間違いを排除しているのだとも言える。「見かけのわたし」と「ほんとうのわたし」のどちらが「生」を主語として、どちらが「死」を主語として動いているのかわからないが、同時に体験して生きている。
 その書き出しの「生まれ落ちた」ということばは、タイトルの「落下」を言い直したものだろう。もしかすると「生まれ落ちる前(落下する前)」のいのちの形が「ほんとうのわたし」と感じているのかもしれない。そして、この「落下」は「誕生」のことだけではない。日々の「見かけのわたし/ほんとうのわたし」の「分離/拮抗」のことでもある。それを次の連でさらに言い直している。

刻の裏側で痙攣する
語尾の休息
いちまいの布のような修辞
歩く度に枯れてゆく夏草にも
落下は静かに始まっているらしい

 「語尾の休息」とは「言い争い(主張の対立)」の際の、中断したことばのことかもしれない。主張を「修辞」でごまかし、隠す。「ほんとうのわたし」を隠す。潜めさせる。それはたとえば夏草の野を歩くようなときにも起きる。いつでも「見かけのわたし/ほんとうのわたし」は衝突を抱えたまま「生まれる」。つまり「落下」する。
 この「ふたつのわたし」の「融合/結合」、さらに「分離」を意識する思考の強さが小柴のことばを抽象的にしているのだと感じた。


 
 渡会やよひ「夏の森」は、また別の形で「ほんとうのわたし」を書いているように思える。

その人はおもむろに指さす
(あの漆黒の小屋に…
語尾は水を含んで
(行くのだ)とも
(いったのだ)とも聞こえた

 「行くのだ/いったのだ」は「時間」を中心に考えると「未来」と「過去」、つまり反対のものである。その両方が「可能性」として、ある。そのどちらを聞き取るかは、ほんとうは渡会の問題である。私の言い方だと、どう「誤読」するかは、渡会の欲望(本能)次第である。しかし、これを渡会は「聞こえた」と書くことで、自分では「欲望(本能)」を語らず、「その人」に預けてしまう。つまり、小柴の詩を引き継いで言えば、渡会は「ほんとうのわたし」を潜めたまま「見かけのわたし」に自分を委ねる。
 その詩の最後に、

古びて錆びた一台の自転車があり
その鋭い剥落を
見捨てる

 と「剥落」ということばが出てくるが、これは柴田の「落下」と「落」という文字を共有している。そこが、なんとなくおもしろい。ずっとつづけてきた「見かけのわたし」の「落下=剥落(誕生)」を、最後は「見捨てる」のだから、最後は「ほんとうのわたし」を選んでいる。「見かけのわたし」が「ほんとうのわたし」になるまでを描いた詩ということになるのか。
 この詩もよくわからないが、わからないまま、そこに書かれていることばを「誤読」するのが私は好きなのだ。


途上
渡会 やよひ
思潮社
コメント
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