詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林あき「エミリー・カーの話」

2015-07-31 10:16:19 | 詩(雑誌・同人誌)
小林あき「エミリー・カーの話」(「孔雀船」86、2015年07月15日発行)

 小林あき「エミリー・カーの話」は画廊で作品展を準備するところからはじまる。Nさんが手伝ってくれる。手伝ってもらいながら、小林はエミリー・カーのことを話す。

彼女は結婚しなかったの
それでもピュアな愛があったそうなの
文通のお相手は知性の人で
ふたりの書簡集も売られているはずよ と

するとNさんは
(私もそうだったけれどつっぱったような若さをゆるめ)
つぶやくのです
愛の手紙のやりとりを公にするなんて
ふたりの死後であってもひどいじゃないの と

私は心があたたくなるのです

 「私は心があたたくなるのです」という一行は、その通りなのだろうけれど、ちょっと興ざめをする。全体に「散文」的なことばの展開なのだが、ここはあまりにも説明的すぎる。「美しい」ということばをつかわずに美しいと書くのが詩といわれるが、同じように「心があたたくなる」ということばをつかわずに心があたたかくなると感じさせるのが詩だろう、などと思ってしまう。
 たぶん、小林にも「ピュアな愛」の経験があり、そのことを思いながら話していて、その思いでも影響して「私は心があたたくなるのです」と、自分自身を思わず語ってしまったのだろう。
 しかし、詩は、ここで終わるのではなく、ここから突然飛躍する。

晩年のエミリー・カーは
トレーラーを『ぞうさん』と名づけ
森のなかに駐車
三頭の犬といっしょに暮らしたのでした

 はっと驚き、この四行で私はこの詩が好きになった。
 これはエミリー・カーの「晩年」を語っているのではない。いや、語っているのだが、それ以上に語っていることがある。直前の「私は私は心があたたくなるのです」の「心があたたかくなる」ということはどういうことなのか。それを、この四行で言い直しているのだ。心があたたかくなったとき、ふいにエミリー・カーの晩年が目の前にあらわれた。あたたかくなった心が、ふいに思い出した。あたたかくなった心(心があたたかくなる)ということ、その四行は「ひとつ」なのである。
 そして、そのとき思うのである。「心があたたかくなる」というのは「安心」ということかもしれないなあ。こころが安らぐということかもしれないなあ。
 最後の四行に書かれていることは、エミリー・カーの晩年であると同時に、小林の「あこがれ」なのだ。そんなふうにしてみたい。そんふうに、ひとりで「人間社会」から離れるような形で、ゆったりと好きな絵を描いて暮らしたい。あこがれを実現したのはエミリー・カーであるけれど、その幸福を小林は自分のことのように感じている。
 これが「愛の手紙のやりとりを公にするなんて/ふたりの死後であってもひどいじゃないの」という「批判」からはじまっているところが、この詩を「あたたかく」しているのかもしれない。活気づかせているのかもしれない。Nさんが、「そうなんですか、その手紙(書簡集)を読んでみます」と答えていたら、きっと世界はこんなふうには変わらなかっただろう。小林はエミリー・カーの晩年を思い出さなかっただろう。
 異質なものが紛れ込んできて、小林のことばをひっかきまわした。撹拌した。小林がそまれで語ってきた世界が壊された。壊れされたけれど、そこから突然の再生がはじまった。エミリー・カーのことを知らないNさんが、小林の知っているエミリー・カーの世界を一瞬にして叩き壊したのだ。そうすると、その叩き壊された世界から、小林が忘れていたエミリー・カーが突然あらわれて、目の前で動いた。エミリー・カーが生きてい姿で目の前にあられた。詩は、詩でないもの(Nさんの批判)で壊され、壊されることで再生した。詩が再生されるためには、壊されるということが必要なのだ。


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小林あき
花神社

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