ジャン・ルノワール監督「ピクニック(1936)」(★★★★★)
監督 ジャン・ルノワール 出演 シルビア・バタイユ、ジャーヌ・マルカン、アンドレ・ガブリエロ、ジャック・ボレル、ジョルジュ・ダルヌー
私はルノワールの映画はほとんど見ていない。「大いなる幻影」「ゲームの規則」「黄金の馬車」「フレンチ・カンカン」くらいだろうか。私が映画を見はじめたときには、ルノワールはすでに映画をつくっていない。時代が違うので、何かの企画で特別上映されるのを見るしかないのだが、地方に住んでいるとそういう機会がめったにない。
今回はデジタル・リマスター版。デジタル上映はフィルムの感じをどれくらい正確に伝えているのか、私にはわからないが、映画館で見ることができるのはうれしい。
冒頭の川の流れの、まるで大河のうねりのような水の質感がなまなましい。あ、川の水はこんなに自在に自己主張しているものなのか、と驚いてしまう。木の影が映っていて、その影が水の流れによって動いているだけなのだが、その映像だけですでに映画に酔ってしまう。
ひとが登場してきてからでは、何といってもブランコのシーンがとても印象的だ。レストランの窓を開ける。そうするとブランコを漕いでいる娘が見える。隣に母親もブランコにのっているのだが、視線はどうしても娘の方に向かう。その視線の向き方というか、集中の仕方にあわせて、カメラが窓を跳び越えて娘に近づいていく。そして娘といっしょにブランコにのって揺れる。娘のブランコを漕いでいるときの、肉体の中の自然な動きが、そのままカメラのリズムになる。それが、娘の喜びになる。娘の肉体がはなつ喜び(感情のはつらつとした解放感)が、そのまま空の美しさや木々の美しさになってスクリーンに広がる。
ここから娘の、喜びを感じる苦悩(?)がはじまるのだが、わくわくどきどきしてしまう。サクランボの木の下で母親に「私はいま変な気持ち」というようなことを言うのだが、うーん、見ながら娘になってしまうなあ。処女になって、肉体が解放される喜びと、不安と、どうにでもなってしまえばいい、という「いのち」のほとばしりのせめぎ合いがいいなあ。
ひとめぼれの瞬間がいいし、娘と友人のひとめぼれをわかってしまい、友人に娘を譲る(?)伊達男の、「恋愛は女次第」というフランス男の哲学の発揮具合がおかしい。
そのあとのボート遊びもいいなあ。娘が「静かだ」と言い、男が「鳥が鳴いている」と言う。娘は「鳥の声も静かさだ」と言う。芭蕉の「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」の静かさとは違って、緊迫していない。開放的な静かさだ。自分のこころが静かに落ち着いて、どこまでも広がっていくという感じ。忘れることのできない娘は男のやりとりである。娘は自分の知らない世界を知っている(生きている)と気づく男の、一種の敗北感と、それが憧れをさらにかきたてるような感じが、とてもおもしろい。
そのあと、娘と男は森へ行く。(川のすぐそばなので岸辺にあがる、というのが正確かもしれないけれど。)そこで娘と男はキスをする。男は、娘が、自分の知っている田舎の娘とは違うことに恋心をいっそう刺戟されて、キスしたくてたまらない。何度か拒んだあと、くちびるが触れる。そうすると今度は娘の方が男の方にキスを求めていく。そのあと、娘のほほに涙が流れる。娘には婚約者(恋人?)がいて、男との恋愛はかなわぬ恋なのだ。その「かなわぬ恋」が悲しいのか。あるいは、ひとめぼれした男によって肉体が解放されることがうれしいのか。あるいは、そのうれしさが、さびしいのか。わからないが、そのわからないところが、とてもいい。結論などない。そのキスシーンは、少しピンぼけ気味である。それが逆に、肉体とこころの曖昧な関係をそのまま具体化しているようで、とても生々しい。
直後の、激しい雨。川面をたたく雨の激しい映像が、またとても美しい。冒頭の川が一点にとどまって木の影と水の動きを映していたのに対して、この映像は娘と男がキスした(そのあとセックスをした?)場所からどんどん遠ざかって行く。至福を振り返り、振り返ったまま、遠ざかっていく感じで動いていく。これが、切ない。
こうした映像の美しさのほかに、ルノワールの映画の特徴に「役者の自由さ」がある。役者は「演技」をしているのか、そのままそこにいて好き勝手をしているのか、よくわからないところがある。このよくわからない「好き勝手」という感じが、私はルノワールの映画が大好きな理由だ。
たとえば父親が妻を馬車からおろすシーン。スカートの下へさっと手を滑り込ませる。それは妻へのサービス? それともアドリブで役者がスケベ根性を出してみせただけ? 脚本に書いてあったにしろ、その動きがなんともいえず勝手気まま。そこに不思議なのびやかさがある。これは昼食後、昼寝をする夫の顔を草でくすぐる妻の演技にもみられる。妻は、ピクニックで解放されているのだから、森へ行って(隠れて)セックスしようと誘うのだが、夫はそれをうるさがる。そういうシーンなのだが、妻の演技が勝手気まま。自分はこんなふうにしたいから、こうするだけ、という感じ。ストーリーに縛られていない。ストーリーがあるのだけれど、それをはみだして、そこに「女がいる」という感じ。これ、見たことあるぞ、こういう女をちらりと盗み見したことがあるぞ、という感じなのである。こういうシーンというのは「真剣」に見てしまうと、それだけで「意味」を持ってしまう。「意味」にならないように、見られてもかまわないけど、ほっといてね、という自在な感じがどこかにあって、それが楽しい。
で、こういう不思議な役者の肉体の動きのあとに、あのキスシーンのクライマックスがある。娘の涙は「演技」であるはずなのに、演技であることを忘れてしまう。キスを拒んで、拒みながらもっと迫ってくるのを待っている。拒みながら、受けいれ、そこから自分が変わってしまう。キスシーンがあいまいなピンぼけになっているのは、その不透明なところを観客が自分の肉体(体験)で補い、そうすることで娘になってしまうことを促しているのかもしれない。娘の変化は「自分」ではなく「自分ではないもの」の「いのち」になるのことなのだけれど、これは「制御できない」何かである。その制御できないものに観客も引き込まれるのだが、「制御できない」という感じが、勝手気ままとどこかでつながっているのかもしれない。無意識の欲望、とつながっているのかもしれない。
こういうことを、私が書いているように「ややこしく」あれこれつないでみせるのではなく、ただ役者に勝手に演じさせることでルノワールはとらえてしまう。それが不思議で、とても美しい。不透明を美しく、そのままの形でつかみとることができる監督なのだと思う。
ほかの作品も見たいなあ。
(KBCシネマ2、2015年07月20日)
*
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監督 ジャン・ルノワール 出演 シルビア・バタイユ、ジャーヌ・マルカン、アンドレ・ガブリエロ、ジャック・ボレル、ジョルジュ・ダルヌー
私はルノワールの映画はほとんど見ていない。「大いなる幻影」「ゲームの規則」「黄金の馬車」「フレンチ・カンカン」くらいだろうか。私が映画を見はじめたときには、ルノワールはすでに映画をつくっていない。時代が違うので、何かの企画で特別上映されるのを見るしかないのだが、地方に住んでいるとそういう機会がめったにない。
今回はデジタル・リマスター版。デジタル上映はフィルムの感じをどれくらい正確に伝えているのか、私にはわからないが、映画館で見ることができるのはうれしい。
冒頭の川の流れの、まるで大河のうねりのような水の質感がなまなましい。あ、川の水はこんなに自在に自己主張しているものなのか、と驚いてしまう。木の影が映っていて、その影が水の流れによって動いているだけなのだが、その映像だけですでに映画に酔ってしまう。
ひとが登場してきてからでは、何といってもブランコのシーンがとても印象的だ。レストランの窓を開ける。そうするとブランコを漕いでいる娘が見える。隣に母親もブランコにのっているのだが、視線はどうしても娘の方に向かう。その視線の向き方というか、集中の仕方にあわせて、カメラが窓を跳び越えて娘に近づいていく。そして娘といっしょにブランコにのって揺れる。娘のブランコを漕いでいるときの、肉体の中の自然な動きが、そのままカメラのリズムになる。それが、娘の喜びになる。娘の肉体がはなつ喜び(感情のはつらつとした解放感)が、そのまま空の美しさや木々の美しさになってスクリーンに広がる。
ここから娘の、喜びを感じる苦悩(?)がはじまるのだが、わくわくどきどきしてしまう。サクランボの木の下で母親に「私はいま変な気持ち」というようなことを言うのだが、うーん、見ながら娘になってしまうなあ。処女になって、肉体が解放される喜びと、不安と、どうにでもなってしまえばいい、という「いのち」のほとばしりのせめぎ合いがいいなあ。
ひとめぼれの瞬間がいいし、娘と友人のひとめぼれをわかってしまい、友人に娘を譲る(?)伊達男の、「恋愛は女次第」というフランス男の哲学の発揮具合がおかしい。
そのあとのボート遊びもいいなあ。娘が「静かだ」と言い、男が「鳥が鳴いている」と言う。娘は「鳥の声も静かさだ」と言う。芭蕉の「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」の静かさとは違って、緊迫していない。開放的な静かさだ。自分のこころが静かに落ち着いて、どこまでも広がっていくという感じ。忘れることのできない娘は男のやりとりである。娘は自分の知らない世界を知っている(生きている)と気づく男の、一種の敗北感と、それが憧れをさらにかきたてるような感じが、とてもおもしろい。
そのあと、娘と男は森へ行く。(川のすぐそばなので岸辺にあがる、というのが正確かもしれないけれど。)そこで娘と男はキスをする。男は、娘が、自分の知っている田舎の娘とは違うことに恋心をいっそう刺戟されて、キスしたくてたまらない。何度か拒んだあと、くちびるが触れる。そうすると今度は娘の方が男の方にキスを求めていく。そのあと、娘のほほに涙が流れる。娘には婚約者(恋人?)がいて、男との恋愛はかなわぬ恋なのだ。その「かなわぬ恋」が悲しいのか。あるいは、ひとめぼれした男によって肉体が解放されることがうれしいのか。あるいは、そのうれしさが、さびしいのか。わからないが、そのわからないところが、とてもいい。結論などない。そのキスシーンは、少しピンぼけ気味である。それが逆に、肉体とこころの曖昧な関係をそのまま具体化しているようで、とても生々しい。
直後の、激しい雨。川面をたたく雨の激しい映像が、またとても美しい。冒頭の川が一点にとどまって木の影と水の動きを映していたのに対して、この映像は娘と男がキスした(そのあとセックスをした?)場所からどんどん遠ざかって行く。至福を振り返り、振り返ったまま、遠ざかっていく感じで動いていく。これが、切ない。
こうした映像の美しさのほかに、ルノワールの映画の特徴に「役者の自由さ」がある。役者は「演技」をしているのか、そのままそこにいて好き勝手をしているのか、よくわからないところがある。このよくわからない「好き勝手」という感じが、私はルノワールの映画が大好きな理由だ。
たとえば父親が妻を馬車からおろすシーン。スカートの下へさっと手を滑り込ませる。それは妻へのサービス? それともアドリブで役者がスケベ根性を出してみせただけ? 脚本に書いてあったにしろ、その動きがなんともいえず勝手気まま。そこに不思議なのびやかさがある。これは昼食後、昼寝をする夫の顔を草でくすぐる妻の演技にもみられる。妻は、ピクニックで解放されているのだから、森へ行って(隠れて)セックスしようと誘うのだが、夫はそれをうるさがる。そういうシーンなのだが、妻の演技が勝手気まま。自分はこんなふうにしたいから、こうするだけ、という感じ。ストーリーに縛られていない。ストーリーがあるのだけれど、それをはみだして、そこに「女がいる」という感じ。これ、見たことあるぞ、こういう女をちらりと盗み見したことがあるぞ、という感じなのである。こういうシーンというのは「真剣」に見てしまうと、それだけで「意味」を持ってしまう。「意味」にならないように、見られてもかまわないけど、ほっといてね、という自在な感じがどこかにあって、それが楽しい。
で、こういう不思議な役者の肉体の動きのあとに、あのキスシーンのクライマックスがある。娘の涙は「演技」であるはずなのに、演技であることを忘れてしまう。キスを拒んで、拒みながらもっと迫ってくるのを待っている。拒みながら、受けいれ、そこから自分が変わってしまう。キスシーンがあいまいなピンぼけになっているのは、その不透明なところを観客が自分の肉体(体験)で補い、そうすることで娘になってしまうことを促しているのかもしれない。娘の変化は「自分」ではなく「自分ではないもの」の「いのち」になるのことなのだけれど、これは「制御できない」何かである。その制御できないものに観客も引き込まれるのだが、「制御できない」という感じが、勝手気ままとどこかでつながっているのかもしれない。無意識の欲望、とつながっているのかもしれない。
こういうことを、私が書いているように「ややこしく」あれこれつないでみせるのではなく、ただ役者に勝手に演じさせることでルノワールはとらえてしまう。それが不思議で、とても美しい。不透明を美しく、そのままの形でつかみとることができる監督なのだと思う。
ほかの作品も見たいなあ。
(KBCシネマ2、2015年07月20日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
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