詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン・ルノワール監督「ピクニック(1936)」(★★★★★)

2015-07-20 15:04:16 | 映画
ジャン・ルノワール監督「ピクニック(1936)」(★★★★★)

監督 ジャン・ルノワール 出演 シルビア・バタイユ、ジャーヌ・マルカン、アンドレ・ガブリエロ、ジャック・ボレル、ジョルジュ・ダルヌー

 私はルノワールの映画はほとんど見ていない。「大いなる幻影」「ゲームの規則」「黄金の馬車」「フレンチ・カンカン」くらいだろうか。私が映画を見はじめたときには、ルノワールはすでに映画をつくっていない。時代が違うので、何かの企画で特別上映されるのを見るしかないのだが、地方に住んでいるとそういう機会がめったにない。
 今回はデジタル・リマスター版。デジタル上映はフィルムの感じをどれくらい正確に伝えているのか、私にはわからないが、映画館で見ることができるのはうれしい。

 冒頭の川の流れの、まるで大河のうねりのような水の質感がなまなましい。あ、川の水はこんなに自在に自己主張しているものなのか、と驚いてしまう。木の影が映っていて、その影が水の流れによって動いているだけなのだが、その映像だけですでに映画に酔ってしまう。
 ひとが登場してきてからでは、何といってもブランコのシーンがとても印象的だ。レストランの窓を開ける。そうするとブランコを漕いでいる娘が見える。隣に母親もブランコにのっているのだが、視線はどうしても娘の方に向かう。その視線の向き方というか、集中の仕方にあわせて、カメラが窓を跳び越えて娘に近づいていく。そして娘といっしょにブランコにのって揺れる。娘のブランコを漕いでいるときの、肉体の中の自然な動きが、そのままカメラのリズムになる。それが、娘の喜びになる。娘の肉体がはなつ喜び(感情のはつらつとした解放感)が、そのまま空の美しさや木々の美しさになってスクリーンに広がる。
 ここから娘の、喜びを感じる苦悩(?)がはじまるのだが、わくわくどきどきしてしまう。サクランボの木の下で母親に「私はいま変な気持ち」というようなことを言うのだが、うーん、見ながら娘になってしまうなあ。処女になって、肉体が解放される喜びと、不安と、どうにでもなってしまえばいい、という「いのち」のほとばしりのせめぎ合いがいいなあ。
 ひとめぼれの瞬間がいいし、娘と友人のひとめぼれをわかってしまい、友人に娘を譲る(?)伊達男の、「恋愛は女次第」というフランス男の哲学の発揮具合がおかしい。
 そのあとのボート遊びもいいなあ。娘が「静かだ」と言い、男が「鳥が鳴いている」と言う。娘は「鳥の声も静かさだ」と言う。芭蕉の「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」の静かさとは違って、緊迫していない。開放的な静かさだ。自分のこころが静かに落ち着いて、どこまでも広がっていくという感じ。忘れることのできない娘は男のやりとりである。娘は自分の知らない世界を知っている(生きている)と気づく男の、一種の敗北感と、それが憧れをさらにかきたてるような感じが、とてもおもしろい。
 そのあと、娘と男は森へ行く。(川のすぐそばなので岸辺にあがる、というのが正確かもしれないけれど。)そこで娘と男はキスをする。男は、娘が、自分の知っている田舎の娘とは違うことに恋心をいっそう刺戟されて、キスしたくてたまらない。何度か拒んだあと、くちびるが触れる。そうすると今度は娘の方が男の方にキスを求めていく。そのあと、娘のほほに涙が流れる。娘には婚約者(恋人?)がいて、男との恋愛はかなわぬ恋なのだ。その「かなわぬ恋」が悲しいのか。あるいは、ひとめぼれした男によって肉体が解放されることがうれしいのか。あるいは、そのうれしさが、さびしいのか。わからないが、そのわからないところが、とてもいい。結論などない。そのキスシーンは、少しピンぼけ気味である。それが逆に、肉体とこころの曖昧な関係をそのまま具体化しているようで、とても生々しい。
 直後の、激しい雨。川面をたたく雨の激しい映像が、またとても美しい。冒頭の川が一点にとどまって木の影と水の動きを映していたのに対して、この映像は娘と男がキスした(そのあとセックスをした?)場所からどんどん遠ざかって行く。至福を振り返り、振り返ったまま、遠ざかっていく感じで動いていく。これが、切ない。
 こうした映像の美しさのほかに、ルノワールの映画の特徴に「役者の自由さ」がある。役者は「演技」をしているのか、そのままそこにいて好き勝手をしているのか、よくわからないところがある。このよくわからない「好き勝手」という感じが、私はルノワールの映画が大好きな理由だ。
 たとえば父親が妻を馬車からおろすシーン。スカートの下へさっと手を滑り込ませる。それは妻へのサービス? それともアドリブで役者がスケベ根性を出してみせただけ? 脚本に書いてあったにしろ、その動きがなんともいえず勝手気まま。そこに不思議なのびやかさがある。これは昼食後、昼寝をする夫の顔を草でくすぐる妻の演技にもみられる。妻は、ピクニックで解放されているのだから、森へ行って(隠れて)セックスしようと誘うのだが、夫はそれをうるさがる。そういうシーンなのだが、妻の演技が勝手気まま。自分はこんなふうにしたいから、こうするだけ、という感じ。ストーリーに縛られていない。ストーリーがあるのだけれど、それをはみだして、そこに「女がいる」という感じ。これ、見たことあるぞ、こういう女をちらりと盗み見したことがあるぞ、という感じなのである。こういうシーンというのは「真剣」に見てしまうと、それだけで「意味」を持ってしまう。「意味」にならないように、見られてもかまわないけど、ほっといてね、という自在な感じがどこかにあって、それが楽しい。
 で、こういう不思議な役者の肉体の動きのあとに、あのキスシーンのクライマックスがある。娘の涙は「演技」であるはずなのに、演技であることを忘れてしまう。キスを拒んで、拒みながらもっと迫ってくるのを待っている。拒みながら、受けいれ、そこから自分が変わってしまう。キスシーンがあいまいなピンぼけになっているのは、その不透明なところを観客が自分の肉体(体験)で補い、そうすることで娘になってしまうことを促しているのかもしれない。娘の変化は「自分」ではなく「自分ではないもの」の「いのち」になるのことなのだけれど、これは「制御できない」何かである。その制御できないものに観客も引き込まれるのだが、「制御できない」という感じが、勝手気ままとどこかでつながっているのかもしれない。無意識の欲望、とつながっているのかもしれない。
 こういうことを、私が書いているように「ややこしく」あれこれつないでみせるのではなく、ただ役者に勝手に演じさせることでルノワールはとらえてしまう。それが不思議で、とても美しい。不透明を美しく、そのままの形でつかみとることができる監督なのだと思う。
 ほかの作品も見たいなあ。
                      (KBCシネマ2、2015年07月20日)

  



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瀬崎祐「越境」

2015-07-20 08:25:35 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬崎祐「越境」(「どぅるかまら」、2015年07月10日発行)

閉ざされた部屋のなかにはとまどいが充ちてくる
すると地球は静かにまわり
窓のこちらにいたわたしは外の風景に溶けはじめる
わたしとわたし以外のものを隔てていた膜が透けはじめて
身体のなかにあったものが形を失っていくのだ

 瀬崎祐「越境」の二連目。二行目の「すると」は「論理」をうながすことばだが(論理的なことばがそのあとにつづくはずだが)、ちょっと奇妙。一行目がどんなことを書いているにせよ、その内容とは無関係に地球はまわっている。「静かに」か、どうかはわからないが。
 そう考えると、この二行目の「すると」と「静かに」を実感するための「すると」であって、「まわる」という動詞とは無関係であることがわかる。
 それに先立つ「閉ざされた部屋のなかにはとまどいが充ちてくる」を統一している「論理」は、二行目ほど複雑ではない。一行目では「閉ざされた」と「充ちてくる」が呼応している。「開かれた」部屋では、とまどいが「充ちてくる」ということはない。「閉ざされている」からこそ「充ちてくる」ということが可能なのである。
 なぜ、こんなことを書いたかというと。
 何気なく書かれているようだが、瀬崎のことばは「論理」で動いている。動いているように装っている。「論理」があるのだと、読者に感じさせて動いている。そしてその「感じ」のなかに「静かに」のような「事実」かどうかわからないものを「事実」として浮かび上がらせる。紛れ込ませる。
 「窓のこちらにいたわたしは外の風景に溶けはじめる」というのは、どういうことか。「わたし(人間)」は「肉体」であるから、それが「溶ける」というようなことは、ありえない。それは「地球がまわる」が瀬崎の思いとは無関係に「まわる」ということと同じであって、客観的な事実である。客観的な事実であるけれど、瀬崎はそれをことばで否定し(というか、違う風に言って)、そのことを「論理的」に言い直す。ことばでしかとらえられない「事実」を「論理的」に証明する。つまり、「説明する」。それが四、五行目。
 「わたしとわたし以外のものを隔てていた膜」というのは「皮膚」のことではない。皮膚は「透けない」。「透けはじめる」のは「わたしとわたし以外のものを隔てていた」意識(精神)のようなもの。つまり、瀬崎の「考え」だ。あるいはそれは「考え」ではなくて「静かに」のように個人的な「感覚」かもしれないのだが、「考え(意識/精神)」ということばで私が反応してしまうのは、瀬崎のことばの運動が「論理的」だからである。「論理」を動かすのはもっぱら「精神」ということになっている。常識では。
 このとき「膜」は「比喩」なのだ。だから、動詞も「比喩」なのだ。「現実の動き」ではなく、「精神でとらえた動き」。「隔てていた」意識が「透ける」とは「なくなる」ということ。「透ける」は「見えない」。その「ない」が「なくなる」ということ。で、そのとき「身体のなかにあったものが形を失っていくのだ」は、そっくりそのまま「わたしとわたし以外のものを隔てていた意識(もの)が形を失っていく」に重なる。「身体のなかにあったもの」が「意識」である。
 瀬崎は、こんなふうに、とっても理屈っぽい人である、ということを確認した上で、三連目を読んでいく。

遠くに見える丘のあたり
梢の形が空につながるあたりには
いくつかの顔が浮かんでいる
わたしの幼いころを知っている人たちのようだ

 一行目と二行目はひとつの情景を言い直したもの。「梢の形が空につながる」というのは「視覚的」にはありうるが、実際には「梢」と「空」がつながっているとはなかなか言わない。「空」は「梢」よりも高いところ(離れたところ)にある。雲が浮かんでいるあたりが「空」であって、「梢」のあたりは、どっちかというと「地面」に近い。というのは屁理屈だけれど、そういう屁理屈を言いたくなるくらいに、瀬崎のことばは「論理」を重視して動いている。
 で、というか……。
 この三連目の四行は、二連目の後半を言い直したものになる。「わたしとわたし以外のもの隔てていた」意識が「透けはじめる/溶けはじめる」ように、「梢」と「空」を隔てていたものが消えて、「つながる」。あるいは、「梢」と「空」を隔てていたものが消えて「つながる」ように、「わたしとわたし以外のもの隔てていた」意識が「透けはじめる/溶けはじめる」と、その「透けはじめる/溶けはじめる」ところに、「わたしの幼いころを知っている人たちの」「いくつかの顔が浮かんで」くる。つまり、「わたしの幼いころを知っている人たちの」「いくつかの顔」を瀬崎は思い浮かべるのだが、これをさらに言い直した部分が、とてもおもしろい。

片足を失った叔父はあれからどうしたのだったか
あの人たちには怒りの言葉をむけたこともあった
あのとき約束の時間にあなたたちは遅れてきたでしょう
わたしはあてどもなく心を彷徨わせて飢えていたのですよ
怒りのなかでは
どこまでがわたしであり
どこからがあなたたちだったのか しかし
いまは微笑みの輪郭も曖昧となる時刻だ

 「わたしとわたし以外のもの隔てていた意識」は「怒り」と言い直されている。不思議なことに「怒り」は「わたしとわたし以外のもの隔ていた」はずなのに、その「隔てる膜」がわからなくなる。「怒り」のなかに「わたしとわたし以外のもの(他人)」が溶け合って(輪郭をなくして)しまう。「怒り」はどちらかが怒り、他方が「謝る」という単純な形をとらないことの方が多い。互いに「怒る」。「怒る」理由はそれぞれにある。そして、そういうとき、そこには「理由」なんてなくて、ただ「怒り(感情)」がある。
 言われてみれば、たしかにその通りだと思う。
 おもしろいのは、この「怒り」の本質、

怒りのなかでは
どこまでがわたしであり
どこからがあなたたちだったのか

 ということろへたどりつくまで、瀬崎が「論理」をゆるめないこと。何度も「論理」にしたがって、ことばを言い換え、動かしつづけること。「論理」で「感情」の本質をしぼりこみ、そこに見落としていたものを浮かび上がらせる。
 おもしろいなあ、と思った。
風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社
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