詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原田亘子『バンソウコウください』

2015-07-14 10:42:58 | 詩集
原田亘子『バンソウコウください』(私家版、2015年05月25日発行)

 原田亘子『バンソウコウください』のタイトルになっている詩は、ひざ小僧をすりむいた子どもが「バンソウコウくれませんか」と家を訪ねてきたときのことを書いている。見知らぬ子だけれど手当てをしてやる。子どもは手当てが終わると、「戦士のような勢いで」ぱっとは帰っていく。「とり残されたわたしは/束の間のナイチンゲール」。そのことを「いい夢をみたのかしら」と思う。その「内容」よりも、

 あのぉ
 バンソウコウくれませんか

 という子どもの口語とタイトルの「バンソウコウください」が違うことが、私にはとてもおもしろかった。子どもの「声(ことば)」はそのまましっかり聞き取っている。しかし、原田はそれを「タイトル」にしていない。自分で言い換えている。
 ここが、とてもおもしろい。
 「……くれませんか」と「……ください」と、どちらがていねいな言い方か、地方によって(個人によって)受け止め方は違うだろうけれど、私は「……くれませんか」の方が、「もし……していただけるなら」という前提を含んでいると感じるので好きである。店で物を買うときも「……はありますか」よりも「……はありませんか」という方が相手を気づかっているとは思うのだが、九州では「……はありませんか(……はないですか)」と言うと「ありませんか(ないですか)、とは失礼だ。ないと思うなら聞くな」という反応がかえってくる。「……はありますか」だと、もし、ない場合に、相手を傷つけることになると私は考える方なのだが……。
 原田はどっちだろう。そして、子どもはどっちだろう。
 私には、子どもの方には、もしあるならば、という気持ちがあると思う。こんなことを知らない人に頼んで申し訳ないのだけれど、「できるなら」助けてくださいという気持ちがあると思う。そのおずおずとした感じが「あのぉ」という呼びかけにも含まれている。そう感じる。
 原田も、それを聞き取ったと思う。聞き取ったけれど、そしてそのことばをそのまま書き留めもしたのだけれど、タイトルにするときちょっと気持ちが変わった。そんなに気をつかわなくてもいいのに。「バンソウコウください」で大丈夫なんだよ。私の方がナイチンゲールになることができてうれしかったんだよ。助けられたのは私なんだよ。ありがとう。そういう気持ちがバンソウコウ「くれませんか」を、バンソウコウ「ください」に変えたのだ。自然に、そう変わってしまったのだ。
 原田のことばのなかには、そういう動き(変化)が自然に起きている。他人のなかで動いたこころをそのまま正確に受け止めるだけではなく、受け止めたあと、そのこころがもっと自由に動いていくのを支えるような力がある。少年の喧嘩を描いた「折れた樹の枝」にもそういうことを感じだ。
 でも、ここで引用するのは、そういう子どもとの対話、人間との対話ではなく、少し違った「出会い」。「花大根」という作品。

春になると
散歩道の側溝に
きまって咲く花大根
今年は赤まんまも
となりでいっしょに咲いている

どうして?
お日さまもあたりにくいのに
聞いてみようと
のぞきこんだら

ヌッ、と
大きな白い猫が顔をだした
自分の家のドアを開けるような
顔をしている

大切な庭先に
入り込んでしまったのかしら

「気をつけてよ」
少し汚れたお尻をふって
花大根のむこうを
歩いて行った

 猫だから「気をつけてよ」というような「日本語」を話すわけではない。けれども原田には、そう聞こえた。原田は瞬間的に猫になっている。そのとき、そこには猫だけがいるのではなく、原田が出会ったひとの姿も重なっているのだが、この瞬間的な変化のなかに原田の「反省」のようなものが含まれる(他人との対応の仕方が含まれる)のがおもしろい。「そうか、他人の領分にはかってに踏み込んではいけないのだな。知らず知らずに他人の領分に踏み込んでしまうことがあるのだな。申し訳ないことをしたなあ」と振り返っている。人柄が、滲み出ている。
 そして、このこころの動きは、実は猫に出会う前からはじまっている。

今年は赤まんまも
となりでいっしょに咲いている

 この「となりでいっしょに」が原田の生き方の基本なのだ。だれかのとなりでいっしょに生きている。いっしょに生きているひとのこころを受け止めながら、それを支えると言ってしまうとおおげさだし、なにか違ったものになるのかもしれないけれど、しっかりと受け止め、自分の生き方をととのえる(自分の行動のあり方を振り返る力)にしている。「お日さまもあたりにくいのに」とかってに考えたけれど、そこに生きている草花、猫にとっても「大切な」場所なんだと気づく。そして、ことばが変わっていく。
 自然に、そういうことをしてしまう人なのだろう。文学の価値は作者の「人柄」によって決まるものではないけれど、私は「人柄」が感じられる作品が好きだ。







*

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長田弘『最後の詩集』(15)

2015-07-14 08:54:07 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(15)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「One day 」は「Forever and a day 」の「a day 」を言い直したもの。「永遠と一日」の「一日」。「一日のおまけ付きの永遠」、「永遠のおまけである/一日」と長田は言い直している。
 「永遠」とは何だろう。この詩集のなかでは「一瞬」を「充実させたもの」という形で表現されていたと思う。「充実」を人間の側(行動する側)から言い直すと「ただに」「ひたすら」「熱心」に行動するということにつながる。そして、そんなふうに「無骨に生きる人たち」(アレッシオ)が作り上げたのが「世界」なのだから、「永遠」とは長田が見ている「世界の美しさ」そのもののように感じられる。
 そのとき「一日」とは何だろう。
 私には、あらかじめ目の前にひろがっている「世界」ではなく、長田が自分で充実させる「世界」のように思える。目の前にある「世界」のなかへ参加していく「長田の世界」。「永遠」のなかへ参加していく「長田の一日」。
 「永遠」は「長田の一日」を受けいれてくれる。「永遠」が「おまけ」をくれるのではなく、「永遠」が長田を「おまけ」として受けいれてくれる。そんな感じに読めてしまう。
 でも「おまけ」になるためには条件がある。「一日」を充実させなければいけない。「充実」させることで、その「一日」が「永遠」につながり、それがまた次の「一日」の充実を誘う。「充実」させることをやめると、「永遠」と「一日」は離れてしまう。「永遠」と無関係な「一日」になってしまう。「永遠と一日」というとき、その「一日」は「永遠」と連続していないといけないのだ。
 長田はどんなふうにして「一日」を充実させたのか。

昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと
紙の上の文字を辿って
変わらぬ千年の悲しみを知る
昔とは今のことである

 「変わらぬ千年の悲しみ」とは「永遠の悲しみ」。「永遠」に結びつくとき「昔」と「今」は「同じもの(ひとつのもの)」になる。「一体」になる。これは、長田が書きつづけている「真実」である。
 この詩のなかで、印象深いのは、そういう「論理」ではなく、ここに「本」が出てくることである。

本をひらく人がいた頃

 長田は「本をひらく人」なのだ。ここに書かれているのは「自画像」なのだ。「本をひらく」とは「紙の上の文字を辿る」ことである。ことばを読むことである。そして、それは「知る」ということだ。
 「知る」ということばは「詩って何だと思う?」のなかに出てきた。

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。

 詩は、ことばで書かれている。だから、この二行は、

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、ことばだ。

 ということになる。さらにいえば、空の色を語るのにふさわしい、充実したことばが必要なのだ。そのことばを通して「空の色」を「知る」。こんなふうにして語ると「空の色」は「空の色になる」ということを「知る」。
 「ことば」には「知る」が凝縮している。「知る」がつまっている。「知る」が、「知ったこと」が、「充実」している。「ことば」には、たとえば「千年(前)の悲しみ」が「変わらぬ」まま、存在している。それに気づく。発見する。そして、それに「同意する」、あるいは「共感する」。それが「知る」なのだ。
 読書家の長田の姿が、ここに静かに語られているだ。

一日のおまけ付きの永遠
永遠のおまけである
一日のための本
人生がよい一日でありますように

 「人生」は「一日」ではない。「ハッシャバイ」のなかで長田は「人生」は「三万回のおやすみなさい(三万日)」でできている、と書いている。けれど、その「三万日(永遠/長い時間)」を「一日(一瞬)」として「充実」させるために、本を読む。ことば(詩)を読む。そして、その「一日」が「永遠の一日」と重なることを「知る」(実感する)のである。
 本を「読む」、「知る」。このことを長田はまた別のことばで書いている。詩のあとに収録されている「日々を楽しむ」という六篇のエッセイ。そのなかの「探すこと」という作品。

 探すこと。ときどきふと、じぶんは人生で何にいちばん時間をつかってきたか考える。答えはわかっている。いつもいちばん時間をつかってきたのは、探すことだった。

 「読む」「知る」は「探す」ことなのである。何を探すか。「ことば」である。ことばを「探して」、ことばに出会って、ことば「発見する(気づく)」。そのことき「探す」が「知る」になる。ことばを「知る」。ことばを「知る」ことは、自分の位置がわかること。自分が「世界」の一員になることだ。
 長田は「ことば」を「探す」とは書いていないが、こんなふうに「ことば」を補って読むと、長田の生き方がわかる。
 「ことば」を省略してしまうのは、それが長田にとってはわかりきったことだからだ。わかりきっているので、明示することを忘れてしまう。「無意識」になって「肉体」にしみついている。こういうことばを私はキーワードと読んでいるが、おさだにとってのそれは「ことば」なのだ。
 でも、そうやって本を読み、「ことば」を知ることで世界の一員になるだけでは、たぶん、だめなのだ。一員になって、その一員であること、個のあり方を充実させないと、一員ではいられない。一員でありつづけることはできない。ほんとうに世界に参加したことにはならないのだ。「長田自身のことば」を充実させるとき、世界も充実する。「一日」を充実させるとき「永遠」も充実する。「充実する/充実させる」という「動詞」のなかで、「永遠」と「長田の一日(ことば)」は溶け合う。

 理屈っぽく書きすぎたかもしれない。長田の張り詰めたことばに理屈を差し挟むことで、いびつな隙間をつくってしまったかもしれない。少し反省している。
最後の詩集
長田 弘
みすず書房

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