北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(2)(思潮社、2015年06月30日発行)
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、きょうは「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。「なぜ」は「どこが」かもしれない。
「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。
「真実を告白します」とひとは言うが、そのときひとは「真実」を語っていない、つまり「嘘」をついているというのは、いわば「常識(真実)」かもしれない。人間はみんな「嘘つき」だ。しかし、こんな「真実」はおもしろくも何ともない。「真実」なんて退屈だし、何やら「教訓めいている」(教科書めいている?)から、うんざりする。
では、北川の書いていることが、なぜ「詩」なのか、どこがおもしろいのか。
簡単だ。
「嘘つき」と呼ばれているのが、ドストエフスキイやマタイ(あるいはキリスト)だからである。尊敬をあつめている人間、偉大な人間が「嘘つき」である。これが、おかしい。「嘘つき」という点では、ふつうの人間とかわりがない。
しかも、「嘘」がへたくそである。ほんとうの「嘘つき」というのは、「嘘」がばれないようにして、ひとを騙すものである。ドストエフスキイもマタイ(イエス)もひとを騙して、自分の「利」を得ようとなどしていない。「湖上を歩いた」など、嘘を通り越した、ばかげた作り話である。「大風呂敷」をひろげる類である。見え透いた「自慢話」である。
いや、ドストエフスキイはほんとうに浴場で少女を犯したかもしれない。でも、ほんとうかどうかなんて、どうでもいい。ひとはそれが「真実」か「嘘」かを気にしていない。そこに語られていることが、自分を刺戟してくるかどうかだけを考えている。スキャンダラスならそれでいいのだ。スキャンダルのなかで、自分のできない「夢」を生きる。そのために、ことばはスキャンダラスでなければいけない。ことばが煽情的なら、それでいいのだ。
スキャンダルとは、広辞苑によれば「不名誉な噂。醜聞。みにくい事件」である。「不名誉」や「みにくい」が似合うのは「偉大な人間」「尊敬を集めている人間」である。「偉大な人間」と「不名誉」の出会いは、手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いのように、ひとを驚かす。つまり「現代詩」なのだ。
で、こういうとき、詩を詩として成立させるのは、実は「量」である。ドストエフスキイが浴場で少女を犯した、というだけでは、もう、「現代人」は驚かない。それくらいしたって、大したことはない。あんなに異常な作品をたくさん書いたのだから、ふつうのひとと同じセックスをしているはずがない。ドストエフスキイなんて長くて難しくて、字が小さいから読んだことないけど、そう思うなあ。
ドストエフスキイだけのスキャンダルなら、それでおしまい。けれど、北川はそれをどんどん書き並べる。
痛快だなあ。豪快だなあ。死んでしまっているひとを「嘘つき」と呼ぶのは、まあ、平気だけれど。谷川俊太郎は生きている。「嘘つき」って言い切っていい? 言ってみたいなあ。鮎川信夫って、「荒地」の詩人のなかで北川が一番尊敬している詩人じゃなかったっけ。「寝た女百六十人」なんて「大風呂敷ひろげて」なんて笑っていい? いやあ、笑い飛ばしたいなあ。そういう「嘘」もついてみたいが、(ニーチェみたいに「女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気!」なんて暴言を吐いてみたいが)、言われたことをそのまま信じてしまうのではなく、そんなの嘘に決まっている、と笑い飛ばすのもいいなあ。やってみたいなあ。
どのことば(暴言?)にも、その瞬間の「感情」がある。それが「理性的」に判断すると否定すべきものであっても、その感情が動いたということは「真実」。これが、きっとポイントなのだ。ことばの奥で「感情」が動いている。「肉体」が動いている。その「動き」、「動いた」ということが、たぶん、絶対的な「真実」なのだ。私たちは、他人の動きにつられて動いてしまうものなのだ。
人間のなかで、何かが動く。動いてしまう。その「動き」を感じる。
で。
「動き」が「真実」なら。(ここから、私は「飛躍する」。)
その「動き」をあおる「動き(ことばのリズム)」が詩にとって重要である。北川は、「意味(人間はみんな嘘つき)」だけでことばを動かしているのではなく、ことばそのものを「意味」にはならないもの、「意味」から断絶したもので動かしている。ことばをリズム(音楽)にしてしまっている。リズムそのものに「意味」はない。言ったひとの名前を行の最後にそろえるという形式をつくり、一行の長さをそろえるという外形的なパターンもつくり、そのなかで、読みやすいように(聞きやすいように)ことばを動かしている。苦労してやっと書いたという印象を与えない。思いついたまま書いた、そうしたらこんな詩ができたという感じでことばを動かしている。このことばのリズムで動くことばの「軽快さ」、リズムをつくり出してしまう「強靱さ」が北川の、詩なのである。
でたらめ、言いたい放題を、ただ書きなぐっているかのように装っているが、そのことばの奥には北川が吸収してきた「日本語」のリズムが生きている。多くのことばを読んで、そのなかで北川がことばを鍛えているということを感じさせる。
これは、たとえば、そこに書かれているドストエフスキイ、マタイ、セリーヌ……の「引用」そのものにもあらわれている。北川は、多くの読書から、そこに書いてあることばを抜き出している。北川は「出典」を知っている。幅広い「出典」。その「幅広さ」が北川のことばを「強靱」にし、「軽快」にしている。「文学」が鍛え上げた「文体」を背後に感じるのである。
「意味」を超えた、ことば自身の「動き方(文体)」、そのエネルギーの配分の具合、そういうものに「文学(詩)」の力を感じる。北川はさまざまな「文体」を自分自身のものとして「つかう」ことができる。「文体」を北川の「肉体(ことばの肉体)」は確立したものとして持っている。それを感じるから、安心できる。
表面的には「笑い」で読者を引きつけ、その背後でゆるぎない「文体」を感じさせる。そこに、この詩の楽しさがある。
北川の「文体の強靱さ」をもっとも感じさせるのは、
「おや、月見草」である。
詩集のなかでは、やわらかな味のある「文体」だ。
この作品について、北川は、
と書いている。自分のことば、自分で見つけ出した世界を書くのではなく、鶴谷の書いたことばをそのまま「引用」する。(そこには、太宰も引用されている。)注釈がなければ「引用」は「剽窃」と呼ばれるかもしれない。注釈があっても「剽窃」と批判するひとがいるかもしれない。
でも、そうではない。「わたしは浴場で少女を犯しました。」がドストエフスキイからの「剽窃」ではないのと同じだ。北川は、ことばを「引用」するとき、そのひと(ドストエフスキイ)になって、ことばの「動き」そのものを再現している。「意味」ではなく、「動き方」を示している。北川の「肉体」がおぼえているものを、北川の「ことばの肉体」として、再現している。(パフォーマンスしている、と言えばいいのかも……。)
「引用」するという行為のなかには「出典(原典)」と、それを引用する北川の「ことばの肉体」のセックスがある。「一体」になったうえで、セックスすることで生じた変化(エクスタシー)を「北川のことばの肉体」を素肌かとして読者にさらしている。その動きがぎくしゃくせず、違和感がないものに見えるのは、北川の「ことばの肉体」がいろいろな「文体」を引き継ぐことができるだけの幅の広さを持っているからである。背後の「文体の蓄積」という「教養」があるのだ。こんなに自分の外(エクスタシー)まで行ってしまっても、まだ「自分(自分のことばの肉体)」であるという「連続」する強靱さがある。
「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」、私は「北川の文体が強靱だからだ」と答えよう。
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、きょうは「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。「なぜ」は「どこが」かもしれない。
「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。
真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
「真実を告白します」とひとは言うが、そのときひとは「真実」を語っていない、つまり「嘘」をついているというのは、いわば「常識(真実)」かもしれない。人間はみんな「嘘つき」だ。しかし、こんな「真実」はおもしろくも何ともない。「真実」なんて退屈だし、何やら「教訓めいている」(教科書めいている?)から、うんざりする。
では、北川の書いていることが、なぜ「詩」なのか、どこがおもしろいのか。
簡単だ。
「嘘つき」と呼ばれているのが、ドストエフスキイやマタイ(あるいはキリスト)だからである。尊敬をあつめている人間、偉大な人間が「嘘つき」である。これが、おかしい。「嘘つき」という点では、ふつうの人間とかわりがない。
しかも、「嘘」がへたくそである。ほんとうの「嘘つき」というのは、「嘘」がばれないようにして、ひとを騙すものである。ドストエフスキイもマタイ(イエス)もひとを騙して、自分の「利」を得ようとなどしていない。「湖上を歩いた」など、嘘を通り越した、ばかげた作り話である。「大風呂敷」をひろげる類である。見え透いた「自慢話」である。
いや、ドストエフスキイはほんとうに浴場で少女を犯したかもしれない。でも、ほんとうかどうかなんて、どうでもいい。ひとはそれが「真実」か「嘘」かを気にしていない。そこに語られていることが、自分を刺戟してくるかどうかだけを考えている。スキャンダラスならそれでいいのだ。スキャンダルのなかで、自分のできない「夢」を生きる。そのために、ことばはスキャンダラスでなければいけない。ことばが煽情的なら、それでいいのだ。
スキャンダルとは、広辞苑によれば「不名誉な噂。醜聞。みにくい事件」である。「不名誉」や「みにくい」が似合うのは「偉大な人間」「尊敬を集めている人間」である。「偉大な人間」と「不名誉」の出会いは、手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いのように、ひとを驚かす。つまり「現代詩」なのだ。
で、こういうとき、詩を詩として成立させるのは、実は「量」である。ドストエフスキイが浴場で少女を犯した、というだけでは、もう、「現代人」は驚かない。それくらいしたって、大したことはない。あんなに異常な作品をたくさん書いたのだから、ふつうのひとと同じセックスをしているはずがない。ドストエフスキイなんて長くて難しくて、字が小さいから読んだことないけど、そう思うなあ。
ドストエフスキイだけのスキャンダルなら、それでおしまい。けれど、北川はそれをどんどん書き並べる。
真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
労働者のために誰が一番尽くしてくれたか。ヒトラーさ。セリーヌ。
女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気! ニーチェ。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。
皇統、千万世の末までにうごきたまはぬ。これぞよろづの理。宣長。
一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけで百六十人。鮎川信夫。
猿が人間化するのに最もあずかった力は労働であった。エンゲルス。
私は殆ど生きた気がしない。鼻を摘み通り過ぎただけ。三島由紀夫。
痛快だなあ。豪快だなあ。死んでしまっているひとを「嘘つき」と呼ぶのは、まあ、平気だけれど。谷川俊太郎は生きている。「嘘つき」って言い切っていい? 言ってみたいなあ。鮎川信夫って、「荒地」の詩人のなかで北川が一番尊敬している詩人じゃなかったっけ。「寝た女百六十人」なんて「大風呂敷ひろげて」なんて笑っていい? いやあ、笑い飛ばしたいなあ。そういう「嘘」もついてみたいが、(ニーチェみたいに「女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気!」なんて暴言を吐いてみたいが)、言われたことをそのまま信じてしまうのではなく、そんなの嘘に決まっている、と笑い飛ばすのもいいなあ。やってみたいなあ。
どのことば(暴言?)にも、その瞬間の「感情」がある。それが「理性的」に判断すると否定すべきものであっても、その感情が動いたということは「真実」。これが、きっとポイントなのだ。ことばの奥で「感情」が動いている。「肉体」が動いている。その「動き」、「動いた」ということが、たぶん、絶対的な「真実」なのだ。私たちは、他人の動きにつられて動いてしまうものなのだ。
人間のなかで、何かが動く。動いてしまう。その「動き」を感じる。
で。
「動き」が「真実」なら。(ここから、私は「飛躍する」。)
その「動き」をあおる「動き(ことばのリズム)」が詩にとって重要である。北川は、「意味(人間はみんな嘘つき)」だけでことばを動かしているのではなく、ことばそのものを「意味」にはならないもの、「意味」から断絶したもので動かしている。ことばをリズム(音楽)にしてしまっている。リズムそのものに「意味」はない。言ったひとの名前を行の最後にそろえるという形式をつくり、一行の長さをそろえるという外形的なパターンもつくり、そのなかで、読みやすいように(聞きやすいように)ことばを動かしている。苦労してやっと書いたという印象を与えない。思いついたまま書いた、そうしたらこんな詩ができたという感じでことばを動かしている。このことばのリズムで動くことばの「軽快さ」、リズムをつくり出してしまう「強靱さ」が北川の、詩なのである。
でたらめ、言いたい放題を、ただ書きなぐっているかのように装っているが、そのことばの奥には北川が吸収してきた「日本語」のリズムが生きている。多くのことばを読んで、そのなかで北川がことばを鍛えているということを感じさせる。
これは、たとえば、そこに書かれているドストエフスキイ、マタイ、セリーヌ……の「引用」そのものにもあらわれている。北川は、多くの読書から、そこに書いてあることばを抜き出している。北川は「出典」を知っている。幅広い「出典」。その「幅広さ」が北川のことばを「強靱」にし、「軽快」にしている。「文学」が鍛え上げた「文体」を背後に感じるのである。
「意味」を超えた、ことば自身の「動き方(文体)」、そのエネルギーの配分の具合、そういうものに「文学(詩)」の力を感じる。北川はさまざまな「文体」を自分自身のものとして「つかう」ことができる。「文体」を北川の「肉体(ことばの肉体)」は確立したものとして持っている。それを感じるから、安心できる。
表面的には「笑い」で読者を引きつけ、その背後でゆるぎない「文体」を感じさせる。そこに、この詩の楽しさがある。
北川の「文体の強靱さ」をもっとも感じさせるのは、
「おや、月見草」である。
バスに揺られて御坂峠の茶屋に帰る時、
「僕」の隣に座っていた老婆が、
「おや、月見草」といって、路傍の花ひとつを、
ゆびさしました。--こんな演出ができるなんて、
こころにくいなぁ。ここでわたしはおののき震えました。
三七七六米の、日本一俗な富士。
それと立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、
すくっと立っていた、金剛力草とでも言いたい、
けなげな月見草。富士に月見草はよく似合う?
似合わないか? じゃないよ。
このシュールな組み合わせに驚いたら?
詩集のなかでは、やわらかな味のある「文体」だ。
この作品について、北川は、
鶴谷賢三の著作『太宰治 作家と作品』(有精堂)の中の「『富嶽百景』鑑賞」から、全面的に引用しています。
と書いている。自分のことば、自分で見つけ出した世界を書くのではなく、鶴谷の書いたことばをそのまま「引用」する。(そこには、太宰も引用されている。)注釈がなければ「引用」は「剽窃」と呼ばれるかもしれない。注釈があっても「剽窃」と批判するひとがいるかもしれない。
でも、そうではない。「わたしは浴場で少女を犯しました。」がドストエフスキイからの「剽窃」ではないのと同じだ。北川は、ことばを「引用」するとき、そのひと(ドストエフスキイ)になって、ことばの「動き」そのものを再現している。「意味」ではなく、「動き方」を示している。北川の「肉体」がおぼえているものを、北川の「ことばの肉体」として、再現している。(パフォーマンスしている、と言えばいいのかも……。)
「引用」するという行為のなかには「出典(原典)」と、それを引用する北川の「ことばの肉体」のセックスがある。「一体」になったうえで、セックスすることで生じた変化(エクスタシー)を「北川のことばの肉体」を素肌かとして読者にさらしている。その動きがぎくしゃくせず、違和感がないものに見えるのは、北川の「ことばの肉体」がいろいろな「文体」を引き継ぐことができるだけの幅の広さを持っているからである。背後の「文体の蓄積」という「教養」があるのだ。こんなに自分の外(エクスタシー)まで行ってしまっても、まだ「自分(自分のことばの肉体)」であるという「連続」する強靱さがある。
「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」、私は「北川の文体が強靱だからだ」と答えよう。
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