詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「雪の轍」(★★★★)

2015-07-15 22:51:52 | 映画
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「雪の轍」(★★★★)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 ハルク・ビルギナー、メリサ・ソゼン、デメット・アクバァ

 トルコ・カッパドキアの洞窟ホテルを舞台に、元俳優でトルコ演劇史を書こうとしている男、その妻、男の妹(離婚して帰ってきている)の三人の確執を描いている。ほかにも登場人物はいるのだが、基本は三人である。いや、「相手を受けいれない」という「性格(人格)」が三様に(あるいは他の登場人物を含めた人数の数だけのあり方として)描かれるといえばいいのか。まるで一人一人が「洞窟」に閉じこもって、そこから他人を見ている感じである。他人を受けいれるも何も、自分の「洞窟」から出て行かないのだから、これでは「和解」というものはありえない。「他者」を受けいれるということは、自分が無防備になることなのだが、三人ともことばで「洞窟」をつくって、そこから出て行かない。常に自分の「論理」という「洞窟」へ引きこもり、相手を批判する。この緊張感は、なかなかつらい。「台詞」を追いかけるのが、つらい。その「台詞」がどれも「自己主張」の繰り返しであるのが、さらにつらい。
 私は、その緊迫したことばのぶつかりあいよりも、字幕を読まなくてもすむことばのないシーンにひかれた。特に野生の馬をつかまえるシーンがすごい。トルコの馬を最初に見たのはユルマズ・ギュネイ監督「路」。競馬馬と違って人工的な感じがしなくて、体が流れるように美しい。今回登場する馬も美しい。その美しい馬が首に輪をかけられ、川のなかで半分おぼれさせるように苦しめられる。苦しくなって、暴れる力がなくなったところをひきあげる。川からひきあげられて、足をおり、馬はやっと息をしている。その肉体の苦悩が美しい。苦しみが、見ている私にじかに響いてくる。馬にあわせて息をしてしまいそうなくらいである。映画を見ているうちに、その苦しい肉体のあえぎが、若い妻の苦悩と重なってくる。あ、あの白い馬は妻なのだ、と思えてくる。映画のなかでは、男が妻を「自分のことを籠の鳥と思っているか」というようなことばで批判するが、「籠の鳥」では瀕死の苦しみと重ならない。それで、なおのこと妻が白い馬に見える。この馬は、最後に野にかえされるのだが、このことも馬こそが妻の「象徴」だったのだと思わせる。
 「象徴」という点から映画を振り返ると、冒頭近く、こどもの投石で割られる車の窓ガラス。あれは主人公の男の「象徴」である。蜘蛛の素状にひびが入る。まだ、かろうじて砕けずに「一枚」につながっている。車のガラスは取り替えがきくが、男のこころは取り替えがきかない。他人のことばの礫を受けて、ひびのはいったこころ。それをそのまま、そっとつなぎとめるように、抱え込むしかない。このガラスのひびのつらさは、男にとっては取り換えようのないガラスなのに、他人からはそうは見えないことだ。「こころ」は見えない。ことばの礫がこころを傷つけた瞬間は、男の反応によって男が傷ついたことはわかるが、次の瞬間に男が反論すると、もうガラスは取り換えられていつものガラスにもどってしまったようにしか見えない。映画のなかでは、車のガラスは取り換えられ、それにひびが入ったということは忘れられてしまう。言われれば思い出すが、車の外形からは、その記憶は消えている。実際、男の「こころの傷」は瞬間瞬間に、消えてしまう形で描かれる。男は妻のように「涙」で悲しみをあらわすこともない。
 厖大な「台詞」の一方、ことばではない表現をする登場人物がいる。車に石を投げた少年。彼はほとんどことばを口にしない。無言の、じっと見つめる目が少年のことばである。男に謝罪のキスをするはずが、失神して倒れる。そのときの、男の「論理」とは無縁の目。さらに若い妻が少年の家に大金を持っていく。その大金を父親が暖炉へ放り込み燃やしてしまう。それをドアの隙間からじっと見ているときの目。見ることが少年にとって「世界」を受けいれることなのだ。だから、失神したときの目は、「謝罪するという論理(世界のあり方)」を拒絶(拒否)しているということでもある。少年は主要な登場人物ではないかもしれないが、重要である。
 映画は、この少年の目をカメラにしているわけではないが、少年の目のように、そこにある「世界」をそのまま「映像」として受けいれている。カメラはことばで世界を批判しない。「洞窟」のなかにも入るが、「洞窟」からも出てゆく。カッパドキアの風景をまるごととらえ、そのなかで動き気象(雪)の変化もとらえれば、水の動きもとらえる。それは、登場人物の「心情」とは無関係に、全体的な美しさでそこにある。存在すること事態が美しさになっている。ことばにしないことが、美しさを尊厳にまで高めている。
 私は目が悪いので、途中から字幕を読むのをやめてしまったが、最初から字幕を読まないで見ていたら、印象が違ってきたかもしれない。この映画のつかみとった厳しい美しさが、もっと生々しくつたわってきたかもしれない。「字幕の台詞」というのは、だいたいおぼえらていられない。見終わったあとは、ほとんど忘れている。しかし、台詞は忘れているが、ストーリーはおぼえている。台詞とはその程度のものだから、こういう台詞が主体になった映画でも、映像に集中してみれば、そこに起きていることはわかる。役者の肉体の動きが、観客の肉体がおぼえていることを刺戟し、男と妻がけんかしている、みんな自己主張するばかりで他人のことを思っていない、ということがわかる。字幕に頼らずに映画を見れば、きっと★5個の映画にかわるだろう。
                             (KBCシネマ2)
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高塚謙太郎『memories』

2015-07-15 09:37:24 | 詩集
高塚謙太郎『memories』(Aa企画、2015年07月25日発行)

 高塚謙太郎『memories』は、私の肉体にはかなり負担が大きい一冊だった。視力が弱い私にはフォントの密集感(特に肉太の感じ)が、文字を網膜に強制的に焼き付けられるような苦しさで迫ってくる。まあ、こういう感じも詩の一部なのだが。

 「『肺姉妹』」という作品。(タイトルが『 』のなかに入っている。)「肺」と「姉」は「市」という文字を右側に共有している。「姉妹」は「女」という文字を左側に共有している。ひとまとめにして読むと、文字のなかで「複視」が起きたような、一瞬、目を閉じたいような苦しさで迫ってくる。

姉は肺をかかえて階段を上っている。息の揺れ、が階段はあと何段ですと告げ知らせている。

 この書き出しのなかで、「複視」はさらに激しくなる。「姉は肺をかかえて階段を上っている。」は「肺」を肉体的に強く感じながら(肺の苦しさをかかえながら)階段を上るということであって、「肉体」の外にだれかの「肺」かかえてということではないのだろうけれど、「姉」と「肺」が交錯すると、「女」の「肉づき(漢字の左側の月をそう呼ぶと記憶しているが)/肉体」を破って「市」が出入りしているような、奇妙な印象がしてくる。「女」が透明になり「肉体」の「市」が見える、「姉」の「市」と重なったり、離れたり、「複視」の現象そのものに見える。
 そのあとの「息の揺れ」は「肺の乱れ(呼吸の乱れ)」をあらわしているのだと思う。「肺」が苦しくて、もだえる。そして「揺れる」。その「揺れ」は、そのまま「複視」の揺れに見えるし、それが「息の揺れ、が」と読点「、」を挟んで動くときは、その「、」がつくりだす「間」がまた「複視」の重なりのあいだの「間」のようで、なんとも厳しい。「複視」の「間」のぶつかりあいが、「息」という形で動いている。
 さらに、これに「告げ知らせる」という「動詞」の「複視(?)」が追い打ちをかける。「告げる」か「知らせる」で「意味」は十分に伝わると思うが、これを「告げ知らせる」と重複させている。
 あ、つらいなあ。

階段は次第に黒ずみながら上方へと縮れている。息の揺れ、が必ず次には少ない階段を述べるわけだが、姉が立ち止まると肺が鬱血し、記憶の書き換えが起こってしまうこともある。

 「階段は次第に黒ずみながら上方へと縮れている。」は、苦しい肺(息の揺れ)には階段の上方が変形して迫ってくるということだろう。「縮れる」は短くなるというのではなく、萎縮し、そこを上るには肉体をかがめるとか、なにかをしないといけないということ。ふつうの姿勢ではのぼれない、肉体的に困難さが増すということを語っているだろう。
 肉体的に負担が大きくなるから、「息」は負担の少ない階段を選びたがる。(息の揺れ、が必ず次には少ない階段を述べる。)その選択の瞬間、立ち止まる。立ち止まると呼吸が乱れ(一定のリズムが瞬間的に変化し)、それが肺に響く。肺のなかで「鬱血」が起こる。それは、そういうことが何度もあって肉体にしまいこまれているので、あれこれの「記憶」となって甦る。--そういうことを書いているのだと思うのだが、この「記憶の書き換え」の「書き換え」が、また「複視」のように感じられる。ひとつのこと(記憶)が書き換えられるとき、そこにはなにか共通ものも(「姉/肺」の「市」のようなもの)があって、そこに共通しないもの(「姉/肺」の「女」と「月」)がずれながら重なる。そういう印象を刺戟してくる。
 このあと、「妹」が出てくる。

肺に委ねられた姉の前進作業は美しく繰り返される。息の揺れ、はその美しさの妹になる。

 姉が階段を上る(前進する)ことは、肺の能力次第。肺が息ができれば上るし、できないときは立ち止まる。それは過去の肉体の苦しさ(記憶)を繰り返しながら、改められる。繰り返しは、そのまま繰り返されるのではなく、書き換えられながらつづく。それを「美しく/美しさ(美しい)」ということばのなかに閉じ込めている。
 この「美しさ」に重なるように登場する「妹」は、実在の「妹」か。私には「複視」が呼び覚ました「幻の妹」、「不在の妹/非在の妹」のように思える。「複視」が要求する「幻想」としての「美しさ」に感じられる。それを「幻想」と仮定することで、「複視」の「複(間のずれ/重なり)」が、頭のなかで調整される。
 調整するといっても、それは「混乱」でもあるのだけれど……。

鬱血と妹、は姉の肺の文字のようなものということになるだろう。妹は数値を告げる上で姉の記憶の肺を先回りしていて、それは姉が立ち止まることで鬱血する肺の書き換えられる姉の、妹の、誤った、思い出、を次から次へと書き換えていくことに似ている。

 「肺/姉/妹」を分断し、また接続するものとして「鬱血」がある。「鬱血」が「肺」を意識させ、その鬱血が「妹」を必要とする。ここにいるのは「ひとりの女」なのだが、その女が肺(息)の苦しさにもだえるとき、その「肉体」をととのえるために「妹」が捏造される。肉体が妹という分身を要求する。その「妹」は「数値を告げる」のだが、この「数値」とは書き出しに出てきた「階段はあと何段です」の「何段」という「数値」である。書き出しでは「(姉の)息の揺れ」が「告げ知らせている」が、それはここでは「妹」になって「告げる」。「(姉の)息の揺れ」が「妹」であり、それは「書き換えられた記憶」(幼いときの姉、つまり姉から見れば妹のような存在)である。「記憶(過去)」から息の揺れ(肺の苦しさ)はつづいていて、それを「姉」は「妹」として認識しているということだろう。

 私は目が悪いので、高塚の書いていることばの細部を詳細にたどることはできないが、そんなふうに「書き換え」ながら読んだ/読み替えた。
 他の作品にも「息の揺れ、が階段はあと何段ですと告げ知らせている。」の読点「、」と似たつかい方があるが、この作品がいちばん効果的に「息(肉体)」をつかっていると感じられた。


ハポン絹莢
高塚 謙太郎
株式会社思潮社

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