シャルル・ビナメ監督「エレファント・ソング」(★★)
監督 シャルル・ビナメ 出演 グザビエ・ドラン、ブルース・グリーンウッド、キャサリン・キーナー
ひとりの医師の所在が確認できない。いなくなった医師について知っているのはひとりの患者である。その患者から「事実」を聞き出そうとする。話している過程で、患者は「殺した」と言う。「自分には、母親を殺した前科がある」とも。医師は患者の話を疑いながらも徐々に引き込まれていく。ということが、精神病院を舞台にして繰り広げられる。心理劇ということになるのだろう。
でも、心理劇を精神病院を舞台にして展開する、というのは安直な感じがいなめない。精神的に問題を抱えているひとが異常な行動(発言)をしても、それは病気だからということで、強引に押し切られてしまうことになる。この映画は、そこまではしていないけれど。
当然といえば当然なのだが、見どころはグザビエ・ドランの演技。院長(ブルース・グリーンウッド)がグザビエ・ドランから知っていることを聞き出そうとするが、ときどき動揺してしまう。その瞬間をとらえて、患者と院長の立場が逆転する。グザビエ・ドランが院長の動揺に踏み込むように、冷静に「質問」を投げかける。ぐさりとこたえる、いやな「質問/反論」だ。それは院長がこころのなかで言い直している「声」のようである。グザビエ・ドランは、瞬間的に、向き合っている相手の「こころの声」を聞き取ってしまうのである。この立場がいれかわる瞬間を、常にグザビエ・ドランがリードしてゆく。そのときの「間合い」と「顔の表情」「声の変化」が絶妙である。エドワート・ノートンを最初に見たときのような生々しい「嘘」、「嘘」にかける「肉体」というものを感じる。映画の特権を利用して、その瞬間をアップで見せるのは常套というものだが、その常套が効いている。
でも、それ以外は、この心理劇の駆け引きはおもしろくない。
だいたい他人のこころの動きがわかるという「能力」は、特異なものではない。ストーリーにそっていうと、グザビエ・ドランの母は有名なオペラ歌手である。母親は子どもに愛情をもっていない。キャリアの邪魔になると感じている。一緒にいたいのに、母は息子を遠ざける。息子は「愛していない」という「声」を聞き取ってしまう。こういうことは、愛されていない子どもならだれでも聞き取る「声」である。愛されているか、いないか、ということは人間は本能的にわかってしまう。子どもでもわかってしまうというよりも、子どもだからこそ敏感にわかってしまう、ということかもしれない。
グザビエ・ドランは、その「本能的な力」をそのままもちつづけている。愛されていないと本能的にわかる子どもは、何をすれば嫌われるかも本能的にわかっている。嫌われるとわかっていても、そうするのは「嫌う」という直接的な行為を母から受け止めたいからである。彼がいちばん嫌いなのは「無反応」である。愛されないなら、無反応でいいというのではなく、愛されないなら、せめて嫌われたい。嫌われるという形でもいいから、直接母親と接したい。肉体まるごと、甘えたい。
グザビエ・ドランは、いはば母親に対する態度をそのまま他人にぶつけているのである。院長にだけではなく、所在のわからない医師に対しても、そうやって接してきた。しかし、担当医師は、それにこたえなかった。院長もまた母親ではないから、それを「本能」的に受け止められない。どうしても「論理」で受け止めて、分析し、推論し、理解しようとするから、混乱し、翻弄されてしまう。院長が最後にミスを犯してしまうのは、もうわかりきっている。(映画が「審問」からはじまるのは院長がミスを犯しますよ、というあからさまな伏線なので、かなりしらける。)
だから、この映画のほんとうの見どころは、グザビエ・ドランではないのかもしれない。
グザビエ・ドランから話を聞き出そうとする院長は離婚している。元の妻(キャサリン・キーナー)は同じ病院で働いている看護師長である。院長と元妻には娘がいたのだが、元妻と湖へ行ったとき、事故で死んでしまった。それが原因で二人は離婚した。その看護師長は子どもを亡くしたが、ずっーと「母親」である。母親であるから、グザビエ・ドランの「甘えたい」がわかる。「甘えたい」を受け止めることができる。母を亡くしたグザビエ・ドランと娘を亡くしたキャサリン・キーナーがこころを通い合わせるがゆえに、さらにグザビエ・ドランとブルース・グリーンウッドの対話がうまくいかない、という「複雑な展開」--それが見どころかもしれない。
でもねえ……。
うーん、それがほんとうの狙いなら、これは「芝居」のままの方がよかったなあ。映画だと、どうしてもグザビエ・ドラの「異常な演技(正格異常?)」に視線が奪われてしまう。「ことば」のなかの「悲鳴」が聞こえにくくなる。
(2015年07月08日、KBCシネマ1)
*
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監督 シャルル・ビナメ 出演 グザビエ・ドラン、ブルース・グリーンウッド、キャサリン・キーナー
ひとりの医師の所在が確認できない。いなくなった医師について知っているのはひとりの患者である。その患者から「事実」を聞き出そうとする。話している過程で、患者は「殺した」と言う。「自分には、母親を殺した前科がある」とも。医師は患者の話を疑いながらも徐々に引き込まれていく。ということが、精神病院を舞台にして繰り広げられる。心理劇ということになるのだろう。
でも、心理劇を精神病院を舞台にして展開する、というのは安直な感じがいなめない。精神的に問題を抱えているひとが異常な行動(発言)をしても、それは病気だからということで、強引に押し切られてしまうことになる。この映画は、そこまではしていないけれど。
当然といえば当然なのだが、見どころはグザビエ・ドランの演技。院長(ブルース・グリーンウッド)がグザビエ・ドランから知っていることを聞き出そうとするが、ときどき動揺してしまう。その瞬間をとらえて、患者と院長の立場が逆転する。グザビエ・ドランが院長の動揺に踏み込むように、冷静に「質問」を投げかける。ぐさりとこたえる、いやな「質問/反論」だ。それは院長がこころのなかで言い直している「声」のようである。グザビエ・ドランは、瞬間的に、向き合っている相手の「こころの声」を聞き取ってしまうのである。この立場がいれかわる瞬間を、常にグザビエ・ドランがリードしてゆく。そのときの「間合い」と「顔の表情」「声の変化」が絶妙である。エドワート・ノートンを最初に見たときのような生々しい「嘘」、「嘘」にかける「肉体」というものを感じる。映画の特権を利用して、その瞬間をアップで見せるのは常套というものだが、その常套が効いている。
でも、それ以外は、この心理劇の駆け引きはおもしろくない。
だいたい他人のこころの動きがわかるという「能力」は、特異なものではない。ストーリーにそっていうと、グザビエ・ドランの母は有名なオペラ歌手である。母親は子どもに愛情をもっていない。キャリアの邪魔になると感じている。一緒にいたいのに、母は息子を遠ざける。息子は「愛していない」という「声」を聞き取ってしまう。こういうことは、愛されていない子どもならだれでも聞き取る「声」である。愛されているか、いないか、ということは人間は本能的にわかってしまう。子どもでもわかってしまうというよりも、子どもだからこそ敏感にわかってしまう、ということかもしれない。
グザビエ・ドランは、その「本能的な力」をそのままもちつづけている。愛されていないと本能的にわかる子どもは、何をすれば嫌われるかも本能的にわかっている。嫌われるとわかっていても、そうするのは「嫌う」という直接的な行為を母から受け止めたいからである。彼がいちばん嫌いなのは「無反応」である。愛されないなら、無反応でいいというのではなく、愛されないなら、せめて嫌われたい。嫌われるという形でもいいから、直接母親と接したい。肉体まるごと、甘えたい。
グザビエ・ドランは、いはば母親に対する態度をそのまま他人にぶつけているのである。院長にだけではなく、所在のわからない医師に対しても、そうやって接してきた。しかし、担当医師は、それにこたえなかった。院長もまた母親ではないから、それを「本能」的に受け止められない。どうしても「論理」で受け止めて、分析し、推論し、理解しようとするから、混乱し、翻弄されてしまう。院長が最後にミスを犯してしまうのは、もうわかりきっている。(映画が「審問」からはじまるのは院長がミスを犯しますよ、というあからさまな伏線なので、かなりしらける。)
だから、この映画のほんとうの見どころは、グザビエ・ドランではないのかもしれない。
グザビエ・ドランから話を聞き出そうとする院長は離婚している。元の妻(キャサリン・キーナー)は同じ病院で働いている看護師長である。院長と元妻には娘がいたのだが、元妻と湖へ行ったとき、事故で死んでしまった。それが原因で二人は離婚した。その看護師長は子どもを亡くしたが、ずっーと「母親」である。母親であるから、グザビエ・ドランの「甘えたい」がわかる。「甘えたい」を受け止めることができる。母を亡くしたグザビエ・ドランと娘を亡くしたキャサリン・キーナーがこころを通い合わせるがゆえに、さらにグザビエ・ドランとブルース・グリーンウッドの対話がうまくいかない、という「複雑な展開」--それが見どころかもしれない。
でもねえ……。
うーん、それがほんとうの狙いなら、これは「芝居」のままの方がよかったなあ。映画だと、どうしてもグザビエ・ドラの「異常な演技(正格異常?)」に視線が奪われてしまう。「ことば」のなかの「悲鳴」が聞こえにくくなる。
(2015年07月08日、KBCシネマ1)
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