詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

シャルル・ビナメ監督「エレファント・ソング」(★★)

2015-07-09 10:59:28 | 映画
シャルル・ビナメ監督「エレファント・ソング」(★★)

監督 シャルル・ビナメ 出演 グザビエ・ドラン、ブルース・グリーンウッド、キャサリン・キーナー

 ひとりの医師の所在が確認できない。いなくなった医師について知っているのはひとりの患者である。その患者から「事実」を聞き出そうとする。話している過程で、患者は「殺した」と言う。「自分には、母親を殺した前科がある」とも。医師は患者の話を疑いながらも徐々に引き込まれていく。ということが、精神病院を舞台にして繰り広げられる。心理劇ということになるのだろう。
 でも、心理劇を精神病院を舞台にして展開する、というのは安直な感じがいなめない。精神的に問題を抱えているひとが異常な行動(発言)をしても、それは病気だからということで、強引に押し切られてしまうことになる。この映画は、そこまではしていないけれど。
 当然といえば当然なのだが、見どころはグザビエ・ドランの演技。院長(ブルース・グリーンウッド)がグザビエ・ドランから知っていることを聞き出そうとするが、ときどき動揺してしまう。その瞬間をとらえて、患者と院長の立場が逆転する。グザビエ・ドランが院長の動揺に踏み込むように、冷静に「質問」を投げかける。ぐさりとこたえる、いやな「質問/反論」だ。それは院長がこころのなかで言い直している「声」のようである。グザビエ・ドランは、瞬間的に、向き合っている相手の「こころの声」を聞き取ってしまうのである。この立場がいれかわる瞬間を、常にグザビエ・ドランがリードしてゆく。そのときの「間合い」と「顔の表情」「声の変化」が絶妙である。エドワート・ノートンを最初に見たときのような生々しい「嘘」、「嘘」にかける「肉体」というものを感じる。映画の特権を利用して、その瞬間をアップで見せるのは常套というものだが、その常套が効いている。
 でも、それ以外は、この心理劇の駆け引きはおもしろくない。
 だいたい他人のこころの動きがわかるという「能力」は、特異なものではない。ストーリーにそっていうと、グザビエ・ドランの母は有名なオペラ歌手である。母親は子どもに愛情をもっていない。キャリアの邪魔になると感じている。一緒にいたいのに、母は息子を遠ざける。息子は「愛していない」という「声」を聞き取ってしまう。こういうことは、愛されていない子どもならだれでも聞き取る「声」である。愛されているか、いないか、ということは人間は本能的にわかってしまう。子どもでもわかってしまうというよりも、子どもだからこそ敏感にわかってしまう、ということかもしれない。
 グザビエ・ドランは、その「本能的な力」をそのままもちつづけている。愛されていないと本能的にわかる子どもは、何をすれば嫌われるかも本能的にわかっている。嫌われるとわかっていても、そうするのは「嫌う」という直接的な行為を母から受け止めたいからである。彼がいちばん嫌いなのは「無反応」である。愛されないなら、無反応でいいというのではなく、愛されないなら、せめて嫌われたい。嫌われるという形でもいいから、直接母親と接したい。肉体まるごと、甘えたい。
 グザビエ・ドランは、いはば母親に対する態度をそのまま他人にぶつけているのである。院長にだけではなく、所在のわからない医師に対しても、そうやって接してきた。しかし、担当医師は、それにこたえなかった。院長もまた母親ではないから、それを「本能」的に受け止められない。どうしても「論理」で受け止めて、分析し、推論し、理解しようとするから、混乱し、翻弄されてしまう。院長が最後にミスを犯してしまうのは、もうわかりきっている。(映画が「審問」からはじまるのは院長がミスを犯しますよ、というあからさまな伏線なので、かなりしらける。)
 だから、この映画のほんとうの見どころは、グザビエ・ドランではないのかもしれない。
 グザビエ・ドランから話を聞き出そうとする院長は離婚している。元の妻(キャサリン・キーナー)は同じ病院で働いている看護師長である。院長と元妻には娘がいたのだが、元妻と湖へ行ったとき、事故で死んでしまった。それが原因で二人は離婚した。その看護師長は子どもを亡くしたが、ずっーと「母親」である。母親であるから、グザビエ・ドランの「甘えたい」がわかる。「甘えたい」を受け止めることができる。母を亡くしたグザビエ・ドランと娘を亡くしたキャサリン・キーナーがこころを通い合わせるがゆえに、さらにグザビエ・ドランとブルース・グリーンウッドの対話がうまくいかない、という「複雑な展開」--それが見どころかもしれない。
 でもねえ……。
 うーん、それがほんとうの狙いなら、これは「芝居」のままの方がよかったなあ。映画だと、どうしてもグザビエ・ドラの「異常な演技(正格異常?)」に視線が奪われてしまう。「ことば」のなかの「悲鳴」が聞こえにくくなる。
                      (2015年07月08日、KBCシネマ1)




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長田弘『最後の詩集』(10)

2015-07-09 09:04:41 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(10)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アレッツォへ」で「光の恩寵」と呼ばれていたものは、「アッシジにて」では次のように言われてる。

街と畑と野と丘と空を、わたしは
見ているのに、わたしが見ているのは、
(見るとはしんと感じることだった)
わたしがいま、ここに在る、
この場所をつつむ風光なのだった。

 これは、わたしをつつむ「風光」の「恩寵」、あるいは、わたしをつつむ「風光」という「恩寵」によって、わたしは「ここ(この場所)に在る」ということ。そして「この場所」とは「アッシジにて」のことばを借りて言えば「無骨に生きる人たちの世界の像」としての「風景」のただなかのことである。そう長田は気づいた。気づかされた。(これに先立つ行に、「気づいた」ということばがアッシジの街と畑と野と丘と空を「見つめる(見る)」という動詞といっしょに書かれている。)
 「見る」「気づく」は「発見する」「知る」ということばにつながるが、ここではさらに、

(見るとはしんと感じることだった)

 と書かれている。「発見する/知る」は精神の活動。「感じる」は「精神」というよりも「こころ」の動き。
 「恩寵」も「知る」のではなく「感じる」ものだろう。
 わたしをつつむ「風光」によって、わたしはここに在ると感じるとき、長田はそのことを「恩寵」として感じている。
 この「感じる」に「しんと」ということばがついている。「しん」は「沈黙して/静かに」ということ。ことばを発せずに、ただ受けいれるということ。ことばを捨てて、ことばを「無」にして、受けいれること。
 この光景を、長田は、また別のことばで言い直している。

聖堂も、教会も、大いなる修道院も、
中世来の建物も、街の普通の家々も、
幼な子の肌色をした風光のなかに溶け入って、
(風の音、そして消えてゆく鐘の音)
ウンブリアの陽光が、明るい沈黙のように
夏の丘を下って、ひろがっていた。

 「恩寵」としての「光景」を受けいれたとき、長田は風光のなかに「溶け入って」しまう。「溶け入った」のは建物だけではない。長田も溶け入って、風光そのものになる。そして、「ひろがって」いく。「しんと」ということばは「沈黙」と言い直されている。風の音も鐘の音も消えて(沈黙して)、光がひろがる。このひろがるは、「充実」を言い直したものでもある。光がひろがり、光が満ちる。
 その至福のなかにいる長田に問いかけるものがある。

どこからきたの? 雑草と石ころが言った。
どこへゆくの? 小さなトカゲが言った。

 書いていないが、長田はきっとこう答えたのだ。「どこへもゆかない。ここにいる。どこへでもゆく。ここにいる。」と。「ここ」が、すべて。「ここ」が「永遠」。
 長田が光景をことばにする。そのとき、あらゆる場所が「ここ」になる。「ここ」こそが「恩寵」がおこなわれる場所なのだ。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房
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