詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(14)

2015-07-13 10:40:30 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(14)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「詩のカノン」も「昔ずっと昔ずっとずっと昔、」という一行ではじまる。「物語」風にして、つまり「架空」を装うことで、ふつうの詩では言えないことを言いたいのかもしれない。「考え」を言いたいのだ。特に、この詩ではそれを感じる。
 「平和」とは何か。詩の中心に、それが書かれている。

平和というのは何であったか。
タヒラカニ、ヤワラグコト。
穏ニシテ、変ナキコト。
大日本帝国憲法が公布された
同じ明治二十二年に、
大槻文彦がみずからつくった
言海という小さな辞書に書き入れた
平和の定義。平和は詩だったのだ、
              (注・「変ナキコト。」の「変」は原文は正字/旧字)

 「平和」について考えていることを、長田は書きたかったのだ。大槻文彦の「定義」をそのとおりだと思っているので、そのまま引用している。その上で、「平和は詩だったのだ、」と言う。
 この「平和は詩だったのだ、」という一文は、一般的な「解釈」からすると、とても奇妙である。
 「平和」そのものについては長田は大槻の定義を採用し、同時に、それを「詩の定義」で補強しようとしているのだ。
 「詩」って何?

昔ずっと昔ずっとずっと昔、
川の音。山の端の夕暮れ。
アカマツの影。夜の静けさ。
毎日の何事も、詩だった。
坂道も、家並みも、詩だった。

 詩については「詩って何だと思う?」に「目を覚ますのに/必要なものは、詩だ。」「窓を開け、空の色を知るにも/必要なものは、詩だ。」と書かれていた。「目を覚ます」「知る」を手がかりに、私は「発見する」「気づく」ことが詩だと読んだ。
 この「詩のカノン」の書き出しからも同じことが言えかな? 「川の音。山の端の夕暮れ。」もまた何か新しいものを発見して、それをことばにすると詩になる、そう言っているように見える。
 しかし、

毎日の何事も、詩だった。

 これは、どうだろう。
 「毎日」繰り返す何事か。「毎日」だから、そこには変化がない。新しいものがない。発見することなど何もない。「昔ずっと昔ずっとずっと昔」から、変わらないもの。それが詩である、と長田は言っているように思う。
 そう考えると、その「毎日」というのは、

穏ニシテ、変ナキコト。

 とも重なる。
 でも、そうだとすると、「詩って何だと思う?」に出てきた「目を覚ます」ということとうまく合致しない。「目を覚ます」のは、そこに衝撃があるから。衝撃(新しい発見/気づくこと)によって「目を覚ます」。「穏ニシテ、変ナキコト。」の繰り返しだったら眠くなってしまう。
 長田は矛盾したことを書いているのか。
 そうではない。少しずつ言い直している。つけくわえている。どんな定義でも、一回では言い切れない。

平和の定義。平和は詩だったのだ、
どんな季節にも田畑が詩だったように。
全うする。それが詩の本質だから、

 「全うする」に似たことばは、これまでも見てきた。「充実(する/させる)」「ひたすら」「ただに」。「新しく」なくても、それが完全に充実したものなら、それは詩である。「完全な充実」というのは、常に「新しさの更新」であり、「永遠」だからである。
 「新しい」と「永遠」は、「一瞬」と「永遠」のように「矛盾」のように見える。
 しかし、そこに「全うする」という「動詞」を組み合わせると、それは「矛盾」ではなくなる。「何かを全うする」と「新しい段階」になる。「一瞬」を「全うする」と、「一瞬」は「永遠」と溶け合う。「全うする」という「動詞」のなかに詩がある。
 「全うする」ためには「ひたすらに」何かをする必要がある。

 「全うする」を引き継いで、詩はつづく。

全うする。それが詩の本質だから、
死も、詩だった。無くなった、
そのような詩が、何処にも。
いつのことだ、つい昨日のことだ、
昔ずっと昔ずっとずっと昔のことだ。

 いのちを「全うする」と死。それも詩である。というのは、死を意識したことばである。死を意識しながら、長田はことばを書いていることがわかる。なんとしても、これだけは言いたい、という気持ちがあふれている。
 いのちを全うする詩。そういうものが「無くなった」と、最後に長田は苦言を書いている。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房

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