詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(13)

2015-07-12 10:39:44 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(13)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 ものの見えた(見え方)はひとつではない。「ラメント」は、そう書いている。

昔ずっと昔ずっとずっと昔、
公園の、桜の樹の下で、
子どもたちが、熱心に、
地面に、棒で円を描いていた。
「それは何?」桜の樹が訊いた。
「時計」一人が言った。
「サッカーボール」一人が言った。
「明星」一人が言った。
「花の環」一人が言った。

 「昔ずっと昔ずっとずっと昔、」は読点「、」を除けば「ハッシャバイ」の書き出しと同じ。「ハッシャバイ」では「円」は「お月さま(熟した果物)」だった。「ハッシャバイ」のように、子どもに語っているのかもしれない。おとなのなかにいる、子どもに。「円」で、何かを描こうとしていたことをおぼえている?と問いかけているのかもしれない。何かを描こうとしたことを問いかけると同時に、そのときの「熱心」をおぼえている?と問いかけているようにも思える。「熱心に」は、「冬の金木犀」で「ひたすら」と書かれていた。「夏、秋、冬、そして春」に書かれていた「ただに」でもある。子どもは「円」を「熱心に」充実させてもいたのだ。
 おぼえている? そのときのことを。

公園には、もう誰もいない。
昔ずっと昔ずっとずっと昔、
あの日、地面に棒で円を描いた
子どもたちはいまどこにいるのだろ?

 おぼえている? 何を描いていたのか、おぼえている? あの熱心(集中)をおぼえている?

時計でも、サッカーボールでも、
明星でも、花の環でもなかったのだ。
子どもたちが描いた円は、
子どもたちの、魂への入り口だったのだ。
立ちつくすことしかできない
桜の樹はずっとそう考えていた。

 魂「の」入り口ではなく、魂「への」入り口。
 魂が「円」のなかへ入って行って、「円」を時計やサッカーボールにかえるのではない。「円」を明星や花の環と呼ぶときに、そこに魂があらわれてくる。子どもたちは魂をつくっていたのだ。魂を育てていたのだ。熱心に。集中して。
 そこにあるものを、そこにないもので呼ぶ。これを詩では「比喩」と呼ぶ。比喩とは、魂をつくることなのだ。自分自身をつくりあげること、自分を育てることなのだ。
 そう思って読むとき、最後の二行、そこに描かれた「桜の樹」は詩人・長田の姿のようにも見える。子どものように、比喩を生きる形で詩を書き、長田の魂を育て、長田自身の人格を育てた。人間を育てた。
 「ずっと」は書き出しの「昔ずっと昔ずっとずっと昔、」に繰り返されているのでさっと読んでしまうが、最終行の「ずっと」には長田の静かな自負のようなものが感じられる。「ずっと」は「持続」であり、「ひたすら」であり「熱心に」でもある。それがないと「持続」はできない。また「考えている」も長田の姿勢をよくあらわしていると思う。長田はいつも「考える」ひとだったのだ。この詩集には和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」をはじめとしていくつかの引用や参照文献が示されている。他人のことばと向き合い、自分のことばをととのえなおす。それが長田の「考える」ということだったのだと思う。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする