高柳蕗子『短歌の酵母』(沖積舎、2015年06月25日発行)
短歌のことはよくわからない。春先に歌人と対話する機会があった。そのとき歌人が「イメージ」の「共有」にこだわっていることに気づいた。高柳蕗子『短歌の酵母』でも、そのことに気がついた。「みんなで育てる歌語」は「トマト」をどう詠むかということについて書かれている。そのなかで「トマト」が「潰れる/くずれる/死ぬ」というようなイメージで詠まれる例を挙げている。そうして、「トマト」がいわば「死」の「歌語」になっている。「歌語」として育っている、というようなことが書かれている。
なるほどね。
でも、熟柿柿は? いちごは? さらにはじゃがいもやサツマイモは? あるいは肉や魚は? やっぱりその形がくずれ、つぶれるなら、腐る/死ぬということにならない? まあ、これは「揚げ足取り」みたいないちゃもんのつけかたではあるのだけれど。
たまたまそのとき話した歌人と高柳の例だけなのだが、歌人はどうも「名詞」=「イメージ」ととらえている感じがする。そして、それぞれの「名詞」は「あるイメージ」に消化されて共有され、「短歌」の宝になる。それを歌人は継承して行く、と考えているように思える。高柳の書いている「トマト」の例は、「トマト」は「潰れる/くずれる/死ぬ」というイメージの定型になり、共有されはじめている、ということを指摘しているように思う。
私はどうも、ひっかかる。トマトであろうと何であろうと、「潰れる/くずれる/死ぬ」という「動詞」の融合こそが問題なのだと思う。なぜ形を失ったものを「死ぬ」と考えるのか。「死」を感じるのか。「もの」ではなく、「動詞」を「肉体」で追認するというのが人間の世界とのかかわり方であって、名詞は関係がないなあ、と思ってしまう。
道に誰かが倒れている。内臓がはみだして血が流れている。人間の形がくずれ、つぶれている。猫が同じように内臓をはみださせたまま、うめいている。あるいはカボチャがつぶれて、中身がどろりと溶け出している。そういうものは「死ぬ(死)」を呼び起こす。自分の肉体ではないのに、そこに倒れている人の、犬の、「痛み」を感じてしまう。ときにはカボチャからさえも、何か肉体を刺戟してくる不安を感じてしまう。これは、人間の「理解/共感」というものが「動詞」(肉体で反復/追認できること)をとおして生まれることを明らかにしていると思う。
それをどの「名詞」と結びつけるかは、単なる「習慣」のように思える。もちろん、そういう「習慣」が「感性の定型」をつくっているのだけれど。実際、そんな感じで「もの(存在)」のイメージは定型化されているのだけれど、何か、違うなあ。「動詞」のつかい方を変えないかぎり、新しいイメージは生まれないのでは、と思ってしまう。
「動詞」そのものを「異化する」というのでなければ、イメージを革新することにはならないと思う。
あ、これは、ことばでいうのは簡単だけれど、実際に「動詞」を「異化する」なんてことは、無理なんだけれどね。「現代詩」(わざと書く詩)でも、「名詞」の「入れ換え」で、「動詞」はそのままつかっている。短歌と詩が違うとしたら、詩は、名詞と動詞の奇妙な結びつき(いままでだれも書いてこなかった名詞+動詞の関係)を、名詞のイメージの革新というよりも、動詞の定型を揺さぶるものとしてとらえるだけなんだけれど。いいかえると、認識の対象が「名詞」に向かうのが「短歌」、「動詞」に向かうのが「現代詩」ということかな?
あ、これは、「私の読み方」であって、詩人全員に共通するものではないかもしれない。
「動詞」をどう読むか。「動詞」というのは、動き。動きには始まりと、持続と、終わりがある。必然的に「時間」を抱え込む。
このことを高柳はどう考えているか。「<時間>の背後霊」という章があって、いろいろ書いているが、どうも私には「抽象的」すぎて納得できない部分が多い。その次の「実をくねらせる短歌さん」は「身体」を取り上げている。この方が「時間/動詞」を描いているかなあ。「身体」の「動き」がつくりだす「時間」。「時間」は「身体」の「動き(動詞)」によって具体化される。どんな「動詞」をつかい、それまで言語化されなかった「時間」を具体的に表現するか。
この問題を考えるとき、高柳は「進行」と「無時間性」ということばをつかっている。「進行」というのは、簡単にいうと「ストーリー」。短歌の中にも人やものがでてきて、それが一種の「ストーリー(意味)」をつくる。そのストーリーの「展開(時間の前後関係)」を「進行」と呼んでいる。その「ストーリーの進行」のなかに、「進行」を立ち止まらせる何かがあらわれる。「進行」から切り離される、「機密性」をもった「瞬間」。これを「無時間性」と呼んでいる。(私は、もっと簡単に「永遠」と言ってしまうのだが……。高柳の紹介している短歌にも「永遠」ということばがでてきていたが。この「永遠」を「時間を耕す」と表現する現代詩人もいる。「機密性」とは逆に「破壊/解放」と定義する現代詩人もいる。だれがそういっているか、明記すべきなのかもしれないけれど、そういうことは「現代詩」の文脈のなかでは「定型」になってしまっているので、誰それの説ではなんて言えない。)
で、この「進行」と「無時間性」、あるいは「動詞/身体」ということばを接触点にすれば、私と高柳の対話が成り立つのかもしれないが……。
やっぱり、ずれてしまう。ずれの方が目立って、接触点が接触点になりきれない。
「動詞」に関して、高柳は、短歌表現においては、「動き=動詞」ではない例の方が、むしろ多いようだ、と書いて、次のように展開する。
え、そうなのか。私は「よぎる」の主語は与謝野晶子だと思って読んだ。そして、この歌に書いてある大切な「動詞」は「よぎる」とは思わない。そのあとに「逢ふ」という「動詞」も出てくるが、これは「逢ふ人」の「人」にかかる修飾語。そのあと、もうひとつ「うつくしき」。これを私は「動詞」と考える。「美しい」は形容詞。「動詞」というと変な感じになるが「用言」と考えると、「動詞」と同じように「動く」のである。「体言」ではない。「美しさ」は「形容詞」派生の「名詞」、「用言」派生の「名詞」。最後の「美しき」は「美しく/ある(うつくしさが/ある)」ではなく、「美しく/なる(美しさに/なる)」と私は読む。
そして、そのとき「みな」というのは「私(与謝野晶子)」以外の人のこと(すれ違う人のこと)だけではなく、与謝野晶子自身をも含んでいる。桜の季節、月が出ている。清水から祇園へ歩くとき、「私はこんなに美しい」(私を見て)と与謝野晶子は主張しているのではないだろうか。
この歌には「美しくなる」という「動詞」が書かれている。はっきり見える形ではないが、そこに存在している。
そして、この「美しくなる」という「動詞」は、「清水から祇園へよぎる」、そうすることで人に「逢ふ」というストーリー(人間の行動の展開)を突き破って、「永遠」を掴み取る。高柳のことばを借りれば、「清水から祇園へよぎる」、そうすることで人に「逢ふ」という「進行」(人間の行動の展開)を突き破って「無時間性」としてそこに存在するということではないだろうか。
「美しくなる」というのは「変化」、「変化」というのは「永遠=普遍」と相いれないようだが、この「変化(する)」を「到達(する)」と考えるとき、「到達点」と「永遠(理想)」は親和性をもつ。「動詞」は「動き」であるが、その「動き」は「永遠」とは矛盾しない。
いま私は便宜上「到達=永遠」という組み合わせをつかったが、「する」「なる」という動きの「持続」こそが「永遠」でもある。「する」「なる」は「ありつづける」でもあるからだ。動いているときこそが「永遠=普遍=不動」なのである。こういう言い方は「矛盾」そのものだが、「矛盾」の形にならないとあらわせないものが「詩」なのである。
脱線したかもしれない。
高柳の書いていることはおもしろいが、ときどき短歌の読み方が私とあまりにも違っているので、とまどう。私は短歌をほとんど読まないし、知らないことは調べるのではなくテキトウに考えるだけなので、高柳の読み方の方が正しいのだろうけれど。
二例。
私は、単に雪にすっぽりつつまれてからだを曲げている姿を描いているとしか思えない。天から降る雪だけなら、雪は頭や肩につもる。けれど地吹雪はからだの天地をなくしてしまう。凹凸も無視して、周り中をすっぽりつつむ。まっすぐに立っていられないから、からだを丸めるが、その丸めた腹の方までしっかりとつつんでしまう。
この短歌のなかの「動詞」は「降る」「なる」「歩む」。「主語(私)」に関係してくるのは「なる」と「歩む」。「なるまで」に高柳は注目している。私も注目したが、読み方が少し違う。「なる」は「まで」と組み合わさっている。文法上の「意味」はたしかに「……まで」なのだが、ここは「なっても」という強調と読みたい。地吹雪で歩けない。からだはすっぽり雪に覆われた。それでも「歩む」。歩いていく。強い意思が動いている。その強さが地吹雪の荒々しさと向きあっている。この意思の強さが、地吹雪のなかを歩いていくというストーリーを突き破る。
「明瞭な山脈であり海溝である」という喩は「心電図」ではないのか。心電図が描く山と谷。それが描き出されるかぎり、きみは生きている。山脈、海溝は人間の「思い」とは無関係に絶対的な存在としてそこにある。「非情」である。機械が知らせる「いのち」の形。それもまた「非情」である。人間の思いとは無関係に、ただ、心臓が動いていることを、その正確さを、一切の「同情/共感」を排除して告げ知らせる。
この「非情」の「非」は「無菌室」の「無」に通じる。絶対的なものである。
この歌の「動詞」は「ある」。「ある」は「なる」とは違って、変化を含まない。心電図は山脈の形、海溝の形の波を描きつづける。つまり変化しつづけるが、これは「なる」とか「変化」とは言わない。これが「変化」してしまえば「死ぬ」に「なる」。
この「ある」は「きみ」の「いのち」の絶対性を宣言する「ある」。全体的な宣言によって、「無均質/病気」を突破して、いのちとして輝く。いのちの輝きとして「永遠」が、そこにあらわれている。「痛ましさ」への「同情」ではなく、痛みを超えて、なおも生きているといういのちの「尊厳」への「共感」と「畏怖」を詠んでいるのと思う。
*
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短歌のことはよくわからない。春先に歌人と対話する機会があった。そのとき歌人が「イメージ」の「共有」にこだわっていることに気づいた。高柳蕗子『短歌の酵母』でも、そのことに気がついた。「みんなで育てる歌語」は「トマト」をどう詠むかということについて書かれている。そのなかで「トマト」が「潰れる/くずれる/死ぬ」というようなイメージで詠まれる例を挙げている。そうして、「トマト」がいわば「死」の「歌語」になっている。「歌語」として育っている、というようなことが書かれている。
なるほどね。
でも、熟柿柿は? いちごは? さらにはじゃがいもやサツマイモは? あるいは肉や魚は? やっぱりその形がくずれ、つぶれるなら、腐る/死ぬということにならない? まあ、これは「揚げ足取り」みたいないちゃもんのつけかたではあるのだけれど。
たまたまそのとき話した歌人と高柳の例だけなのだが、歌人はどうも「名詞」=「イメージ」ととらえている感じがする。そして、それぞれの「名詞」は「あるイメージ」に消化されて共有され、「短歌」の宝になる。それを歌人は継承して行く、と考えているように思える。高柳の書いている「トマト」の例は、「トマト」は「潰れる/くずれる/死ぬ」というイメージの定型になり、共有されはじめている、ということを指摘しているように思う。
私はどうも、ひっかかる。トマトであろうと何であろうと、「潰れる/くずれる/死ぬ」という「動詞」の融合こそが問題なのだと思う。なぜ形を失ったものを「死ぬ」と考えるのか。「死」を感じるのか。「もの」ではなく、「動詞」を「肉体」で追認するというのが人間の世界とのかかわり方であって、名詞は関係がないなあ、と思ってしまう。
道に誰かが倒れている。内臓がはみだして血が流れている。人間の形がくずれ、つぶれている。猫が同じように内臓をはみださせたまま、うめいている。あるいはカボチャがつぶれて、中身がどろりと溶け出している。そういうものは「死ぬ(死)」を呼び起こす。自分の肉体ではないのに、そこに倒れている人の、犬の、「痛み」を感じてしまう。ときにはカボチャからさえも、何か肉体を刺戟してくる不安を感じてしまう。これは、人間の「理解/共感」というものが「動詞」(肉体で反復/追認できること)をとおして生まれることを明らかにしていると思う。
それをどの「名詞」と結びつけるかは、単なる「習慣」のように思える。もちろん、そういう「習慣」が「感性の定型」をつくっているのだけれど。実際、そんな感じで「もの(存在)」のイメージは定型化されているのだけれど、何か、違うなあ。「動詞」のつかい方を変えないかぎり、新しいイメージは生まれないのでは、と思ってしまう。
「動詞」そのものを「異化する」というのでなければ、イメージを革新することにはならないと思う。
あ、これは、ことばでいうのは簡単だけれど、実際に「動詞」を「異化する」なんてことは、無理なんだけれどね。「現代詩」(わざと書く詩)でも、「名詞」の「入れ換え」で、「動詞」はそのままつかっている。短歌と詩が違うとしたら、詩は、名詞と動詞の奇妙な結びつき(いままでだれも書いてこなかった名詞+動詞の関係)を、名詞のイメージの革新というよりも、動詞の定型を揺さぶるものとしてとらえるだけなんだけれど。いいかえると、認識の対象が「名詞」に向かうのが「短歌」、「動詞」に向かうのが「現代詩」ということかな?
あ、これは、「私の読み方」であって、詩人全員に共通するものではないかもしれない。
「動詞」をどう読むか。「動詞」というのは、動き。動きには始まりと、持続と、終わりがある。必然的に「時間」を抱え込む。
このことを高柳はどう考えているか。「<時間>の背後霊」という章があって、いろいろ書いているが、どうも私には「抽象的」すぎて納得できない部分が多い。その次の「実をくねらせる短歌さん」は「身体」を取り上げている。この方が「時間/動詞」を描いているかなあ。「身体」の「動き」がつくりだす「時間」。「時間」は「身体」の「動き(動詞)」によって具体化される。どんな「動詞」をつかい、それまで言語化されなかった「時間」を具体的に表現するか。
この問題を考えるとき、高柳は「進行」と「無時間性」ということばをつかっている。「進行」というのは、簡単にいうと「ストーリー」。短歌の中にも人やものがでてきて、それが一種の「ストーリー(意味)」をつくる。そのストーリーの「展開(時間の前後関係)」を「進行」と呼んでいる。その「ストーリーの進行」のなかに、「進行」を立ち止まらせる何かがあらわれる。「進行」から切り離される、「機密性」をもった「瞬間」。これを「無時間性」と呼んでいる。(私は、もっと簡単に「永遠」と言ってしまうのだが……。高柳の紹介している短歌にも「永遠」ということばがでてきていたが。この「永遠」を「時間を耕す」と表現する現代詩人もいる。「機密性」とは逆に「破壊/解放」と定義する現代詩人もいる。だれがそういっているか、明記すべきなのかもしれないけれど、そういうことは「現代詩」の文脈のなかでは「定型」になってしまっているので、誰それの説ではなんて言えない。)
で、この「進行」と「無時間性」、あるいは「動詞/身体」ということばを接触点にすれば、私と高柳の対話が成り立つのかもしれないが……。
やっぱり、ずれてしまう。ずれの方が目立って、接触点が接触点になりきれない。
「動詞」に関して、高柳は、短歌表現においては、「動き=動詞」ではない例の方が、むしろ多いようだ、と書いて、次のように展開する。
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 与謝野晶子
この歌で最初に出てくる動詞は「よぎる」である。しかし、「清水へ祇園をよぎる」のあたりまでは、まだあまり<動き>は感じられない。この時点では誰がどのように「よぎる」のかわからないからだ。その下の「桜月夜」「こよひ逢ふ人」「みなうつくしき」とつづくフレーズの「みなうつくしき」のひらがなのあたりになって、ようやく、いろんな人とすれ違いなら歩く、すべてを肯定するかのような足取りが伝わって来ないだろうか。
しかも、動詞が、言葉通りの<動き>を表わすとも限らない、ということもわかった。
え、そうなのか。私は「よぎる」の主語は与謝野晶子だと思って読んだ。そして、この歌に書いてある大切な「動詞」は「よぎる」とは思わない。そのあとに「逢ふ」という「動詞」も出てくるが、これは「逢ふ人」の「人」にかかる修飾語。そのあと、もうひとつ「うつくしき」。これを私は「動詞」と考える。「美しい」は形容詞。「動詞」というと変な感じになるが「用言」と考えると、「動詞」と同じように「動く」のである。「体言」ではない。「美しさ」は「形容詞」派生の「名詞」、「用言」派生の「名詞」。最後の「美しき」は「美しく/ある(うつくしさが/ある)」ではなく、「美しく/なる(美しさに/なる)」と私は読む。
そして、そのとき「みな」というのは「私(与謝野晶子)」以外の人のこと(すれ違う人のこと)だけではなく、与謝野晶子自身をも含んでいる。桜の季節、月が出ている。清水から祇園へ歩くとき、「私はこんなに美しい」(私を見て)と与謝野晶子は主張しているのではないだろうか。
この歌には「美しくなる」という「動詞」が書かれている。はっきり見える形ではないが、そこに存在している。
そして、この「美しくなる」という「動詞」は、「清水から祇園へよぎる」、そうすることで人に「逢ふ」というストーリー(人間の行動の展開)を突き破って、「永遠」を掴み取る。高柳のことばを借りれば、「清水から祇園へよぎる」、そうすることで人に「逢ふ」という「進行」(人間の行動の展開)を突き破って「無時間性」としてそこに存在するということではないだろうか。
「美しくなる」というのは「変化」、「変化」というのは「永遠=普遍」と相いれないようだが、この「変化(する)」を「到達(する)」と考えるとき、「到達点」と「永遠(理想)」は親和性をもつ。「動詞」は「動き」であるが、その「動き」は「永遠」とは矛盾しない。
いま私は便宜上「到達=永遠」という組み合わせをつかったが、「する」「なる」という動きの「持続」こそが「永遠」でもある。「する」「なる」は「ありつづける」でもあるからだ。動いているときこそが「永遠=普遍=不動」なのである。こういう言い方は「矛盾」そのものだが、「矛盾」の形にならないとあらわせないものが「詩」なのである。
脱線したかもしれない。
高柳の書いていることはおもしろいが、ときどき短歌の読み方が私とあまりにも違っているので、とまどう。私は短歌をほとんど読まないし、知らないことは調べるのではなくテキトウに考えるだけなので、高柳の読み方の方が正しいのだろうけれど。
二例。
空からも地からも夜のゆきふれば発光エビとなるまで歩む 杉崎恒夫
天から降り地から吹き上げる雪。その中を歩いている。「発光エビとなるまで」というのは、人としての記憶を忘れ去り、わが身の内から発光するその光だけをたよりに進む感じだ。たとえば「転生の途中」みたいな歩みかしら、と思わせる。
私は、単に雪にすっぽりつつまれてからだを曲げている姿を描いているとしか思えない。天から降る雪だけなら、雪は頭や肩につもる。けれど地吹雪はからだの天地をなくしてしまう。凹凸も無視して、周り中をすっぽりつつむ。まっすぐに立っていられないから、からだを丸めるが、その丸めた腹の方までしっかりとつつんでしまう。
この短歌のなかの「動詞」は「降る」「なる」「歩む」。「主語(私)」に関係してくるのは「なる」と「歩む」。「なるまで」に高柳は注目している。私も注目したが、読み方が少し違う。「なる」は「まで」と組み合わさっている。文法上の「意味」はたしかに「……まで」なのだが、ここは「なっても」という強調と読みたい。地吹雪で歩けない。からだはすっぽり雪に覆われた。それでも「歩む」。歩いていく。強い意思が動いている。その強さが地吹雪の荒々しさと向きあっている。この意思の強さが、地吹雪のなかを歩いていくというストーリーを突き破る。
無菌室できみのいのちは明瞭な山脈であり海溝である 笹井宏之
「山脈であり海溝である」という喩を導いた要因の一つは、「無菌室」の空気のクリア感だろう。快晴の日のくっきりとした山と海を見るかのような表現はそこから生じた。
が、この歌では海と山ではなく、「山脈」と「海溝」を取り合わせている点が重要だ。「海溝」は普通は目にすることができない。この取り合わせによって、海を失った地球の凹凸を見るかのように、免疫力というバリアーを失った「君」のむきだしの命が見えてしまったという、そういう痛ましさを詠んでいる歌だと思う。
「明瞭な山脈であり海溝である」という喩は「心電図」ではないのか。心電図が描く山と谷。それが描き出されるかぎり、きみは生きている。山脈、海溝は人間の「思い」とは無関係に絶対的な存在としてそこにある。「非情」である。機械が知らせる「いのち」の形。それもまた「非情」である。人間の思いとは無関係に、ただ、心臓が動いていることを、その正確さを、一切の「同情/共感」を排除して告げ知らせる。
この「非情」の「非」は「無菌室」の「無」に通じる。絶対的なものである。
この歌の「動詞」は「ある」。「ある」は「なる」とは違って、変化を含まない。心電図は山脈の形、海溝の形の波を描きつづける。つまり変化しつづけるが、これは「なる」とか「変化」とは言わない。これが「変化」してしまえば「死ぬ」に「なる」。
この「ある」は「きみ」の「いのち」の絶対性を宣言する「ある」。全体的な宣言によって、「無均質/病気」を突破して、いのちとして輝く。いのちの輝きとして「永遠」が、そこにあらわれている。「痛ましさ」への「同情」ではなく、痛みを超えて、なおも生きているといういのちの「尊厳」への「共感」と「畏怖」を詠んでいるのと思う。
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