詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫『そのようにして』

2015-07-16 10:06:58 | 詩集
林嗣夫『そのようにして』(ふたば工房、2015年07月07日発行)

 林嗣夫のことばの特徴は論理と抒情が結びついていることである。知性と抒情が結びついている、と言い換えてもいい。
 「春への分節」という詩には「分節」という、いまはやりの「哲学用語(言語学用語?)」が出てくる。私のうろおぼえの感じでは、「世界」がまだ「光」とか「闇」とか、「花」とか「水」というものに分かれる前のところから、「光」「闇」「花」「水」ということばと結びついて認識されるようになることを「分節する/分節される」というようである。「分節」は「ことば」によって確定する。「ことば以前の世界」が「ことばの世界」になる、と言い換えることができるかもしれない。私の書いていることは、テキトウなので、「分節」ということばはほんとうはもっと違ったことを指し示しているのかもしれないが……。
 林は、赤ん坊のことばにならない「声」を聞きながら考えたことを、この「分節」ということばをつかって書いている。

ことば以前の純粋経験を
どのようにことばにして分節するか
多くの先人が悩んだところを
いま赤ん坊が悩んでいる
幼い舌や のどや 肺が
ふるえながら何かをさぐっている
やがて
そこを突破してくるだろう

 赤ん坊が「悩む」かどうかわからないが(赤ん坊だったとき、ことばをどういうかと悩んだかどうかおぼえていないのだが)、「分節」を「悩み」「さぐる」「突破する」という動詞と「舌」「のど」「肺」という「肉体」と結びつけて、「人間化」しているところが林の思想(生き方)である。
 「人間化」というのは「自己化」というか、「自己投影」のようなものである。対象に自己投影し、その投影された自己と対象を同一のものと見なし、対象のかわりに動いて見せる。いま引用した部分では、林は赤ん坊を「観察」していると同時に、赤ん坊になって、「幼い舌や のどや 肺」を動かしながら、ことばを発する、ことばによって「分節する」瞬間を追体験しようとしている。この追体験に、「分節」というような「知識(知性)」のことばがかかわってくるところ、知性によって追体験をととのえるところに、林のことばの動きが「論理的」「知性的」と感じさせる要因がある。
 これだけでも詩なのだが、これを林は「赤ん坊」とは別の世界でも展開する。「赤ん坊」に起きていることを別の世界で言い直し、「世界」を立体化し、ととのえてみせてくれる。

近くでコブシがねずみ色の無数の花芽をふくらませ
水色に輝く二月の空と対話していた
聴き取れないくらいの
にぎやかな静かな声だ
枝枝をつつむ光が揺らいでいる
コブシの芽はもうすぐ
純白の飛天の姿の花として分節されることだろう

 赤ん坊が「ことば」で世界を「分節」する。そうして「成長する」。コブシは芽から花へ変化、成長するが、このことを林は「分節」と言い直している。「分節」によって「世界」が新しくなる。そこにはかならず分節するいのちの成長が含まれている。
 赤ん坊の変化をそのまま書くのではなく、花(自然)を通して語りなおすことで、林はいいたいことを穏やかにしている。抒情にしている。このコブシの描写を読むと、一瞬、赤ん坊のことを忘れる。季節の変化をていねいに描いたものとして読んでしまう。けれど、そこにはほんとうは林の「知性」の「対話」がある。林自身の「自問」のようなものがある。この「自問」の抑制が林のことばをととのえている。

聴き取れないくらいの
にぎやかな静かな声だ

 というのは矛盾した表現だが、矛盾しているから説得力がある。いのちの動く瞬間のざわめきを、「にぎやか」と「静か」という矛盾したことばで「分節する」。「分節」は何かから何かを引き剥がすのだから、そこには必ずこういう「矛盾」がある。「矛盾」というのは、いわば「ことば以前」なのである。「ことば以前」だから「聴きとれない」。
 こういう「論理/知性の対話」が林の抒情の基本にある。

 たいがいの場合、その「分節」は私たちが「美しい」と思い込んでいるもの(赤ん坊、コブシ)のようなものと結びついて動いているのだが、(そのために「抒情」ということばと林の詩は結びつきやすいのだが)一篇、とても風変わりな、おもしろい作品があった。「失題」。前半の「論理」を踏まえて後半の世界が動いているのだが、ここでは、あえて前半は引用しない。その方が「分節」はどんなところでも可能であり、「分節」をきちんとことばにすればどんなことでも詩になるということがわかるからだ。

と、家のどこかからへんな音が聞こえてくる
バキュームカーが来て
トイレの汲み取りをしてくれているのだった
小窓を開けて
すみません、と言うと
水をいれてくれるかね、と外から言う
便器の中にどどどどどと勢いよく水を落とす
そして底をのぞき込む
まぜ返されたあの臭いがなまあたたかく吹き上がってくる
なおも暗い穴の底をのぞいていたら
だんだんと汚物が引き しまいに
汚水が吸い取られる時の やわらかな震えるような
不思議な音が
穴いっぱいに満ちた
いつか恋人と聴きに行ったコンサートの
サックスの音に似ていた

 バキュームカーと糞尿の「対話」がこんなふうにことばになるなんて。こんなことを、じっとみつめて書くなんて。さらに、そんなことを味わいながら(?)恋人とのデートを思い出すなんて。笑ってしまうなあ。「やわらかな震えるような」は「春への分節」の「幼い舌や のどや 肺が/ふるえながら何かをさぐっている」を思い出させる。「震えるような」「ふるえながら」と「ふるえる」という動詞が重なるからかもしれない。その動きが、何かを探しているみたいで興味をそそられる。バキュームカーと糞尿が「人間化」されて「対話」している。そこから「ことば」を生み出そうとしているのが、とても楽しい。
 「肉体」のことを書いているのではないけれど、なんだか「肉体」そのものを感じるなあ。
 「論理的/知的抒情」の詩は、美しいけれど、ある意味では「定型」。悪くはないけれど、「傑作!」と叫びたくはならない。何度も読んでいる感じがするからかもしれない。でも、この作品は「傑作!」と叫びたくなる。「糞尿」という日常的すぎるものが「分別」という論理のことばを覆い隠している。
 おかしくて、楽しくて、どこかしんみりするなあ。


風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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