詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

泉冨士子『せんば 在りし日の面影』

2015-07-18 10:00:46 | 詩集
泉冨士子『せんば 在りし日の面影』(編集工房ノア、2015年07月01日発行)

 泉冨士子『せんば 在りし日の面影』の巻頭の作品「水売りの一日」は詩集のなかでは少し変わった作品である。まだ全部読んだわけではないのだけれど、他の作品が「せんばことば(?)」というか、泉が暮らしのなかで身に着けた「口語」で書かれているのに対し、この作品は「標準語」で書かれている。
 この「標準語」がとても美しい。あるいは、逆か。他の作品の「せんばことば」がとても美しい。「標準語」と「せんばことば」を、「ことばの肉体」がしっかりとつないでいる。その結びつき方が美しい。「せんばことば」を例にした方が、私の言いたいことが言いやすいかもしれない。他者と会話する。その会話のなかで、どんなふうにことばをつかうべきなのかということを私たちは身に着けていく。変な言い方をすると、誰かが注意する。それにしたがって少しずつことばをととのえていく。そこには「対話の呼吸」のようなものがある。それが「標準語」の動きにも響いてきている。だから、美しい。
 こんな書き方は(言い方は)抽象過ぎるかもしれない。

宇治川の水汲みの仕事は
寺々の朝の勤行を知らせる鐘の音を
合図にはじまる。

 何でもない書き方に見える。実際、何でもないのかもしれないが、ことばにゆるみがない。しっかりと互いが結びついている。その「結びつき」をつくっているのが、「仕事」ということばと「勤行」ということば。「水汲みの仕事」というのは、この作品のテーマなのだけれど、「仕事」というとき、そこにその「仕事」をする人がいる。そしてまた、そのひとのまわりにはほかにも多くのひとがいる。そのひとたちも「仕事」をしている。「仕事」とは言わないかもしれないが、寺の坊さんもまた朝から動きはじめている。「勤行」をする。肉体を動かして、何かをする。何かをすることで、生きている。朝の早くから、ほかのひとに先立って、動きはじめている。一日を「働く」ということから始めている。
 ここにはひとは「働く」ものである、という「肉体の哲学」のようなものがある。そんなことは「哲学」とは言わないかもしれないが、「肉体」にしみついた何かがある。きっと泉は寺の「鐘の音」を聴きながら「朝だよ、起きなさいよ。もうひとは働きはじめているよ」というようなことを言われて育ったのだろう。「せんばことば」を知らないので「標準語」で書いたが、きっと原は、そういう「ことば」を聞きつづけたのだと思う。そして、朝になったら起きて働く(仕事をする)というのが人間の生き方なのだということを身に着けた。つまり、「思想」にした。だから、ひとの姿はいつも「働いている」姿として見えている。「勤行を知らせる鐘の音」は、ふつうのひとの「朝」とは違うけれど、違うからこそ、こんな時間から働いているひとがいる、という畏怖というか、尊敬というか、何が大切な、ありがたいことのようにして、身にこたえる。そういうひとに対して恥ずかしくないように働かなければならない。そういう思いが、この書き出しに自然に反映されている。原の両親(家族)はきっと、そういうことを繰り返し繰り返し原に言い聞かせたのだろうと思う。
 書かれていることば以上に、そのことばがつながっている「暮らし」が見える。感じられる。「暮らし」が原のことばをととのえている。「暮らし」が原のことばを美しくしている、と感じる。
 この、「暮らし」とことばの関係は、二連目でさらにはっきりする。

午前二時
その時刻の川水がいちばん澄みきっていて
うま味があると昔から伝えられてきた。

 「昔から伝えられてきた」。ことばは「昔から伝えられてきた」ものであり、「昔から伝えられてきた」ものが、いまも美しい。その「伝えられてきたこと(ことば)」は「真実」であるかどうかは、わからない。午前二時の川水がいちばんうま味があるというのは「科学的な真実」であるかどうか、わからない。けれど、そう思いたいのである。ひとが眠っている時間から起きだして、苦労して汲み上げる水。そこには「働く」人間の尊さがある。それを「うま味」として感謝する。
 けれど、そういうことを精神的というか、倫理的(道徳的)というか、なんだか人間をしばるうるさいものにせずに、肉体で味わう「うま味」という形で受け継ぐ。こういう「表現の工夫」、「表現の知恵」というもののなかに、「会話(対話)」のなかで引き継がれてきた「暮らし」をととのえる力を感じる。
 そういうことばの伝統を生きて、原は「伊兵衛さん、徳助さん親子」の仕事ぶりを描写する。宇治川から水を汲み上げ、宇治川を下って大阪のお得意さんに届ける。その「ハイライト」の一段落。

阿波堀川の岸辺に並ぶ商家では、午後二時頃になるともう水舟が来
る頃と、水つぼを洗い、川岸に面した裏戸をあけておく。船から水
を運び上げる役目は息子の徳助さんで、彼は水のはいった桶を天秤
でになって、その家のあいている裏口からはいり、土間の上にそろ
りと桶を置く。一つずつ桶を持ち上げ、水を騒がせないように注意
しながら、ゆっくりと水つぼの中へ水を落としこんでいく。音もし
ない。しぶきも立たない。これは伊兵衛さんが教え込んだのであろ
う。底の方から湧き水が盛り上がってくるかのようだ。そこから更
に息を吐いているみたいに細かな泡が立ちのぼる。水は一日の旅の
終わりを知っているのだろうか。徳助さんはそれを見届けると、自
分も安心したかのようにこちらをむいて、腰をかがめあいさつをし、
わたされたなにがしかの水代を、大切そうに胴乱にしまい、空にな
った桶を肩にすると、また来た時のように音も立てず裏戸を出る。

 「水を騒がせないように」という美しいことば。「伊兵衛さんが教え込んだ」という表現があるが、これは、水をそそぐ姿を見ながら原が学んだことでもある。姿をみて、そのとき話されることばを聞いて、そのことばといっしょに動く(働く)肉体を見て、そこから自分をととのえていく。水をそそぐだけではなく、何かをそそぐとき、それを「騒がせないように」そそぐ。
 そうすると……。
 「底の方から湧き水が盛り上がってくるかのようだ。そこから更に息を吐いているみたいに細かな泡が立ちのぼる。」そそがれた水が、生きはじめる。なんともいえず美しい。水の動きを見ているような気持ちになる。水がそそがれ水つぼにたまるのを見たいという気持ちになる。原は、繰り返し繰り返し、その仕事を見て、水を見て、徳助さんのことばを聞き、母親の「ほら、こんなふうにていねいに仕事をするんだよ。きれいでしょう」というようなことばを聞き、自分の肉体のととのえたかを身に着ける。「水は一日の旅の終わりを知っているのだろうか。」は原独自の思いだろうけれど、読んでいて、「ああ、よかった」と思う。水もこんなふうに大切にあつかわれ、生きていく。それがうれしいと言っている声が聞こえる。
 そのあとの徳助さんの姿も美しい。働くことは、つらい。けれど、美しい。自分にできることを最大限にする。そこから得られるものが何であるにしろ、それに対して苦情を言わずに、ただ自分をととのえて生きる。生きるとは自分をととのえることだ。そういう生き方に寄り添って原はことばとなって動いている。他人といっしょに、他人と対話しながら、原が、新しく生きている。そういうよろこびが、ことばの奥から自然に輝き出す。思わず、聞き惚れてしまう。


せんば―在りし日の面影 泉冨士子詩集
泉 冨士子
編集工房ノア
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