岩佐なを「雨」(「孔雀船」86、2015年0715日発行)
雨の季節なので、岩佐なを「雨」を読む。
いきなり「印象の椅子」という抽象的なことばではじまる。「印象」って、何? わからないけれど、つづくことばが具体的なので、何?と思ったことを忘れてしまう。「安い画用紙」が「印象」ということばを消してしまうなあ。でも「色鉛筆」という具体的な色を欠いたことばが、また「印象」を呼び戻す。どうも、抽象と具体(具象)をことばが行き来している。
「雨」というタイトルを読んでいるので「斜線をひく」の「斜線」は「雨が降っている」ときの降り方なのだな、と思ってしまう。「斜線」になって降るには風がないといけないのだけれど、詩は事実を書くわけではないので(書かなければいけないというわけではないので)、「斜線」の方が「音」がなじみやすかったから「斜線」にしたのだろうなあ。
あ、どうでもいいことを書いてしまったかな?
私は、この一連目では「なんぼんもいくすじも」がいいなあ、と思ったのだ。「なんぼんもなんぼんも」、あるいは「いくすじもいくすじも」と同じ音を繰り返すのが「日本語」っぽいのだけれど、違った音(ことば)をぶつけることで「同じ意味」を繰り返している。この「音」と「意味」のずれ具合というか、「複数」の感じが、「色鉛筆」の「色」と交錯する。何色と何色をつかったのか(一色だけつかったのか)、岩佐は書いていないのだが、私は「複数」の色を思い浮かべた。「色鉛筆」ということば事態は「色」をもたない「抽象」だけれど、それが「なんぼんもいくすじも」という「複数の音」によって反復されるとき、突然「複数の色」と具象になってしまう。それがとてもおもしろい。
私は「タイトル」と「斜線」から「雨」を先取りして想像してしまったが、岩佐は「なんぼんもいくすじも」のあとで「雨」ということばを出している。そのとき「机のむこうは」と書いているのが、またおもしろい。視線が直接「雨の窓」へ飛翔するのではなく「画用紙/色鉛筆/斜線」を視覚にしっかり押さえて(つまり、机の上をしっかり見つめて)、それから「窓」へたどりつく。「雨」を直接見るのではなく「雨の窓」を見る、というのも不思議だ。
実際は、往復しているのかもしれない。そしてその往復が抽象と具体の交錯となってあらわれているのかもしれない。
画用紙の上の斜線は、雨ではなく、窓の雨(窓を走る雨の軌跡)なのかもしれない。その「窓」のむこうを「見やれば」、やっぱり「雨」なのだが、そこへの移動もていねいに書いてあるので、不思議な気持ちになる。外の雨と、画用紙に描かれた雨が、斜線と複数の色のなかで出会っている。離れながら、同じものになっている。
うーん、抽象と具象というのも、そういう関係にあるのかなあ。きっと、そうなんだろうなあ。抽象というのは突然そこにあるのではなく、何か具象と交流している。具象もそこにあるからあるのではなく(変な言い方だが)、そこにあるという事実を、抽象の形に整理することで、ことばになったり、絵になったりするのかもしれない。「ことば」「絵」は、抽象と具象の出合いの「場」なのかな? (「事件」なのかな?--というのは、私の「感覚の意見の暴走」。)
よくわからないけれど、こういう抽象と具象の交流のあとの二連目に、「なんぼんもいくすじも」よりもおもしろい一行が出てくる。
「次の世」は「あの世」かな? 浮いている「裸体」を「死体」と思えば、「あの世」が近づく。
ということは、まあ、置いておいて。
「四角い水槽」というのは「実在」? 違うだろうなあ。「雨の窓」(四角い窓/平面)を立体化して「四角い水槽」ととらえているのだろう。「窓」のなかの「雨(水)」を「窓」の向こう側まで押し広げることで「立体」にして、それを「水槽」と呼んでいる。「向こう側」へ押し広げるという「無意識の運動」は一連目の「机のむこう」という表現からはじまっている。
この「むこう」へ行く感じが「次の世」のということばに引き継がれている。平面→立体という動きが、同時に三次元→四次元(立体に時間をくわえたもの)という変化を含んでいる。
あえて言えば、書き出しの「印象」のように、「意識」のとらえた「四角い水槽」。「印象」の「四角い水槽」。「雨」という現実に触発されてことばが動いたのかもしれないけれど、二連目は具象からは完全に飛躍した「別次元」である。
で、そのあと
この二行がおもしろい。「あのからだはわたしではない」というのは、画用紙に向かい色鉛筆で斜線をひいているのが「わたしのからだ」だからである。 「わたしのからだ」が同時にふたつあっていいわけはない。だから「わたしではない」というのだが、それは「今」にこだわるとそうなるだけ。二連目はすでに「別次元」。そこに「今」という「定義」が適用できるかどうかわからない。
この変な「論理性」がとてもおもしろい。「あの世」を「次の世」として存在させる論理(抽象の運動)がおもしろい。
雨の季節なので、岩佐なを「雨」を読む。
印象の椅子に座って
机上の安い画用紙に色鉛筆で
斜線をひく
なんぼんもいくすじも
机のむこうは雨の窓
見やればいつも雨が降り(光も)
いきなり「印象の椅子」という抽象的なことばではじまる。「印象」って、何? わからないけれど、つづくことばが具体的なので、何?と思ったことを忘れてしまう。「安い画用紙」が「印象」ということばを消してしまうなあ。でも「色鉛筆」という具体的な色を欠いたことばが、また「印象」を呼び戻す。どうも、抽象と具体(具象)をことばが行き来している。
「雨」というタイトルを読んでいるので「斜線をひく」の「斜線」は「雨が降っている」ときの降り方なのだな、と思ってしまう。「斜線」になって降るには風がないといけないのだけれど、詩は事実を書くわけではないので(書かなければいけないというわけではないので)、「斜線」の方が「音」がなじみやすかったから「斜線」にしたのだろうなあ。
あ、どうでもいいことを書いてしまったかな?
私は、この一連目では「なんぼんもいくすじも」がいいなあ、と思ったのだ。「なんぼんもなんぼんも」、あるいは「いくすじもいくすじも」と同じ音を繰り返すのが「日本語」っぽいのだけれど、違った音(ことば)をぶつけることで「同じ意味」を繰り返している。この「音」と「意味」のずれ具合というか、「複数」の感じが、「色鉛筆」の「色」と交錯する。何色と何色をつかったのか(一色だけつかったのか)、岩佐は書いていないのだが、私は「複数」の色を思い浮かべた。「色鉛筆」ということば事態は「色」をもたない「抽象」だけれど、それが「なんぼんもいくすじも」という「複数の音」によって反復されるとき、突然「複数の色」と具象になってしまう。それがとてもおもしろい。
私は「タイトル」と「斜線」から「雨」を先取りして想像してしまったが、岩佐は「なんぼんもいくすじも」のあとで「雨」ということばを出している。そのとき「机のむこうは」と書いているのが、またおもしろい。視線が直接「雨の窓」へ飛翔するのではなく「画用紙/色鉛筆/斜線」を視覚にしっかり押さえて(つまり、机の上をしっかり見つめて)、それから「窓」へたどりつく。「雨」を直接見るのではなく「雨の窓」を見る、というのも不思議だ。
実際は、往復しているのかもしれない。そしてその往復が抽象と具体の交錯となってあらわれているのかもしれない。
画用紙の上の斜線は、雨ではなく、窓の雨(窓を走る雨の軌跡)なのかもしれない。その「窓」のむこうを「見やれば」、やっぱり「雨」なのだが、そこへの移動もていねいに書いてあるので、不思議な気持ちになる。外の雨と、画用紙に描かれた雨が、斜線と複数の色のなかで出会っている。離れながら、同じものになっている。
うーん、抽象と具象というのも、そういう関係にあるのかなあ。きっと、そうなんだろうなあ。抽象というのは突然そこにあるのではなく、何か具象と交流している。具象もそこにあるからあるのではなく(変な言い方だが)、そこにあるという事実を、抽象の形に整理することで、ことばになったり、絵になったりするのかもしれない。「ことば」「絵」は、抽象と具象の出合いの「場」なのかな? (「事件」なのかな?--というのは、私の「感覚の意見の暴走」。)
よくわからないけれど、こういう抽象と具象の交流のあとの二連目に、「なんぼんもいくすじも」よりもおもしろい一行が出てくる。
次の世の四角い水槽に
裸体が浮いていて
もっと濡れろと雨が降っている
あのからだはわたしではない
ないけれど今だからそう思うだけのことだ
「次の世」は「あの世」かな? 浮いている「裸体」を「死体」と思えば、「あの世」が近づく。
ということは、まあ、置いておいて。
「四角い水槽」というのは「実在」? 違うだろうなあ。「雨の窓」(四角い窓/平面)を立体化して「四角い水槽」ととらえているのだろう。「窓」のなかの「雨(水)」を「窓」の向こう側まで押し広げることで「立体」にして、それを「水槽」と呼んでいる。「向こう側」へ押し広げるという「無意識の運動」は一連目の「机のむこう」という表現からはじまっている。
この「むこう」へ行く感じが「次の世」のということばに引き継がれている。平面→立体という動きが、同時に三次元→四次元(立体に時間をくわえたもの)という変化を含んでいる。
あえて言えば、書き出しの「印象」のように、「意識」のとらえた「四角い水槽」。「印象」の「四角い水槽」。「雨」という現実に触発されてことばが動いたのかもしれないけれど、二連目は具象からは完全に飛躍した「別次元」である。
で、そのあと
あのからだはわたしではない
ないけれど今だからそう思うだけのことだ
この二行がおもしろい。「あのからだはわたしではない」というのは、画用紙に向かい色鉛筆で斜線をひいているのが「わたしのからだ」だからである。 「わたしのからだ」が同時にふたつあっていいわけはない。だから「わたしではない」というのだが、それは「今」にこだわるとそうなるだけ。二連目はすでに「別次元」。そこに「今」という「定義」が適用できるかどうかわからない。
この変な「論理性」がとてもおもしろい。「あの世」を「次の世」として存在させる論理(抽象の運動)がおもしろい。
岩佐なを詩集 (現代詩文庫) | |
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