監督リチャード・グラツァー、ウォッシュ・ウエストモアランド 出演 ジュリアン・ムーア、アレック・ボールドウィン、クリステン・スチュワート
若年性アルツハイマー症になった女性を描いている。ジュリアン・ムーアが不思議な演技をしている。「迫真の演技」であるかどうか、私はアルツハイマー症のひとと直接接したことがないので判断できないが、見ていて引き込まれてしまう。特に記憶を何とかとどめようと訓練するところ、自分を維持しようとするところに。
クリスマスの料理を準備しながら、ことばを思い出せるかどうか、自分で訓練している。黒板に単語を三つ書き、タイマーを設置して、時間になったら覚えているかどうかを確かめる。そのときの単語が、林檎とか、蜜柑とか、犬、猫、というのではなく、なにやらややこしい専門用語のようなものもある。彼女のキャリアにかかわる言語学上の言語だったかもしれない。そのこだわり方に、「真剣さ」があふれている。自分自身を「言語学者」と定義して、その定義のなかに自分を収めようとしている。
その一方で、彼女は自分がつくろうとしていたものを忘れてしまう。カボチャのプディングをつくろうとしていて、卵が何個必要か思い出せなくなる。ネットでレシピを探すのだが、その過程でプディングを忘れてしまい、違うものをつくる。
しかし、この異変に気がつくのは、プディングを楽しみにしていた末っ子の娘だけで、他の家族は気がつかない。また、ジュリアン・ムーアは末っ子が「異変」を感じているということを、感じ取ることができない。ここに、何とも言えないおそろしさのようなものが潜んでいる。
ひとはひと(自己を、あるいは他人を)をどう「定義」するか。アリスは自分を「言語学者」と「定義」している。「母親」とも「定義」している。母親は料理をつくる。末っ子は母親は自分のために大好きなプディングをつくってくれる人である。しかし他の家族にとっては「料理をつくるひと」であって、「プディングをつくるひと」ではない。だからカボチャのスープ(?)がテーブルに運ばれてきても「異変」とは感じない。「母親/料理をつくるひと」と「定義」しているかぎり、ジュリアン・ムーア自身も「異変」に気がつかない。
ひとは他人の「異変」には、なかなか気づかない。自分の「異変」にも気づかないときがある。自分に直接かかわりがないかぎり、自分の「本質」であると「定義」しているものにかかわらないかぎり、「異変」とは思わない。だから、「異変」が起きたとき、それにどう対処すればいいのかということも、わからない。真剣に考えない。
夫のアレック・ボールドウィンが象徴的である。いくつもの「異変」を直接見ている。ジュリアン・ムーアがアルツハイマー症であることもわかっている。それなのに自分の昇進のために病院のある土地へ引っ越そうと提案する。アルツハイマー症にとって、それがどんなに危険なことであるか、配慮できない。彼にとっての彼自身の「定義」は優秀な「医学者」であって、「夫」ではない。
この映画では、たまたまジュリアン・ムーアは「自覚的」に行動しているが、誰もが彼女のように「自覚」できるわけではない。物忘れがひどくなったかな、と思っても病気とは思わない。周りの人も、小さな「異変」は見落としてしまう。そのあいだに症状が進行し、対応が難しくなる。そういう危険性がある。
この映画は、アルツハイマー症の苦悩を描くと同時に、その家族への静かな警告になっている。アルツハイマー症のひとにどう向き合うべきかを、静かに語っている。その警告を、どう受け止めることができるか。それを問われているように感じた。
「自己の定義」をめぐっては、自分を「女優」であると「定義」している末っ子だけが、最後は親身になるというのも、なかなかおもしろい。プディングをつくってくれるからお母さんが大好き、というような、直接的な愛情でかかわっていたのは彼女だけというのは、ある意味、リアルすぎて怖くもあるが……。
少し映画が描いていることから脱線したかもしれない。
この映画のハイライトは、ジュリアン・ムーアがアルツハイマー症の集いで、自分自身の感じていることをスピーチする部分である。自分は苦しい、と訴えことで自分の「尊厳」を守っている。苦悩を隠すのではなく、苦悩をそのままことばにする。その姿をジュリアン・ムーアはただ「ことば(せりふ)」で伝えるのではなく、肉体そのもので再現している。原稿を繰り返して読まないように、黄色いマーカーで文字をたどりながら読む。どこを読んだかはっきり区別するためである。そういう工夫をしながら生きていることを、そのまま見せる。「これが私である」と全部見せる。
彼女がアルツハイマーであると知らなければ、きっとアルツハイマーであることを忘れてしまう。そこにアルツハイマーの苦悩が語られていても、健常な人間のスピーチと思ってしまう。この不思議さのなかに、この映画のすべてがある。
この不思議を体現したジュリアン・ムーアの演技はすばらしい。アルツハイマーが進行していく部分よりも、このスピーチの演技がすばらしい。
(2015年07月05日、中洲大洋2)
*
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若年性アルツハイマー症になった女性を描いている。ジュリアン・ムーアが不思議な演技をしている。「迫真の演技」であるかどうか、私はアルツハイマー症のひとと直接接したことがないので判断できないが、見ていて引き込まれてしまう。特に記憶を何とかとどめようと訓練するところ、自分を維持しようとするところに。
クリスマスの料理を準備しながら、ことばを思い出せるかどうか、自分で訓練している。黒板に単語を三つ書き、タイマーを設置して、時間になったら覚えているかどうかを確かめる。そのときの単語が、林檎とか、蜜柑とか、犬、猫、というのではなく、なにやらややこしい専門用語のようなものもある。彼女のキャリアにかかわる言語学上の言語だったかもしれない。そのこだわり方に、「真剣さ」があふれている。自分自身を「言語学者」と定義して、その定義のなかに自分を収めようとしている。
その一方で、彼女は自分がつくろうとしていたものを忘れてしまう。カボチャのプディングをつくろうとしていて、卵が何個必要か思い出せなくなる。ネットでレシピを探すのだが、その過程でプディングを忘れてしまい、違うものをつくる。
しかし、この異変に気がつくのは、プディングを楽しみにしていた末っ子の娘だけで、他の家族は気がつかない。また、ジュリアン・ムーアは末っ子が「異変」を感じているということを、感じ取ることができない。ここに、何とも言えないおそろしさのようなものが潜んでいる。
ひとはひと(自己を、あるいは他人を)をどう「定義」するか。アリスは自分を「言語学者」と「定義」している。「母親」とも「定義」している。母親は料理をつくる。末っ子は母親は自分のために大好きなプディングをつくってくれる人である。しかし他の家族にとっては「料理をつくるひと」であって、「プディングをつくるひと」ではない。だからカボチャのスープ(?)がテーブルに運ばれてきても「異変」とは感じない。「母親/料理をつくるひと」と「定義」しているかぎり、ジュリアン・ムーア自身も「異変」に気がつかない。
ひとは他人の「異変」には、なかなか気づかない。自分の「異変」にも気づかないときがある。自分に直接かかわりがないかぎり、自分の「本質」であると「定義」しているものにかかわらないかぎり、「異変」とは思わない。だから、「異変」が起きたとき、それにどう対処すればいいのかということも、わからない。真剣に考えない。
夫のアレック・ボールドウィンが象徴的である。いくつもの「異変」を直接見ている。ジュリアン・ムーアがアルツハイマー症であることもわかっている。それなのに自分の昇進のために病院のある土地へ引っ越そうと提案する。アルツハイマー症にとって、それがどんなに危険なことであるか、配慮できない。彼にとっての彼自身の「定義」は優秀な「医学者」であって、「夫」ではない。
この映画では、たまたまジュリアン・ムーアは「自覚的」に行動しているが、誰もが彼女のように「自覚」できるわけではない。物忘れがひどくなったかな、と思っても病気とは思わない。周りの人も、小さな「異変」は見落としてしまう。そのあいだに症状が進行し、対応が難しくなる。そういう危険性がある。
この映画は、アルツハイマー症の苦悩を描くと同時に、その家族への静かな警告になっている。アルツハイマー症のひとにどう向き合うべきかを、静かに語っている。その警告を、どう受け止めることができるか。それを問われているように感じた。
「自己の定義」をめぐっては、自分を「女優」であると「定義」している末っ子だけが、最後は親身になるというのも、なかなかおもしろい。プディングをつくってくれるからお母さんが大好き、というような、直接的な愛情でかかわっていたのは彼女だけというのは、ある意味、リアルすぎて怖くもあるが……。
少し映画が描いていることから脱線したかもしれない。
この映画のハイライトは、ジュリアン・ムーアがアルツハイマー症の集いで、自分自身の感じていることをスピーチする部分である。自分は苦しい、と訴えことで自分の「尊厳」を守っている。苦悩を隠すのではなく、苦悩をそのままことばにする。その姿をジュリアン・ムーアはただ「ことば(せりふ)」で伝えるのではなく、肉体そのもので再現している。原稿を繰り返して読まないように、黄色いマーカーで文字をたどりながら読む。どこを読んだかはっきり区別するためである。そういう工夫をしながら生きていることを、そのまま見せる。「これが私である」と全部見せる。
彼女がアルツハイマーであると知らなければ、きっとアルツハイマーであることを忘れてしまう。そこにアルツハイマーの苦悩が語られていても、健常な人間のスピーチと思ってしまう。この不思議さのなかに、この映画のすべてがある。
この不思議を体現したジュリアン・ムーアの演技はすばらしい。アルツハイマーが進行していく部分よりも、このスピーチの演技がすばらしい。
(2015年07月05日、中洲大洋2)
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