詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(12)

2015-07-11 08:58:43 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(12)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「ハッシャバイ」は子守唄だろうか。私が知っている「歌詞」とは違うが、長田はこんなふうに始めている。

昔ずっと昔ずっとずっと昔
お月さまがまだ果物だった頃
神さまは熟したお月さまを摘んで
世界の外れにある大きな戸棚に
仕舞ってからぐっすり眠った
世界は眠ったみんな眠った
おやすみなさいと闇が言った
おやすみなさいとしじまが言った
ハッシャバイ(静かに眠れ)

 「お月さまがまだ果物だった頃」という発見が楽しい。それを摘んで戸棚に仕舞うというのも楽しい。あした起きたら、戸棚に熟した果物がある、という夢をこどもに与えてくれる。あした起きるために、さあ、眠ろう。「眠る」と「起きる(目覚める)」は反対のことなのだけれど、この「反対」が「わくわく」という感じにつながる。
 ひとは(こどもは?)反対のことをしたがるものである。
 そのあとの「眠った」「おやすみなさい」「言った」という繰り返しは、子守唄そのままの静かさがある。「発見する」のではなく、知っていることを繰り返すときの「安心感」がある。
 このあと詩は転調する。

人生は何でできている?
二十四節気八十回と
おおよそ一千個の満月と
三万回のおやすみなさい
そうして僅かな真実で

 「二十四の節気八十回」以下の三行は、長田の八十年の人生で繰り返されたこと。そのなかに「三万回のおやすみなさい」がある。それは「二十四節気」や「満月」とは違い、人間が(長田が)繰り返したことである。そのとき、長田のそばには、だれかがいた。だれかに「おやすみなさい」と言ったのだ。
 最終行の「真実」をどう読むか難しいが、私は、長田が繰り返した「おやすみなさい」にその答えがあると思う。だれかに対して「おやすみなさい」とあいさつをする。それは「発見」ではないが、つまりこれまでこの詩集で読んできた「真実」とは違うものだが、人間の暮らしのなかで共有されてきたものだ。誰が発見した(発明した?)のかわからないが、ひとは「おやすみなさい」とあいさつをして眠る。あいさつをするとき、その人に対して何かを思いやっている。母親がこどもに子守唄を歌うような、しずかな思いやりがある。それを「おやすみなさい」ということばは引き継いできた。
 また、「おやすみなさい」をいうとき、ひとはただ「おやすみなさい」とだけ言うわけではない。母親が歌った子守唄のなかに「お月さまがまだ果物だった頃」という「真実ではない」何かがある。「真実ではない」けれど、その「真実ではないところ」に「真実」がある。こどもをわくわくさせる何か。こどもをわくわくさせたいという、思い。そうであったらいいのに、という「願望の真実/真実の願い」がある。
 「真実ではないところにある真実」という矛盾。詩も、もしかすると、そういうものかもしれない。ことばが少し違うところに寄り道して、「一瞬」を遊んでいる。「一瞬」を「一瞬」のまま充実させている。時間を忘れて生きている。
最後の詩集
長田 弘
みすず書房
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