詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉本修『美しい動物園』

2015-07-25 09:17:44 | 詩集
倉本修『美しい動物園』(七月堂、2015年05月11日発行)

 倉本修『美しい動物園』の表紙の絵がおもしろい。何が描いてあるか、はっきりとはわからないが、私はそこに「目」を見た。そして背後に「交差した足(組んだ足)」を見た。それから抽象的なカバン。さらに恐竜の突き出した首。海と空と陸地。鳥。描かれている空は曇っているのだが、陸地、目、カバンには光が当たっている。この光と影というか、陰影の対比は「風景画」のひとつの技法である。風景画はたいていの場合、肉眼で見るよりも明暗の対比が大きい。--と、つづけていくと、だんだん全体を見ていくことになるし、批評(感想)にも近づいていくようなのだが、こういうことばの運動は、まあ、あてにならない。だんだん、間違っていく、といった方がいい。「目を見た」と書いたときだけが正しい印象で、あとは惰性である。惰性でも、ことばはつづいてゆき、ことばがつづいてしまうと、そこにひとつの「世界」ができてしまう。これは、実はたいへんな問題であると思う。ことばがかってに運動して「世界」になる、ということが起きてしまう。私は「風景画の技法」なんてことを書くつもりはなかったが、私の「肉体」のなかにあったことばが、だんだん刺戟されて、目覚めてきて、動いてしまった。無意識が動いたということかもしれないが、なんだかよくわからない。私はいいかげんなのである。
 こういう書き出しではじめると、倉本修『美しい動物園』の作品(詩)批判になってしまうかもしれない。「美しい動物園」という作品は「案内図」「プロローグ」にはじまり、動物を紹介しながら「エピローグ」「おまけ」とつづいていく。つづけることで「動物園」という「世界」があらわれる。「世界」ができてしまう。そういうことと重なってしまうからである。
 でも、これは「私(谷内)の読み方」であって、倉本の思考(肉体)とは関係がない。私がいいかげんなだけであって、倉本がいいかげんに書いているということではない。私はもともと、そこに何が書いてあるか、ということを気にしたことがない。私が何を読んだか、そこから何を考えることができるか、しか気にしていない。何を考えることができるか、ということは、考えてみないとわからない。「結論」などない。だから、書くのである。
 あ、だんだん詩から離れていってしまいそうだが。これを前置きにして、詩に戻る。

 「美しい動物園」のなかに「カブラン」を紹介した部分がある。どんな動物であるかは、引用が面倒なので省略する。私が、はっと思ったのが、

「知能程度はB」とあるが? よく分からない。「B」の意味は?
 近くにいた飼育員に聞いてみるが怪訝そうに首を傾げるだけだ。「A」より下「C」より上などということではあるまいか……。

 「B」の意味は? 「A」より下「C」より上などということではあるまいか……。これを、どう思う? 私は倉本につられて、一瞬同じように考えたのだが、変じゃない? もしかすると「A、B、C、D、E」と5段階評価ということもありうる。「F(落第)」を含めて6段階評価かもしれない。10段階、24段階かもしれない。「A、B」の2段階かもしれない。分からないのに、なぜか「A、B、C」の3段階を信じてしまう。
 これは、私が3段階評価というものになれていて、「肉体」がそれをおぼえているために、無意識にそう動いてしまうのである。「好き、嫌い、どっちでもない」という感じの3段階(あるいは3分類)。「パクシオン」という動物の紹介には「S」という知能評価がでてきて、それについては「A」より上の最高値なんだろう、と書かれているが、これはこれで「なれ親しんでいる」基準なので、違和感もなく納得してしまう。
 で。
 これが私たちの(あえて、私たちのと私は書くのである)、ことばの運動の大きな問題点。私たちはことばを意識的に動かしているようであっても、実は、ほとんどを無意識に動かしている。そして、その「無意識で動かしていることば」が全体を統一してしまう。そういうことがあるのだと思う。
 「美しい動物園」というのは架空の動物園である。つまり、そこに書かれていることばは「現実」に即して「ことば」を対応させて動いているわけではなく、こういうものを「存在させよう」と意識しながら動いている。意識が全体を統一しているはずである。それにもかかわらず、そこには無意識が入ってきている。それだけではなく、そこに無意識が入ってくることで、「架空のことば(嘘/でたらめ)」が読者と共有できるものになる。どんなに「でたらめ」を書いても(書こうとしても)、どこかに必ず「無意識」の「肉体(無意識の真実)」が入り込んで、それが結託してしまう。

 ここから、どうやって、逃れるか。

 いや、逃れなくてもいいのかもしれないが、私は逃れられたらおもしろいなあ、と思う。詩というのは、たぶん、「無意識」と結託することを拒絶して、それを突き破り、逃げて行く「本能」のようなものだと、私は考えたいのである。

 こんなことを書くと、またまた倉本の詩から脱線してしまうようでもあるが、私は、倉本の詩に近付きたくて書いている。
 私は最初に詩集の表紙について書いた。そこに描かれている絵について書いた。「目」を見つけた。この瞬間が、たぶん、「絵の中の詩」を発見した瞬間なのだ。「絵」から「目」が逃げ出してきて、私と衝突したのだ。そこで私は立ち止まらなければならなかったのだ。立ち止まらずに「組んでいる足」を見た、とつないだ瞬間から、私はずるずるずるるっと「見る」ということ、絵ということの「無意識の世界」に自分を組み込んでしまった。「目」から離れてしまった。私のことばは、逆に「目」のなかへこそ入り込まなければならなかったのである。「目」になって「絵」から逃げ出さなければならなかったのである。
 これを、詩に当てはめると……。(こんな読み方は「強引」であることは承知しているのだが、私は「強引」な人間なのである。マッチョなのである。)

 「B」の意味は?/(略) 「A」より下「C」より上などということではあるまいか……。

 さっと書かれている「意味」。「意味」が「A、B、C」の三段階(上、中、下)に動いていくときの「意識の運動」のなかへ、私たちは飛び込んでゆき、その運動で、倉本が書いている「全体」を破壊してしまわないと、ここに書かれていることは「空想散文」になってしまう。
 でも「意識の運動」のなかへ飛び込むって、どうやって?
 あ、私にも、わからないのだけれど。わかっていたら、こんなことを長々と書かずに、さっさとそれを書いているのだけれど。
 でも、きっと、そういうことなのだ。
 倉本の書いている動物園は「架空」の動物園。そこには「事実」は書かれてはいない。けれど、それを事実と感じるのはどうしてなのか。私は、知能評価(3段階評価)のなかに、「架空のことば」と「私のことば」をつないでいる「無意識」を見たが、ほかにもたとえば「食べる」という「動詞」にも同じことを感じる。
 「ヘェルトン」のなかに「食べる」ということばが出てくる。それは、餌は「もつだろうか」ということばと対になっている。餌がある。それがあるときは、それを「食べる」。えさがない。「食べられない」。その「食べる/食べられない」の「あいだ」に、餌がありつづけるという状態がつづいている。その「ありつづける」を私たちときどき「もつ」という動詞で言い換える。「食べる-餌がある/もつ-食べられない」。「ある」を「もつ」と言い換えるときの、私たちの「無意識」のなかで動いている何か。そこへこそ、私たちは踏み込んで、そこにとどまりながら、この詩を読まなければならない。

 うろおぼえのたとえ話。私たちの世界には「強い力」と「弱い力」がある。素粒子の結合は「強い力」。重力は「弱い力」。なぜ重力の力が弱いかというと、それは力が「異次元」に漏れているからなのだ。その「異次元」のようなものが、「ことば」にもある。餌が「ある」を、えさが「もつ」と言い換えるとき、「食べる」が「食べることでいのちをたもつ(もちつづける)」という意識と触れ合っているのかもしれない。いのちを「もつ」ために「食べる」。こういう「異次元」の存在を感じるためのテキストとして、倉本の詩を読むと、とてもおもしろいものになると思う。そういうものを探しながら、読む、というところに私は踏み止まってみたい。言い換えると、「食べる/もつ」という動詞が結びつくことばの運動を私は美しいと思う、というところに私は踏み止まりたい。「B」の意味は?と感じた瞬間に踏み止まりたい。その瞬間に、私の何が動いたのかをもっとはっきりと見たい。
 倉本の詩は「架空の動物園」を描くふりをして、実は、ことばの無意識の異次元をさぐりあてる仕事をしているのだ、というところに踏み止まって、そのことばを読み直したい。
 で、
 そういう視点から、ちょっと注文をつけると。
 「美しい動物園」の「プロローグ」の、

自然環境の豊かさは他に類をみないほど美しい。

 この「他に類をみないほど」というような常套句は、「食べる/もつ」のつかみとっている「無意識の異次元」のようなもとは相いれない。「肉体」が動いていない「頭の無意識」。こういうことばは、倉本の世界をこわしてしまう、と思う。


美しい動物園
クリエーター情報なし
七月堂
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ジョン・ヒューストン監督「アフリカの女王」(★★★)

2015-07-25 06:12:57 | 映画
ジョン・ヒューストン監督「アフリカの女王」(★★★)

監督 ジョン・ヒューストン 出演 ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘップバーン
 荒唐無稽なストーリー。でも、これをたった二人(ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘップバーン)に演じさせたので、荒唐無稽ではなくなった。(ほかにも何人か出てくるが、ほとんど二人だけ)。なぜかというと、すべてが二人の感情の動きとして表現されてしまうからだ。起きていることが荒唐無稽でも、人間の感情には荒唐無稽はない。「年増女」と言われれば、むっとする。キスされれば感じてしまう。ほれられればがんばろうと思う。強がりもする。
 キャサリン・ヘップバーンはうまい。ほんとうに、うまい。あの、美人でもない顔、しかも若くない顔が、喜びの瞬間、輝き出して美しく見える。感情がはつらつと動けばだれでもが美しくなれるのだ。
 最初の急流下りがおもしろい。ジェットコースターみたいなものだが、怖さよりも、おもしろさ。味わったことのないことに興奮してしまう。そんなはずがないだろう、といいたいけれど、えっ、キャサリン・ヘップバーンって、こういうことに興奮するんだと、「役」と「本人」を混同してしまう。
 だんだんお転婆(?)になって男(ハンフリー・ボガート)を振り回し、振り回すことで男を夢中にさせるというのはオードリー・ヘップバーンの得意とする役どころだが、これをキャサリンがやってしまうところが、とてもおもしろい。きゃしゃなお人形さんではなく、皺の目立つ年増女だから、アフリカの過酷な自然がよく似合う。強さに納得してしまう。
 ハンフリー・ボガートは、あいかわらずの、何もしない演技(まあ、今回はかなり動くけれど)で女を引き立て、女を引き立てることができる「いい男」になっている。不思議だ。困惑し、文句をいいながら、女の注文をきちんとこなしてしまう。その、こなしかたにジェームズ・ボンドとは違う「生身」の感覚がある。はつらつ(?)としていないので、これくらいなら俺にもできるかな、と思わせる。中年恋愛ヒーローの「星」かも。文句をいいながら、やってしまうところが、女から見れば「かわいい」のかも。きっとどこかで手伝うということが起きて、自分がいなければだめなんだ、と女に勘違いさせるのかな?(女から何か言われたら、文句をいいながら、こなそう。--もてるコツ)
 だれが思いついたキャスティングか知らないが、だれでも恋愛アドベンチャーの主役になることができることを教えてくれる映画。「感情」が主役なのだから「芝居」でもよさそうなのだが、アフリカの「野生」の自然のなかで、人間(キャサリン・ヘップバーン)の「野生」が輝くというのが見せ所なので、これはやっぱり映画ならでは、だね。
              (「午前十時の映画祭」2015年07月24日、天神東宝4)
  



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アイ・ヴィ・シー
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