アレクセイ・ゲルマン監督「神々のたそがれ」(★)
監督 アレクセイ・ゲルマン 出演 レオニド・ヤルモルニク、アレクサンドル・チュトゥコ、ユーリー・アレクセービチ・ツリーロ
私は、こういう「頭でっかち」の映画は嫌いである。
映画がはじまって間もなく、映画のストーリーが紹介される。ある惑星に地球から調査団が派遣された。ルネッサンスの地球に似ているが、そこでは「文化」が否定されている。つまり、これはもしルネッサンスがなかったら地球はどうなっていたかを描いている。世界から色彩は消え(モノクロで描かれる)、市民は人間性を否定され、ただ権力者に支配されている。しかし、支配されているといっても、どうすればその「支配構造」を利用して(?)支配する側にまわれるかということが(逆に言うと、この世界を改善するためにはどうすればいいのかということが)、まったくわからない。つまり、希望がない。そのため自分の身の回りでできる「支配」を自分なりにつくりだして日々を暮らしている。奴隷がいて、暴力がまかりとおっている。何をするにも暴力で言い聞かせる。
これがなんとも汚らしい。雨にぬかるんだ地面は自然現象だとしても、非衛生的なトイレ、糞尿のあつかいに始まり、建物のがらくたかげん、調度の乱雑さ、食べているもののまずそうな感じ、不衛生な肉体。醜い顔に、醜い肉体。彼らはほんとうに役者なのか。まったく手をゆるめず、これでもか、これでもか、と細部の汚さ、醜さにこだわって見せる。人間だけではなく動物も出てくるのだが、鶏までもが、まるでルネッサンスを知らない無秩序な目つき、動きをしていると言いたくなる。鶏に演技はできないから、これは、それだけ他の細部が映画の狙いどおりにきちんと支配されているということ(監督の狙いどおりに設計されているということ)なのだが……。
こんな汚いものを、飽きもせずに、よく撮ったなあ。そこが、すごいといえばすごいなのだけれど(たぶん、そのあたりを評価すると★5個になる)、私は嫌いだなあ。
その昔、「アギーレ/神の怒り」「フィッツカラルド」(ともにヴェルナー・ヘルツォーク監督、★5個)という映画があった。大自然のなかで無謀なことをこころみる。自然と文明が衝突する。格闘する。長い長い隊列を組んでアンデス山脈(だったかな?)を越える俯瞰のシーンや、「蒸気船」をひっぱって山越えさせるというむちゃくちゃがおこなわれる。登場人物だけでなく映画そのものも疲れ切った感じになるところが、まるで実際にそこで起きていることを体験しているように思えてくる。
それに比べると、この「神々のたそがれ」はそういう「疲労感」をもたらさない。汚さが気になって、あ、まだ終わらない、という疲労感が残る。糞を映したシーンなど、泥と糞が区別がつかない。カラーなら、区別ができるから(?)、ここまで疲労感は残らないだろうなあ、と思ったりする。
いや、ほんとうに、嫌いだ。
「嫌いだ」と書きながら、こんなに長く書いているのは、まあ、好きなところもあるからだ。
音楽が奇妙である。主人公がクラリネット風(?)の変な楽器でメロディーを吹く。美しい音楽とは言えない。へたくそである。しかし、そのへたくそさ加減が、失われていく何かを甦らせようとしているようで不思議に悲しい。さらに、そのあと口笛でハモるシーンがある。その「和音」が生まれる瞬間がおもしろい。どこかに、その音楽と同じような「調和」があるのだ。人間はそれをつくりだせる。その「調和」を主人公は追い求めている。そう感じさせるのである。ホルンのようなものにクラリネットをあわせようとするシーンもある。秩序のない世界で、かすかな「音楽」の記憶だけが秩序なのである。(ルネッサンスというと絵画、彫刻を思い出すが、音楽にもルネッサンスはあったのかな?)
そして最後の最後。そこにも音楽が出てくる。シンプルな音。野のむこうからやってきた親子。その子どもが音楽を聴きながら、「この音楽好き?」と聴く。父親はあいまいにこたえる。そして、その親子のやってきた野を横切って馬に乗った兵隊が消えると、白い白い雪の野。静かで、とても美しい。人間のやってきた蛮行とは無関係に、そこに自然の(気候の、つまり宇宙の)美しさがある。
ルネッサンスは人間の再発見のように定義されるけれど、この映画を見ると、もしかすると「自然(宇宙)」の再発見だったのかもしれないと思えてくる。主人公が最後に到達した世界がラストシーンだからね。そこから推測すると。
(2015年07月19日、KBCシネマ2)
監督 アレクセイ・ゲルマン 出演 レオニド・ヤルモルニク、アレクサンドル・チュトゥコ、ユーリー・アレクセービチ・ツリーロ
私は、こういう「頭でっかち」の映画は嫌いである。
映画がはじまって間もなく、映画のストーリーが紹介される。ある惑星に地球から調査団が派遣された。ルネッサンスの地球に似ているが、そこでは「文化」が否定されている。つまり、これはもしルネッサンスがなかったら地球はどうなっていたかを描いている。世界から色彩は消え(モノクロで描かれる)、市民は人間性を否定され、ただ権力者に支配されている。しかし、支配されているといっても、どうすればその「支配構造」を利用して(?)支配する側にまわれるかということが(逆に言うと、この世界を改善するためにはどうすればいいのかということが)、まったくわからない。つまり、希望がない。そのため自分の身の回りでできる「支配」を自分なりにつくりだして日々を暮らしている。奴隷がいて、暴力がまかりとおっている。何をするにも暴力で言い聞かせる。
これがなんとも汚らしい。雨にぬかるんだ地面は自然現象だとしても、非衛生的なトイレ、糞尿のあつかいに始まり、建物のがらくたかげん、調度の乱雑さ、食べているもののまずそうな感じ、不衛生な肉体。醜い顔に、醜い肉体。彼らはほんとうに役者なのか。まったく手をゆるめず、これでもか、これでもか、と細部の汚さ、醜さにこだわって見せる。人間だけではなく動物も出てくるのだが、鶏までもが、まるでルネッサンスを知らない無秩序な目つき、動きをしていると言いたくなる。鶏に演技はできないから、これは、それだけ他の細部が映画の狙いどおりにきちんと支配されているということ(監督の狙いどおりに設計されているということ)なのだが……。
こんな汚いものを、飽きもせずに、よく撮ったなあ。そこが、すごいといえばすごいなのだけれど(たぶん、そのあたりを評価すると★5個になる)、私は嫌いだなあ。
その昔、「アギーレ/神の怒り」「フィッツカラルド」(ともにヴェルナー・ヘルツォーク監督、★5個)という映画があった。大自然のなかで無謀なことをこころみる。自然と文明が衝突する。格闘する。長い長い隊列を組んでアンデス山脈(だったかな?)を越える俯瞰のシーンや、「蒸気船」をひっぱって山越えさせるというむちゃくちゃがおこなわれる。登場人物だけでなく映画そのものも疲れ切った感じになるところが、まるで実際にそこで起きていることを体験しているように思えてくる。
それに比べると、この「神々のたそがれ」はそういう「疲労感」をもたらさない。汚さが気になって、あ、まだ終わらない、という疲労感が残る。糞を映したシーンなど、泥と糞が区別がつかない。カラーなら、区別ができるから(?)、ここまで疲労感は残らないだろうなあ、と思ったりする。
いや、ほんとうに、嫌いだ。
「嫌いだ」と書きながら、こんなに長く書いているのは、まあ、好きなところもあるからだ。
音楽が奇妙である。主人公がクラリネット風(?)の変な楽器でメロディーを吹く。美しい音楽とは言えない。へたくそである。しかし、そのへたくそさ加減が、失われていく何かを甦らせようとしているようで不思議に悲しい。さらに、そのあと口笛でハモるシーンがある。その「和音」が生まれる瞬間がおもしろい。どこかに、その音楽と同じような「調和」があるのだ。人間はそれをつくりだせる。その「調和」を主人公は追い求めている。そう感じさせるのである。ホルンのようなものにクラリネットをあわせようとするシーンもある。秩序のない世界で、かすかな「音楽」の記憶だけが秩序なのである。(ルネッサンスというと絵画、彫刻を思い出すが、音楽にもルネッサンスはあったのかな?)
そして最後の最後。そこにも音楽が出てくる。シンプルな音。野のむこうからやってきた親子。その子どもが音楽を聴きながら、「この音楽好き?」と聴く。父親はあいまいにこたえる。そして、その親子のやってきた野を横切って馬に乗った兵隊が消えると、白い白い雪の野。静かで、とても美しい。人間のやってきた蛮行とは無関係に、そこに自然の(気候の、つまり宇宙の)美しさがある。
ルネッサンスは人間の再発見のように定義されるけれど、この映画を見ると、もしかすると「自然(宇宙)」の再発見だったのかもしれないと思えてくる。主人公が最後に到達した世界がラストシーンだからね。そこから推測すると。
(2015年07月19日、KBCシネマ2)
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