詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクセイ・ゲルマン監督「神々のたそがれ」(★)

2015-07-19 21:34:36 | 映画
アレクセイ・ゲルマン監督「神々のたそがれ」(★)

監督 アレクセイ・ゲルマン 出演 レオニド・ヤルモルニク、アレクサンドル・チュトゥコ、ユーリー・アレクセービチ・ツリーロ

 私は、こういう「頭でっかち」の映画は嫌いである。
 映画がはじまって間もなく、映画のストーリーが紹介される。ある惑星に地球から調査団が派遣された。ルネッサンスの地球に似ているが、そこでは「文化」が否定されている。つまり、これはもしルネッサンスがなかったら地球はどうなっていたかを描いている。世界から色彩は消え(モノクロで描かれる)、市民は人間性を否定され、ただ権力者に支配されている。しかし、支配されているといっても、どうすればその「支配構造」を利用して(?)支配する側にまわれるかということが(逆に言うと、この世界を改善するためにはどうすればいいのかということが)、まったくわからない。つまり、希望がない。そのため自分の身の回りでできる「支配」を自分なりにつくりだして日々を暮らしている。奴隷がいて、暴力がまかりとおっている。何をするにも暴力で言い聞かせる。
 これがなんとも汚らしい。雨にぬかるんだ地面は自然現象だとしても、非衛生的なトイレ、糞尿のあつかいに始まり、建物のがらくたかげん、調度の乱雑さ、食べているもののまずそうな感じ、不衛生な肉体。醜い顔に、醜い肉体。彼らはほんとうに役者なのか。まったく手をゆるめず、これでもか、これでもか、と細部の汚さ、醜さにこだわって見せる。人間だけではなく動物も出てくるのだが、鶏までもが、まるでルネッサンスを知らない無秩序な目つき、動きをしていると言いたくなる。鶏に演技はできないから、これは、それだけ他の細部が映画の狙いどおりにきちんと支配されているということ(監督の狙いどおりに設計されているということ)なのだが……。
 こんな汚いものを、飽きもせずに、よく撮ったなあ。そこが、すごいといえばすごいなのだけれど(たぶん、そのあたりを評価すると★5個になる)、私は嫌いだなあ。
 その昔、「アギーレ/神の怒り」「フィッツカラルド」(ともにヴェルナー・ヘルツォーク監督、★5個)という映画があった。大自然のなかで無謀なことをこころみる。自然と文明が衝突する。格闘する。長い長い隊列を組んでアンデス山脈(だったかな?)を越える俯瞰のシーンや、「蒸気船」をひっぱって山越えさせるというむちゃくちゃがおこなわれる。登場人物だけでなく映画そのものも疲れ切った感じになるところが、まるで実際にそこで起きていることを体験しているように思えてくる。
 それに比べると、この「神々のたそがれ」はそういう「疲労感」をもたらさない。汚さが気になって、あ、まだ終わらない、という疲労感が残る。糞を映したシーンなど、泥と糞が区別がつかない。カラーなら、区別ができるから(?)、ここまで疲労感は残らないだろうなあ、と思ったりする。
 いや、ほんとうに、嫌いだ。
 「嫌いだ」と書きながら、こんなに長く書いているのは、まあ、好きなところもあるからだ。
 音楽が奇妙である。主人公がクラリネット風(?)の変な楽器でメロディーを吹く。美しい音楽とは言えない。へたくそである。しかし、そのへたくそさ加減が、失われていく何かを甦らせようとしているようで不思議に悲しい。さらに、そのあと口笛でハモるシーンがある。その「和音」が生まれる瞬間がおもしろい。どこかに、その音楽と同じような「調和」があるのだ。人間はそれをつくりだせる。その「調和」を主人公は追い求めている。そう感じさせるのである。ホルンのようなものにクラリネットをあわせようとするシーンもある。秩序のない世界で、かすかな「音楽」の記憶だけが秩序なのである。(ルネッサンスというと絵画、彫刻を思い出すが、音楽にもルネッサンスはあったのかな?)
 そして最後の最後。そこにも音楽が出てくる。シンプルな音。野のむこうからやってきた親子。その子どもが音楽を聴きながら、「この音楽好き?」と聴く。父親はあいまいにこたえる。そして、その親子のやってきた野を横切って馬に乗った兵隊が消えると、白い白い雪の野。静かで、とても美しい。人間のやってきた蛮行とは無関係に、そこに自然の(気候の、つまり宇宙の)美しさがある。
 ルネッサンスは人間の再発見のように定義されるけれど、この映画を見ると、もしかすると「自然(宇宙)」の再発見だったのかもしれないと思えてくる。主人公が最後に到達した世界がラストシーンだからね。そこから推測すると。 
                             (2015年07月19日、KBCシネマ2)


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泉冨士子『せんば 在りし日の面影』(2)

2015-07-19 10:20:18 | 詩集
泉冨士子『せんば 在りし日の面影』(2)(編集工房ノア、2015年07月01日発行)

 泉冨士子『せんば 在りし日の面影』には「せんば」の暮らしがていねいに描かれる。「おん田まつり」はまつりを見に行ったときのことを書いている。そこに「せんばことば」が出てくる。「こいちゃん、きょうはおん田まつりでしたな、ころっと忘れてましたわ、もうちょっとしたらお清どんについてもろて見物に行といなはれ、気いつけて行きなはれや」。たぶん母親のことばなのだが、この音の響きには不思議な味がある。
 「ころっと忘れてましたわ」と言っているけれど、母親はけっして忘れていたわけではないだろう。忙しくてまつりに子ども(原)をつれていけない。「もうちょっとしたら」ということばが、その忙しさを婉曲に語っている。もう少ししたら用事がすむ。ただし、母親はまだ手を離せない。かわりに「お清どん」が原を連れ出すことができる。原は原で、その忙しい感じがわかるので「行きたい」とだだをこねるわけでもない。じっと、母親の許しを待っている。そのときの母親と娘(親子)の力関係というと変だが、「暮らし」のなかで身に着けてきた「礼儀」のようなものがある。それが、ことばの奥から滲んで出てくる。「気いつけて行きなはれや」というのは、母が子どもにかける自然なことばだけれど、それをないがしろに聞くのではなく、きちんと聞いている感じが、そのことばを書き留めるところにあらわれていて、とてもいい感じだ。この「気いつけて行きなはれや」は、少しあとの方で「とうさん、お清の手しっかり持ってなはれや」と具体的に言い直されている。この「言い換え」によって、「場」がいきいきして来る。「口語」ひとつで、その感じを表現する。原のことばの力がとてもよく出ている行だ。子どもの原と母親が、その場にいるように感じる。お清どんも、仕事から解放されて、もう少ししたら原といっしょにまつりに行けると感じていることまでつたわって来るし、さらに、あ、しっかりと子どもの手をにぎって迷子にしてはいけないと思っていることまでつたわって来る。「口語」の力である。「口語」を聞き取る、原の耳の力でもある。
 それから着飾って出かけるのだが、その着替えのとき、新しい下駄を履く。横町の下駄屋の主人がすすめた下駄だ。「とうちゃんにはこの下駄がいちばんお似合いでっせ」。なんでもないことばだが、その「口語」によって、下駄屋の主人の姿まで見えてくる。腰をかがめて、下駄を履かせて、子どもの原と同じ視線の高さで原を見つめながら言っているのだろう。同じ高さの視線で言っているから、子どもの原はそのことばをほんとうだと感じる。
 そうやって、まつり見物に出かけるのだが、梅雨時のまつりなので、雨が降って来る。そこからあとの部分が、とても美しい。

そのうちに梅雨のあめが、街のあかりの中にくっきりと見えだした。
山車は急に前の川の中へ姿を消す。人々は軒下に身を寄せ、暗い灯
の下でお面をかぶっているように見える。思わずお清どんにしがみ
つく。

 耳のよさ(ことばを聞き、おぼえる力)は目にも反映している。原の目は、世界の変化を「くっきり」ととらえて、「肉体」でつかんで話さない。「あかり」のなかに「暗さ」も感じ取る。そのあとの「お面をかぶっているように見える」はありきたり直喩とも見えるが(だれもが簡単につかってしまう常套句のようだが)、まつりの屋台で「お面」を売っていて、実際にそれを持っているひともいるのだろう。「現実」がしっかりと描写のなかに組み込まれている。原のことばには、安直な「借り物」がない。

「ほな、かえりまひょ」お清どんの背中は、広うてぬくうて、こわ
いものや気持のわるいものは何もあがってこない。

 ここ出て来る「広うてぬくうて」という「口語」が、また、とてもおもしろい。「梅雨のあめが……」の「標準語」で書かれたことばは、情景をさっと描いて走る。「広うてぬくうて」は、その記憶を、ぐいと「肉体」そのものに引き寄せて、たちどまる。「ほな、かえりまひょ」というお清どんの「口語」に誘われてことばが幼いときのままにもどるのだが、この変化がとてもおもしろい。「こわいものや気持のわるいものは何もあがってこない。」という「こころの動き/安心感」が、まさに、動いたままの状態でつたわってくる。誰かにおんぶしてもらって安らいだときの思い出が、「肉体」の奥から甦って来る。

せんば―在りし日の面影 泉冨士子詩集
泉 冨士子
編集工房ノア

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