詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダミアン・ジフロン監督「人生スイッチ」(★★★★)

2015-07-26 22:16:13 | 映画
ダミアン・ジフロン監督「人生スイッチ」(★★★★)

監督 ダミアン・ジフロン 出演 知らない人ばかり……

 とてもおもしろい。そして、なぜおもしろいかというと、短いからだ。6篇のストーリーがある。共通点は、あることにプッツンしてしまって、暴走する。そういう人間の衝動、ということ。でも、それは見せ掛けの「共通項」。ほんとうは「短い」ということの方が大事な共通項である。
 たとえば、高速道を走っていて、前の車が遅い。それを追い抜き様にののしる。それが原因で車に追いかけられる。(実際は追いかけられるのではないが……。)これって、スピルバーグの「激突!」と同じ構図。違うのは短さ。長い作品だと、どうしても繰り返しが多くなる。そっくりそのままの繰り返しではなく、手を変え品を変えての繰り返し。そして、その繰り返しのなかで、感情が濃密になっていく。煮詰まって行く。その結果、たとえば「激突!」の場合、追いかけてくるタンクローリーがだんだん「人間」に見えてくる。タンクローリーに感情移入してしまう。最後にタンクローリーががけ下に転落していくときの警笛(?)の音など、人間の悲鳴のように聞こえてしまう。映画の醍醐味は、この「感情移入」にある。観客が登場人物になってしまうことにある。長い作品だと、見ているうちにだんだん「感情」が感染してくるのである。
 ところが、短い作品だと「感情移入」をしている余裕がない。えっ、何これ! と驚き、笑っているあいだに終わってしまう。それに「終わり」といっても、現実にもし映画に描かれていることが起きたら、とてもそこで「終わり」ではない。冒頭の飛行機乗っ取り自殺というのは飛行機が墜落したあとがたいへんだ。金持ちの息子の身代わりになって交通事故の加害者になる男も、最後は突然被害者の夫に殴り殺されてしまう(ケガをさせられるだけかも)。それでは「事件」は解決したことにならない。ほんとうは「事件」は「おわり」ではないのだ。「おわり」なのは「感情」なのである。使用人を息子の身代わりにしようとした父親のあれこれの「感情」がここで「終わる」のであって、「事件」は別の形でつづいていく。(描かれていないけれど。)「感情」は観客に「移入」されるのではなく、スクリーンのなかで終わってしまう。これは、だから、まったく新しい映画なのである。登場人物の「感情」を映画の中に閉じ込めて、観客はただそれを傍観し、笑って見る。ストーリーが「わかる」ように、「感情」も「わかる」。けれど、その「感情」は共有しない。
 「あ、わかる、わかる、その気持ち」と日常で言うときに似ている。「わかる」けれど、いっしょになってそのことを考えたりしないね。どちらかというと、「ばかみたい」と思うのだけれど、そんなふうに言えないので「わかる、わかる」という。「感情」を訴えた方だって、それで十分。いっしょに泣いたりしてもらっては、めんどうくさい。いっしょに笑って(自分を客観化して)、それで「おしまい」にしたい。そういう感じだな。
 「感情移入/感情の共有」ではなく、「感情の客観化」。笑って、たくましく生き残って行く。そういう「知恵」かなあ。
 で。
 最後の「ハッピー・ウエディング」。これがいちばん象徴的。だから最後に置いてあるのだと思うのだが、結婚式で夫になる男の浮気を知り、プッツンしてしまう女、打ちのめされる男を描いているのだが、ふたりとも「感情」を爆発させたあと、変なことが起きる。大喧嘩して、憎しみ合っているはずなのに、やっぱり好きという「感情」があふれてきて、和解してセックスまでしはじめる。披露宴の会場なので、両親を含め親友や同僚など、客がたくさんいる。けれど、そういう人が「いる」ことを無視して、ふたりだけの「感情」になる。「感情」のまま、「本能」がセックスをする。「感情」なんて、他人には関係がない。「感情」(ふたりの関係)を他人がどう思おうが(同情/共感しようが、反発しようが、ばかと思おうが)、その「感情」が他人のものになることはない。あくまで「自分のもの(ふたりのもの)」。だから「大喧嘩したけど、好きだ、愛している」と思えばそれでいいのだ。「あんな男のどこがいい」「あんな女と結婚して不幸になるだけだ」という忠告(?)なんか知ったことではないのだ。
 「共感させない」という「共感」を描いている。そういう「感情」がある、だれでもそういう「感情」をもっているという「客観的事実」の「理解」を誘う映画なのである。
 あ、駐車違反の取り締まりに頭に来て、爆破事件を起こした男は刑務所でみんなに誕生日を祝ってもらっている。あれは「共感」では? 違うね。単なる「理解」。祝っているひとは刑務所の中にいるひと。刑務所の外にいるひとは、いっしょには祝ってはいない。刑務所仲間だって、その男の気持ちは「わかる」というだけにすぎない。そのあと、いっしょになって爆破事件をおこすわけではないからね。
 感情の「共感」には長い時間がかかるが、「理解」には短い時間で十分。そういうことを知り尽くした上で、映画が短くつくられている。「天才」誕生といえるかも。
                      (2015年07月26日、KBCシネマ2)
 



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宇佐美孝二「しっぽの話」

2015-07-26 12:08:33 | 詩(雑誌・同人誌)
宇佐美孝二「しっぽの話」(「アルケー」10、2015年08月01日発行)

 宇佐美孝二「しっぽの話」には「方言」が出てくる。そのためなのだろうが、ところどころに注釈がついている。そして最後に、種明かしのようなものが、注釈に紛れ込ませて書いてある。それを無視して読むことにする。いや、それを読んだので、その「注釈」を消すために、この感想を書く。「注釈」がつまらないのだ。

ヌートリアがな、
と独り暮らしの母が
ソーメンを啜っているぼくに言うのである
畑のもんをうっつくしょ食ってってまってな。
ほおっ。
そう言えば 家の西の、土地を掘り起こした跡地で
水がたまって池に変わり果てたところ、
そこに最近棲みついたというのだ。

ごがわいてな、
のうきょうで買ってきたネズミ捕り、
いまはべたっとはっつくやつがあるで
それをあちこち置いといたんだわ。
そしたらネズミ捕りの紙が、
なしんなっとった。
やつら、くっ付けたまんまどこぞか行ってまったわ。
あれらもよう知っとるで、
それから出てこんなあ。

 「独り暮らしの母」が、息子が訪ねてきたのでソーメンを作って食べさせる。食べるのを見ながら、息子に話をしている。こういうときの話というのは、ほんとうだろうか。息子の関心をひきたくて話すのだろうか。
 「ヌートリア」なんて、いるんだろうか。こういうとき、辞書を引いたり、ネットで検索したりするひとがいるが、私は、そういうことはしない。
 間違っていてもいいから、自分の「カン」で読んでいく。その「カン」というのは、私はこんなふうに読みたいという「欲望」を別のことばで言い換えただけのものである。そこに書かれていることを正確に読むのではなく、私は私の「欲望」がどこにあるかを知りたくて読む、と言った方がいい。
 私の「カン」は、そんなものはいない、と言っている。「ぼく(宇佐美)」も、そう思っているのだろう。母は子どもの反応に敏感だから、「信じていないな」とわかる。だから、追い打ちをかけるように、「ヌートリア」を自分にひきつけて語りはじめる。それがどんな生き物か、形とか、色とかで説明するのではなく「畑のもんをうっつくしょ食ってしまってな」と。この「嘘」はうまいなあ。思わず「ほおっ」と「ぼく」答えてしまう。この「ほおっ」はヌートリアを信じたというよりも、母の嘘の動き方に感心したということだろうなあ。「ぼく」は母が畑で何かを作っている、ということを知っている。母はだんだん作るのがめんどうになって、やめてしまった。でもやめてしまったというのが言いにくくて、「ヌートリアに食べられた」と言うのである。で、「ほおっ」と感心しながら、信じたふりをする。
 母はさらに、息子が知っていそうなことをひっぱり出して嘘を補強する。「ほら、家の西の、土地を掘り起こした跡地で、水がたまって池に変わり果てたところ、あれをおぼえているだろう。あそこに棲んでいる」。嘘を完成させるためには「ほんとう」が必要なのである。「ほんとう」を含むことで、嘘は事実らしくなる。
 この「ほんとう」のまじえ方が、とてもおもしろい。その場しのぎの思いつき。思いついてしまうから、そこから嘘に弾みがつく。それが二連目なのだが、いやあ、ケッサクだなあ。
 「のうきょう」が具体的でいいなあ。母の生活は「のうきょう」なしでは成り立たないのだ。何でも「のうきょう」で調達してしまう。紙でできていて、べったりとはりつくネズミ捕り。「いまは」そういうものがある、というよりも、昔はあったなあ、と私は思い出してしまう。「いまは」ではなく、「いまも」あるかどうか、知らない。それを畑のまわりに置いておいたら、その罠にかかって、べたべたの紙をつけたままどこへ行ったか、もう出て来ない。
 出て来ないなら、畑を作りなおせばいいのだが、そのつもりはない。ほったらかし。これで、嘘がばれてしまうのだが、母はそこまでは気が回らない。ちゃんと嘘を貫き通したという気持ちがあるのだろう。ネズミ取りが畑のまわりにないのはヌートリアがつけていってしまったため。「論理」としては、それで整合性がとれる。「あれらもよう知っとるで」というのは、生き物をもちあげて、嘘をごまかすのである。
 そしてまた、この「あれらもよう知っとるで」には何か、動物に対する反応を超えた、母の日々の「感想」のようなものが含まれている。だれもかれもが、いろいろなことを「よう知っとる」。だまそうにも、だませない、ではなく、母の考えていることを見抜いていて、なかなか思うようにはならない。だれもが自分の世話だけにあけくれている。そういう老人が独り暮らしをしている集落の様子が、ちらりと、そこにのぞいている。

むかしはそんなもん、おらんかっただろ?
麺いっぱいの口で母の顔をのぞきこみぼくは訊く
そうじゃ、・・・いってぇどっから来たんだろな。

 だまされたふりをしながら、「ほく」は、いちおう「むかしはそんなもん、おらんかっただろ?」と聞いてみる。聞き返さないと、聞いていることにならないから。母の独りごとになってしまうから。
 宇佐美はやさしいんだなあ、と思ってしまう。
 聞き返されることで、「話」は存在する。ヌートリアは存在したことになる。それでいいのだ。

頭の上 五〇㌢ほど描いてみる
体毛にねずみ捕り紙をくっ付けたヌートリアが
月の晩に 水の中から目をこらして
世間(こっち)の様子を窺っている
母も
ぼくも
互いに
ひっそりと笑い合うのだ
水から出てきたばかりのしっぽのある
ヌートリアの目付きをして

 「嘘」を共有した。「嘘をついたんだけれど、わかった」「わかったよ、だけど、嘘つくな、なんて言わないよ」。そういう「やりとり」がここには隠れている。それが「世間」というものだ。それが老いた母と息子の「なじみ方」である。嘘をついたらだめ、嘘つくな、などと詰問していては、母だって生きにくい。何でもいいから話をして息抜きをしたい。つながりをもちたい。
 ばかし合い--なのだけれど、ちゃんと「しっぽ」を出して、「嘘ですよ」と言う。ほんとうにだましてしまうわけではない。「ひっそりと笑い合う」、その目の中に「了解」が隠れている。

 「注釈」には、いっさい触れなかったが、「注釈」なしだと、こんな読み方になる。
 そして、こういう読み方をするとき、頼りになるのは「口語」の響きである。詩の中に「方言(口語)」が出てきていることである。母は息子に、暮らしのなかで身に着けてきた、暮らしのことばそのもので語る。それは「無防備」の母の姿でもある。「口語」だから、「無防備な呼吸」が出てしまう。
 訪ねてきた息子にソーメンを出す。それはソーメンしか出せない、ということでもある。「畑をつくる力がなくなってしまって、いつはつくっていない。だからソーメンしか出せない」と正直に言ってしまってもいいのだけれど、それでは息子を心配させることになる。「だからいっしょに住めばいいのに」と言われてしまうかもしれない。そういう会話を避けたくて、母は「ヌートリアが畑のものを全部食ってしまったから、ソーメンしか出せない。ごめんね」と「理由」をこしらえるのである。そういうことは、謝ることでも何でもないのだけれど、そんなふうに「気遣い」をしながら、一方で自分の「暮らし」も守ろうとする。それが「昔の母」である。息子の前だから気が緩んで、身構えたつもりが逆に無防備になって、「地(生身)」が出る。息子に気をつかうことが「生身(地)」かと疑問に思う人もいるかもしれないが、そこに母の「人柄」のようなもの。これが「口語」の響きにぴったりあう。「口語」の響きを読んでいると、ついつい、そういう「人柄(人と向き合ったときの呼吸のととのえ方)」を感じてしまう。
 その「呼吸」にあわせて、「ぼく」の方もしだいにかわっていく。目と目で理解し合って「ヌートリア」になっていく。そうか、ヌートリアがこんなところにまで出るようになったのか、と二人で嘘を完成させる。
 宇佐美というのは、母に負けず劣らず、「人柄」がいい。この母にして、この子あり、とこういうときに言うかどうかしらないが、何だがうれしい気持ちになる。「人柄」が滲む詩が、私は好きなのだ。


ひかる雨が降りそそぐ庭にいて
宇佐美孝二
港の人
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