ダミアン・ジフロン監督「人生スイッチ」(★★★★)
監督 ダミアン・ジフロン 出演 知らない人ばかり……
とてもおもしろい。そして、なぜおもしろいかというと、短いからだ。6篇のストーリーがある。共通点は、あることにプッツンしてしまって、暴走する。そういう人間の衝動、ということ。でも、それは見せ掛けの「共通項」。ほんとうは「短い」ということの方が大事な共通項である。
たとえば、高速道を走っていて、前の車が遅い。それを追い抜き様にののしる。それが原因で車に追いかけられる。(実際は追いかけられるのではないが……。)これって、スピルバーグの「激突!」と同じ構図。違うのは短さ。長い作品だと、どうしても繰り返しが多くなる。そっくりそのままの繰り返しではなく、手を変え品を変えての繰り返し。そして、その繰り返しのなかで、感情が濃密になっていく。煮詰まって行く。その結果、たとえば「激突!」の場合、追いかけてくるタンクローリーがだんだん「人間」に見えてくる。タンクローリーに感情移入してしまう。最後にタンクローリーががけ下に転落していくときの警笛(?)の音など、人間の悲鳴のように聞こえてしまう。映画の醍醐味は、この「感情移入」にある。観客が登場人物になってしまうことにある。長い作品だと、見ているうちにだんだん「感情」が感染してくるのである。
ところが、短い作品だと「感情移入」をしている余裕がない。えっ、何これ! と驚き、笑っているあいだに終わってしまう。それに「終わり」といっても、現実にもし映画に描かれていることが起きたら、とてもそこで「終わり」ではない。冒頭の飛行機乗っ取り自殺というのは飛行機が墜落したあとがたいへんだ。金持ちの息子の身代わりになって交通事故の加害者になる男も、最後は突然被害者の夫に殴り殺されてしまう(ケガをさせられるだけかも)。それでは「事件」は解決したことにならない。ほんとうは「事件」は「おわり」ではないのだ。「おわり」なのは「感情」なのである。使用人を息子の身代わりにしようとした父親のあれこれの「感情」がここで「終わる」のであって、「事件」は別の形でつづいていく。(描かれていないけれど。)「感情」は観客に「移入」されるのではなく、スクリーンのなかで終わってしまう。これは、だから、まったく新しい映画なのである。登場人物の「感情」を映画の中に閉じ込めて、観客はただそれを傍観し、笑って見る。ストーリーが「わかる」ように、「感情」も「わかる」。けれど、その「感情」は共有しない。
「あ、わかる、わかる、その気持ち」と日常で言うときに似ている。「わかる」けれど、いっしょになってそのことを考えたりしないね。どちらかというと、「ばかみたい」と思うのだけれど、そんなふうに言えないので「わかる、わかる」という。「感情」を訴えた方だって、それで十分。いっしょに泣いたりしてもらっては、めんどうくさい。いっしょに笑って(自分を客観化して)、それで「おしまい」にしたい。そういう感じだな。
「感情移入/感情の共有」ではなく、「感情の客観化」。笑って、たくましく生き残って行く。そういう「知恵」かなあ。
で。
最後の「ハッピー・ウエディング」。これがいちばん象徴的。だから最後に置いてあるのだと思うのだが、結婚式で夫になる男の浮気を知り、プッツンしてしまう女、打ちのめされる男を描いているのだが、ふたりとも「感情」を爆発させたあと、変なことが起きる。大喧嘩して、憎しみ合っているはずなのに、やっぱり好きという「感情」があふれてきて、和解してセックスまでしはじめる。披露宴の会場なので、両親を含め親友や同僚など、客がたくさんいる。けれど、そういう人が「いる」ことを無視して、ふたりだけの「感情」になる。「感情」のまま、「本能」がセックスをする。「感情」なんて、他人には関係がない。「感情」(ふたりの関係)を他人がどう思おうが(同情/共感しようが、反発しようが、ばかと思おうが)、その「感情」が他人のものになることはない。あくまで「自分のもの(ふたりのもの)」。だから「大喧嘩したけど、好きだ、愛している」と思えばそれでいいのだ。「あんな男のどこがいい」「あんな女と結婚して不幸になるだけだ」という忠告(?)なんか知ったことではないのだ。
「共感させない」という「共感」を描いている。そういう「感情」がある、だれでもそういう「感情」をもっているという「客観的事実」の「理解」を誘う映画なのである。
あ、駐車違反の取り締まりに頭に来て、爆破事件を起こした男は刑務所でみんなに誕生日を祝ってもらっている。あれは「共感」では? 違うね。単なる「理解」。祝っているひとは刑務所の中にいるひと。刑務所の外にいるひとは、いっしょには祝ってはいない。刑務所仲間だって、その男の気持ちは「わかる」というだけにすぎない。そのあと、いっしょになって爆破事件をおこすわけではないからね。
感情の「共感」には長い時間がかかるが、「理解」には短い時間で十分。そういうことを知り尽くした上で、映画が短くつくられている。「天才」誕生といえるかも。
(2015年07月26日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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監督 ダミアン・ジフロン 出演 知らない人ばかり……
とてもおもしろい。そして、なぜおもしろいかというと、短いからだ。6篇のストーリーがある。共通点は、あることにプッツンしてしまって、暴走する。そういう人間の衝動、ということ。でも、それは見せ掛けの「共通項」。ほんとうは「短い」ということの方が大事な共通項である。
たとえば、高速道を走っていて、前の車が遅い。それを追い抜き様にののしる。それが原因で車に追いかけられる。(実際は追いかけられるのではないが……。)これって、スピルバーグの「激突!」と同じ構図。違うのは短さ。長い作品だと、どうしても繰り返しが多くなる。そっくりそのままの繰り返しではなく、手を変え品を変えての繰り返し。そして、その繰り返しのなかで、感情が濃密になっていく。煮詰まって行く。その結果、たとえば「激突!」の場合、追いかけてくるタンクローリーがだんだん「人間」に見えてくる。タンクローリーに感情移入してしまう。最後にタンクローリーががけ下に転落していくときの警笛(?)の音など、人間の悲鳴のように聞こえてしまう。映画の醍醐味は、この「感情移入」にある。観客が登場人物になってしまうことにある。長い作品だと、見ているうちにだんだん「感情」が感染してくるのである。
ところが、短い作品だと「感情移入」をしている余裕がない。えっ、何これ! と驚き、笑っているあいだに終わってしまう。それに「終わり」といっても、現実にもし映画に描かれていることが起きたら、とてもそこで「終わり」ではない。冒頭の飛行機乗っ取り自殺というのは飛行機が墜落したあとがたいへんだ。金持ちの息子の身代わりになって交通事故の加害者になる男も、最後は突然被害者の夫に殴り殺されてしまう(ケガをさせられるだけかも)。それでは「事件」は解決したことにならない。ほんとうは「事件」は「おわり」ではないのだ。「おわり」なのは「感情」なのである。使用人を息子の身代わりにしようとした父親のあれこれの「感情」がここで「終わる」のであって、「事件」は別の形でつづいていく。(描かれていないけれど。)「感情」は観客に「移入」されるのではなく、スクリーンのなかで終わってしまう。これは、だから、まったく新しい映画なのである。登場人物の「感情」を映画の中に閉じ込めて、観客はただそれを傍観し、笑って見る。ストーリーが「わかる」ように、「感情」も「わかる」。けれど、その「感情」は共有しない。
「あ、わかる、わかる、その気持ち」と日常で言うときに似ている。「わかる」けれど、いっしょになってそのことを考えたりしないね。どちらかというと、「ばかみたい」と思うのだけれど、そんなふうに言えないので「わかる、わかる」という。「感情」を訴えた方だって、それで十分。いっしょに泣いたりしてもらっては、めんどうくさい。いっしょに笑って(自分を客観化して)、それで「おしまい」にしたい。そういう感じだな。
「感情移入/感情の共有」ではなく、「感情の客観化」。笑って、たくましく生き残って行く。そういう「知恵」かなあ。
で。
最後の「ハッピー・ウエディング」。これがいちばん象徴的。だから最後に置いてあるのだと思うのだが、結婚式で夫になる男の浮気を知り、プッツンしてしまう女、打ちのめされる男を描いているのだが、ふたりとも「感情」を爆発させたあと、変なことが起きる。大喧嘩して、憎しみ合っているはずなのに、やっぱり好きという「感情」があふれてきて、和解してセックスまでしはじめる。披露宴の会場なので、両親を含め親友や同僚など、客がたくさんいる。けれど、そういう人が「いる」ことを無視して、ふたりだけの「感情」になる。「感情」のまま、「本能」がセックスをする。「感情」なんて、他人には関係がない。「感情」(ふたりの関係)を他人がどう思おうが(同情/共感しようが、反発しようが、ばかと思おうが)、その「感情」が他人のものになることはない。あくまで「自分のもの(ふたりのもの)」。だから「大喧嘩したけど、好きだ、愛している」と思えばそれでいいのだ。「あんな男のどこがいい」「あんな女と結婚して不幸になるだけだ」という忠告(?)なんか知ったことではないのだ。
「共感させない」という「共感」を描いている。そういう「感情」がある、だれでもそういう「感情」をもっているという「客観的事実」の「理解」を誘う映画なのである。
あ、駐車違反の取り締まりに頭に来て、爆破事件を起こした男は刑務所でみんなに誕生日を祝ってもらっている。あれは「共感」では? 違うね。単なる「理解」。祝っているひとは刑務所の中にいるひと。刑務所の外にいるひとは、いっしょには祝ってはいない。刑務所仲間だって、その男の気持ちは「わかる」というだけにすぎない。そのあと、いっしょになって爆破事件をおこすわけではないからね。
感情の「共感」には長い時間がかかるが、「理解」には短い時間で十分。そういうことを知り尽くした上で、映画が短くつくられている。「天才」誕生といえるかも。
(2015年07月26日、KBCシネマ2)
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