詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アラン・テイラー監督「ターミネーター:新起動 ジェニシス」(★★★)

2015-07-29 19:26:53 | 映画
アラン・テイラー監督「ターミネーター:新起動 ジェニシス」(★★★)

監督 アラン・テイラー 出演 アーノルド・シュワルツェネッガー、エミリア・クラーク、ジェイ・コートニー

 いいなあ、いいかんげな映画というのは。気楽に笑える。
 この映画って、タイムトラベルというか「時間」を行き来するのがいちばんのポイント。それなのに「時間」の説明ができなくなると「別の時間軸」だって。おいおい、これじゃあ何だってあり。矛盾というか齟齬がおきるたびに、それは別の時間軸のできごとと言えばすんでしまう。だいたい別の時間軸があるなら、未来から過去へやってくるなんて面倒なことをせずに、別の時間軸へ行ってしまえばいい。きっと人間が機械に支配されない時間軸があるはず、なんて私は思ってしまう。
 でも、このむちゃくちゃかげん、「論理」なんてあとからどうとでも言い直せばいいというのが、何かとっても「現実的」(つまり科学的ではないってこと)で好きだなあ。
 いちばん笑ったのがMRI(磁石)を利用してターミーネータと戦うところ。わっ、ローテク、と笑いが止まらなかった。MRI自体は「ハイテク」かもしれないけれどさあ。液体金属(?)というか流動する合金から自在に変形できるロボットの素材が鉄? 磁石に弱いという設定が、まず、とってもおかしい。磁石なんて、大昔からある。それに対する「防禦」が不完全なんてねえ……。
 で、このローテクの勝利(ローテクの武器の活用)というのが、映画全体のトーンをつくっているのもおかしい。シュワちゃんの若いときをはじめ、CGもつかわれているのだけれど、なんとなく古い感じ。アクションがなつかしい。橋の上でバスが前転する見せ場も、これってCGがなかった時代もやっていたかも、と思わせるのんびりさ。全体をゆったりとみせる。角度を変えて次々にシーンを分割するのではなく、「時間」がそのまま動いている。
 へええっ。
 で、そのバスの中からの脱出。ここにも「時間」がそのまま存在している。あ、ターミネータが追いかけてくる。逃げろ、逃げろ。早く上へ上へ。シュワちゃん、がんばって母親をひきあげろ、なんて、はらはらどきどきするでしょ? ここでは「時間」が「現実」よりもさらにスローモーションで動いている。そのありえないスローな「時間」のなかで観客のどきどきはらはらが満ちてくる。
 大きなストーリーのなかの「時間軸」とは関係ないところでリアリティーが動く。まあ、それも「幻想」ではあるのだけれど、この関係がおかしい。
 人間(観客)は、だいたい役者の肉体が動いているのに自分の肉体を重ねて見るから、ストーリー上の「時間軸」なんて、どうでもいい。その瞬間瞬間の肉体の動きが自分に跳ね返ってくるときだけ興奮するものなのだ。(だから、といっていいかどうかわからないが、第一話でシュワちゃんがタンクローリーの爆発の中から骨組みになって甦り、さらに工場のなかで、ちぎれた腕だけになって追いかけてくるとき、やっぱりおかしいねえ。私は大笑いしてしまった。執念の肉体化、をそこに見て、そこまでやるのか。すごいなあ、と。)
 で、ね。シュワちゃんは「合体」なんて言っているのだが(英語では、メイクという動詞をつかっていたかな?)、裸のシーンもあれば、恋愛(?)をめぐる会話もちらばめて、SFなのに、起きていることの「現実感」を大切にしている。こういうところはアクションとはかけ離れているので、退屈だけれど、あ、人間の肉体を描こうとしているんだと監督の意図を読み取ると、なかなか楽しい。
                       (天神東宝5、2015年07月29日)
 



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佐々木洋一「生きもの」

2015-07-29 08:56:20 | 詩(雑誌・同人誌)

佐々木洋一「生きもの」(「ササヤンカの村」23、2015年08月発行)

 佐々木洋一「生きもの」は一行のあと一行の空きがある。一行ずつ独立した「連」なのか。「連」ではないかもしれないが、空きなしだとちょっと窮屈かもしれない。微妙なスタイルである。

水田の中を小さな生きものが通りかかると

波紋がゆれます

それで何か生きものがいるのだとわかるのです

 書き出しの三行(あるいは三連)。三行目の「それで」が、とてもおもしろい。「それで」ということばは、前に書かれていること(ことば)を指している。「一行空き」が「そ」を独立したものとして「くっきり」と浮かび上がらせる。ふつうの詩のように(?)行がつながっていると「詩」ではなく「散文」の連続性(論理の「整合性」)が目立ち、窮屈になる。「一行空き」が不思議な「間」になり、ことばがゆっくり往復する。
 そのとき「小さな」なものが、「間(あるいは余白)」によって、大きく見えるのである。集中力が高まる感じ。そして、この詩は「小さな」がキイワードだな、とわかる。「小さな」は一行目に書かれているだけだが、二行目にも三行目にも隠れて存在している。つまり二行目三行目の血肉になって、それらの行を支えている。強くしている。

水田の中を小さな生きものが通りかかると

「小さな」波紋がゆれます

それで何か「小さな」生きものがいるのだとわかるのです 

 さらに、

水田の中を小さな生きものが通りかかると

「小さな」波紋が「小さく」ゆれます

それで何か「小さな」生きものがいるのだと「小さく」わかるのです 

 と言い換えることができるだろうと思う。
 この三行目の

「小さく」わかるのです

 というのは「学校文法」からは外れたつかい方なので、奇妙に見えるかもしれない。けれど、その「奇妙」に見える部分、奇妙に隠れている部分こそ、この詩のポイントだと私は感じている。
 あ、と思う。それは勘違いかもしれない。錯覚かもしれない。小さくて見えないのだから。でも、その見えないものを、こころが感じる。こころが反応する。それが「ちいさくわかる」。
 「大きく」わかるのではない。「大発見」ではない。そのことが「わかる」(そのことを「発見した」)からといって「世界」が変わるわけではない。変わらずに、いままでどおりに存在する。田んぼは田んぼのまま。小さな生きものは小さな生きもののまま。そして波紋は知らない間に消えていく。でも、その世界を「わかる」ことによって、気持ちが変わる。「気持ちの見ている世界」が変わる。いっしょに、何かが生きている、と感じてうれしくなる。
 このことばにつづくことばも、みんな「小さな」発見、「小さな」気づきである。その「小ささ」に佐々木は寄り添う。

いのちとはそんなものでしょうか

ふと通りすがりに坐った石 見つめた花 そっぽを向いた草

そのようなものがわたしの近くにいて

そっといのちを絡めると

こころの波紋がゆれます

 「小さな」という形容動詞を副詞にすると「そっと」ということになるかもしれない。「そっと」を補ってみると、佐々木の「気持ち」がもっとわかる。

いのちとはそんなものでしょうか(「そっと」、そう思う=「小さくわかる」)

ふと通りすがりに「そっと」坐った石 「そっと」見つめた花 「そっと」そっぽを向いた草

そのようなものがわたしの近くに「そっと」いて

そっといのちを絡めると

こころの波紋が「そっと」ゆれます

 「小さな」と「そっと」がいっしょになって、世界を浮かび上がらせている。そしてとれは、やっぱり「大発見」なのではなく、「小さな」気づきなのである。この「小さな」と「そっと」は、それがいっしょになるとき、きっと「大切な」ということばを隠していっしょになる。

ふと通りすがりに坐った「大切な」石 見つめた「大切な」花 そっぽを向いた「大切な」草

そのような「大切な」ものがわたしの近くにいて

そっと「大切な」いのちを絡めると

こころの波紋がゆれます

 こうした思い、「いのちとはそんなものでしょうか」は、こころに「そっと」浮かんだ「小さな」思いだが、「大切な」思いでもある。そして、その「大切」は「こころ」でもある。
 ひとはだれでも「キーワード」を繰り返し書くことはない。めったに書かないのがキーワードである。そのひとにとってはわかりきっていることなので書く必要がないのがキーワードである。
 そういうことばを作品の中から見つけ出して、それを気がついたところに補ってみる。そうすると、その詩の「言いたいこと」(ことばになっていないこと)が見えてくる。

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*

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加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」

2015-07-29 00:16:45 | その他(音楽、小説etc)
加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」(毎日新聞、2015年07月28日夕刊)

 加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」の三段落目の文に、私は思わず涙がこぼれそうになった。

 鶴見さんには、三十㌢のものさしをもらった、と私は思っている。三十㌢のものさしがあれば、人は自分と世界のあいだの距離を測ることもできるし、地球と月のあいだの距離だって計測できる。行こうと思えば、月にも行けるのだ。

 私は鶴見俊輔の文章をそんなに多く読んでいるわけではない。ほとんど読んでいないといっていい。加藤典洋についていえば、私は、今回読むのが初めてだ。
 なぜこの文章に涙が出そうになったかというと、私が鶴見俊輔の文章から学んだことが、そのまま書かれていたからだ。
 加藤がどういう「意味」で「三十㌢のものさし」という「比喩」を書いたのかわからないが、私の考える「三十㌢のものさし」の「意味」は、「自分から離れないこと」である。「自分の手に触れているもの」を頼りにすることである。
 何かの「距離」を測るとき「三十㌢のものさし」では不便なことがある。自分の家と会社までの距離にしても「三十㌢のものさし」で測るとなるとたいへんである。何度も何度も印をつけないといけない。二キロを測れる紐状のものさしがあれば一回で測れるかもしれないが、「三十㌢のものさし」で印をつけながら数えていく(足し算をする)のでは、きっと間違える。まっすぐに測れずに「誤差」も大きくなる。正確に測れたかどうか知るためには、何度も何度も測って比較しないといけない。
 「誤差」が大きくならないようにするにはどうすればいいのか。たとえば長い紐を見つけてくる。紐の長さを「三十㌢のものさし」×10の長さ、つまり三㍍にする。それを利用すると「三十㌢のものさし」をつかったときよりは、早くて正確になる。さらに三十㍍の紐、三百㍍の紐という具合に工夫することもできる。「三十㌢のものさし」で三百㍍の紐を正確に測るのはなかなかむずかしいができないことではない。根気よくやれば、必ずできる。
 しかし、逆は、そういうことはできない。たとえば「二キロのものさし」があったと仮定して、それで机の大きさを測ることはできない。いや二キロのひもを見つけ出してきて、それを半分に、さらに半分に、また半分にと折ってゆき、小さな単位にして、それを利用すればいいといえるかもしれない。でも、最初に「二キロのものさし」をそのまま置くことができる「場所」の確保がむずかしい。
 大きい単位の物差しは大きいものを測るには都合がいいが、それで小さいものを測ることはできない。小さい単位のものさしは大きいものを測るには不便だが、測れないことはない。
 自分がいつもつかっているものをつかって、ものごとにどう向き合っていくか。それを工夫するのはおもしろい。面倒くさいけれど、楽しい。自分のつかっていない道具をつかってものごとと向き合うのは、まあ、楽なときもあるかもしれないが、楽は楽しいとは限らない。楽をすると、自分を見失ってしまうだけである。

 ものとものとの距離ではなく、ひととひととの間(ま)を測る、あるいは関係を築くときは、なおさらそういうことが大切になる。大きい観念(概念)ではなく、いつもつかっていることばで会話しながら近づいていく。触れあう。
 自分のものではないことば(世界のとらえ方、ものさし)はつかわない。

 私は詩の感想や映画の感想を書いている。小説の感想もときどき書いている。文章を書くとき、自分のことばではないことば(流通している「外国の思想のことば」)を借りてきて書くと、書きたいことが楽に書けることがある。私が考えようとして考えられないことを、その流行のことばが代弁してくれる。自分で考えた以上のことを語ってくれる。見た目もなんとなくかっこいい文章になる。
 でも、身の回りにある(三十㌢の範囲にある)ことば、体験したことば、肉体で掴み取ることのできることばで書こうとすると、だらだらと、まだるっこしいものになる。間違いもする。書きたいと思っていたことが、どんどん遠くなり、違ったことを書いてしまったりする。
 でも、それが楽しい。書きながら、あ、私はまたここでつまずくのかと思いながら、こりもせずに倒れてしまう。倒れると痛い。痛いけれど、なんとなく安心する。また大地が受け止めてくれた、という感じかな。そこから立ち上がって、引き返し、またこつこつと「三十㌢のものさし」でことばを積み重ねていく。
 たどりつけなくてもいい。歩きつづけることができればいい。知らないあいだに曲がってしまい、もとに戻ってきたっていい。




言い残しておくこと
鶴見俊輔
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