詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(4)

2015-07-03 10:24:31 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(4)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「夏、秋、冬、そして春」は難しい。

(我思うところに、我なし)

 と、いきなり抽象的にはじまる。「我思う、ゆえに我あり」ということばを思い出すが、それとは反対のことを言っているように感じられる。しかし「ゆえに」ではなく「ところに」と言っているのはなぜだろう。書き出しの一行だけではわからない。

(我思うところに、我なし)
春くる前の冷たい朝、
(我思わぬところに、我あり)
不意に、そう確信したのだった、
澄みわたった冬のセレストの空の下で。

 「セレスト」については長田は詩の注釈に「至高の天空の色」と書いている。冬の朝、不意に「我思わぬところに、我あり」と「確信」したことはわかるが、それはどういうことなのか、これだけではわからない。
 なぜ「思う」ではなく「思わぬ」なのか、なぜ「ゆえに」ではなく「ところに」なのか。長田は何を言おうとしているのか。
 「確信」ということばを引き継ぎながら、次のように書いている。

確信はありふれたものを真実にする。
冬の朝の光の粒々は、真実である。
柔らかに天を指すハナミズキの、
枝々の先の、冬芽は真実である。
移りゆく季節は、真実である。

 「真実」ということばが繰り返されている。そして、「真実である」と書かれている。この「ある」は「我あり」の「ある」と重なるか。「我あり」は「我がある」と読むのがふつうだろうけれど、「我である」とも読めそうだ。
 そのとき、しかし、どこに「我がある」のか。どのように「我である」のか。
 「冬の朝の光の粒々」は「我」ではない。その「我ではない」ところ(存在のなかに)、「我」が「ある」。そういう「あり方」が「真実」である、と言っているように思える。
 「ハナミズキの、枝々の先の、冬芽」も「我」ではない。「我ではない」ところ(冬芽)に「我がある」。あるいは「我ではない」冬芽が「我である」。「冬芽」をみつめ、冬芽であると認識するとき、そこに「真実」がある。「冬芽」と「我」が「一体(ひとつ)」になって存在している。「我」は「我」ではなく、「冬芽」は「冬芽」ではない。「我」は「冬芽」であり、「冬芽」は「我」である。そういう「関係」を「真実」と言っているように思える。
 「我」が「ある」と思わぬところ、「我」とは意識して来なかったところに「我」が「ある」。「光の粒々」や「冬芽」のなかに、そういう「場(ところ)」に「我」が「ある」。その「場(ところ)」としての「存在」が「我である」。そういう「あり方」が人間の存在の仕方の「真実」である、と言っているように感じる。

(我を担いで生きるなかれ)

 という一行が途中に出てくる。「我思う、ゆえに我あり」というように、「我」を意識しつづけて「生きるなかれ」と言っているのだと思う。「我」を「思わず」、「無我」になって生きる。そうすると「我」は、みつめた対象(存在)のなか(ところ/場)にある。
 「移りゆく季節」の「移りゆく」という「動詞」を「我」が引き受け、「光の粒々」や「冬芽」のなかに「無我としての我」を「移す」。あるいは「我が移りゆく」。そのとき「光の粒々」「冬芽」一体になって「我がある」。「我を思わぬ我=無我」としての「我がある」。そういう「無我」が「我である」。
 そんなことを、ぼんやりと考える。ぼんやりと感じる。
 でも、これでは抽象的すぎる。「我を思わぬ」を「無我」と考えるのも、強引すぎるかもしれない。「無我」ということばをつかっていないのだから。
 しかし読み進んでいくと、突然「無」という文字に出会う。

わたし(たち)のすぐそばに
一緒に生きているものたちの
殊更ならざる真実の、慕わしさ。
それら、物言わぬものたちが
日々の徴(しる)している親和力によって、
人は生かされてきたし、救われてもきた。
そのことを無事、大事と考える。

 「無事」のなかの「無」。
 この「無事」の「意味」は難しい。「無事」ということばを私は知っているが、その知っている「無事」の意味をそのままあてはめて、この「無事」を理解できるかどうか、わからない。
 「無事」と「大事」が同じ重さで書かれていることから「無事が何より」という言い方を思い出す。何もないこと、「無事であることが何よりも大切、大事なこと」。これは、一般的には、何が大きなこと、目立ったことなどなし遂げなくても、何もなくても生きていることが一番大事だよ、という意味でもある。有名、「名のある我」にならなくても、「無名の我」であっても生きていることが大事、という意味である。
 この「大事」を「真実」と言い直してみるとどうなるだろう。
 「生きている」ということが「大事」、「生きている」ことが「真実」。その「生きている我」が「無我=名ものない我」であっても、「生きている」ことが「真実」。「無我」の「我」は、「我」にはこだわらず、「光の粒々」や「冬芽」を「我」の「場」として、そういうものと一緒に生きている。そういう「私のあり方」を「真実」として生きればいいのだ、と言っているように思える。
 このことを言い直して、

季節のなかに、黙って身をさらし、
ただに、日々の気候を読む。

 と言う。
 「ただに」は「ただひたすらに」だろう。「身」を「気候」そのものにする。「無我」になり、「気候」そのものになる。
 この「無」は詩の最後にも出てくる。

両掌で熱いティーカップを包んで飲む。
無に息を吹き込むようにして。

 きっと、この詩は「無」と関係がある。長田は「無」のことを考えている。そう感じる。
 わかったとは、言えない。
 私は、長田がこういうことを言おうとしているのだろうと感じるだけだ。いつかは、長田のこの詩をわかったと言えるときがくるかもしれない。それまでは、「ただに」、読むだけである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金堀則夫『金堀則夫詩集』

2015-07-03 09:47:21 | 詩集
金堀則夫『金堀則夫詩集』(新・日本現代詩文庫121 )(土曜美術出版、2015年03月30日発行)

 私は金堀則夫の初期の作品を読んでいない。そのせいかもしれないが『石の声』の作品をおもしろく感じた。
 「石の声」は、

そらとかわ。
なわをなって
かわなみをつくる。

 という不思議な三行で始まる。「かわ」と「なわをなう」が交錯して「かわなみ」になる。「川波」だろうか。「川並」だろうか。「川並」ということばはないかもしれないが、「山並」みたいに川がうねっている感じが「なわ」(なわをなう)と重なる。なわをなうと、なわが一筋の川のようにのびていく。

なみの
うねりは
しめつける。

 と二連目につながるのだから「川波」なんだろうけれど、「川並」が意識のなかでのこりつづける。

ぬけだすことも
とびだすことも
できない。
しぼりおちた声。
いちめんに
そこへと
ひろがっていく。

すぎさる日日。
しぼりおちた声。
かたまる石。
石なみは
みずのながれに
号泣している。

 「しぼりおちた声」という行が繰り返されている。川に来て、声を殺して泣く。その涙が川となって流れていく。いや、流れずに、川の底にひろがり、石になってかたまる。石になって、そこにとどまっているのか。誰が泣いたのか書いていないが、「ひとり」というよりも、そこに住むひとの多くだろう。
 「石なみ」はやはり「石波」、石にぶつかってできる波のことを書いているのかもしれないが、「石並」と読むと、びっしりと並んだ石が見えてくる。そのひとつひとつが、そこに暮らすひとのひとりひとり。誰もが涙を落として、その涙が石になって、そこにある。川が流れると、その水が誘い水(誘い涙?)になり、号泣が聞こえる。
 そんなことは書いていないのかもしれないが、そんなことを想像する。簡潔なことばが、何か「神話」を感じさせる。ドラマを感じさせる。
 「水の宴」にも、少し似たことばの動きがある。

岩まから
みずは走っている。
かわきのはやさを消そうと
はげしく みずは走っている。
かわく不安。
それが あわただしく
みずをながし かわをつくる。

 「かわく」から「かわ」への不思議な移行がある。「乾く」と「川(水がある)」はいわば反対のものだが、矛盾するからこそ、その結びつきが強烈に響いてくる。水不足の土地の川かもしれない。水に苦労する土地の「神話」かもしれない。
 「石の水」はさらに「神話」的だ。

雨あしが岩にあたって
白くとびはねている。
とびつくところもない空にむかって
とびはねている。

 この雨(水)がやがて岩を彫り上げ、石仏が生まれる。

石仏の
顔かたち。
みずと岩がとけあい
うきあがる。

目から
口から
手から
みずがしたたり
わきあがる。
吸い込んだ雨。
おまえのうたを
おまえのことばを
まろやかに流れおちて
川へと流れていく。

 水の少ない土地の、石の多い土地の、神話(川への、水への願い)が、そこに感じられる。そういう「意味」とは別に、あ、これはいいことばだなあと感じたのが、二連目の

おちるすべてが
すなおに降りそそぎ
いわにあたって
はねあがる。

 その「すなおに」ということば。
 金堀が、対象を「すなおに」見つめている感じが、そこにあらわれている。「すなお」が発見した「神話」がここには書かれていると感じた。


金堀則夫詩集 (新・日本現代詩文庫121)
金堀則夫
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする