長田弘『最後の詩集』(4)(みすず書房、2015年07月01日発行)
「夏、秋、冬、そして春」は難しい。
と、いきなり抽象的にはじまる。「我思う、ゆえに我あり」ということばを思い出すが、それとは反対のことを言っているように感じられる。しかし「ゆえに」ではなく「ところに」と言っているのはなぜだろう。書き出しの一行だけではわからない。
「セレスト」については長田は詩の注釈に「至高の天空の色」と書いている。冬の朝、不意に「我思わぬところに、我あり」と「確信」したことはわかるが、それはどういうことなのか、これだけではわからない。
なぜ「思う」ではなく「思わぬ」なのか、なぜ「ゆえに」ではなく「ところに」なのか。長田は何を言おうとしているのか。
「確信」ということばを引き継ぎながら、次のように書いている。
「真実」ということばが繰り返されている。そして、「真実である」と書かれている。この「ある」は「我あり」の「ある」と重なるか。「我あり」は「我がある」と読むのがふつうだろうけれど、「我である」とも読めそうだ。
そのとき、しかし、どこに「我がある」のか。どのように「我である」のか。
「冬の朝の光の粒々」は「我」ではない。その「我ではない」ところ(存在のなかに)、「我」が「ある」。そういう「あり方」が「真実」である、と言っているように思える。
「ハナミズキの、枝々の先の、冬芽」も「我」ではない。「我ではない」ところ(冬芽)に「我がある」。あるいは「我ではない」冬芽が「我である」。「冬芽」をみつめ、冬芽であると認識するとき、そこに「真実」がある。「冬芽」と「我」が「一体(ひとつ)」になって存在している。「我」は「我」ではなく、「冬芽」は「冬芽」ではない。「我」は「冬芽」であり、「冬芽」は「我」である。そういう「関係」を「真実」と言っているように思える。
「我」が「ある」と思わぬところ、「我」とは意識して来なかったところに「我」が「ある」。「光の粒々」や「冬芽」のなかに、そういう「場(ところ)」に「我」が「ある」。その「場(ところ)」としての「存在」が「我である」。そういう「あり方」が人間の存在の仕方の「真実」である、と言っているように感じる。
という一行が途中に出てくる。「我思う、ゆえに我あり」というように、「我」を意識しつづけて「生きるなかれ」と言っているのだと思う。「我」を「思わず」、「無我」になって生きる。そうすると「我」は、みつめた対象(存在)のなか(ところ/場)にある。
「移りゆく季節」の「移りゆく」という「動詞」を「我」が引き受け、「光の粒々」や「冬芽」のなかに「無我としての我」を「移す」。あるいは「我が移りゆく」。そのとき「光の粒々」「冬芽」一体になって「我がある」。「我を思わぬ我=無我」としての「我がある」。そういう「無我」が「我である」。
そんなことを、ぼんやりと考える。ぼんやりと感じる。
でも、これでは抽象的すぎる。「我を思わぬ」を「無我」と考えるのも、強引すぎるかもしれない。「無我」ということばをつかっていないのだから。
しかし読み進んでいくと、突然「無」という文字に出会う。
「無事」のなかの「無」。
この「無事」の「意味」は難しい。「無事」ということばを私は知っているが、その知っている「無事」の意味をそのままあてはめて、この「無事」を理解できるかどうか、わからない。
「無事」と「大事」が同じ重さで書かれていることから「無事が何より」という言い方を思い出す。何もないこと、「無事であることが何よりも大切、大事なこと」。これは、一般的には、何が大きなこと、目立ったことなどなし遂げなくても、何もなくても生きていることが一番大事だよ、という意味でもある。有名、「名のある我」にならなくても、「無名の我」であっても生きていることが大事、という意味である。
この「大事」を「真実」と言い直してみるとどうなるだろう。
「生きている」ということが「大事」、「生きている」ことが「真実」。その「生きている我」が「無我=名ものない我」であっても、「生きている」ことが「真実」。「無我」の「我」は、「我」にはこだわらず、「光の粒々」や「冬芽」を「我」の「場」として、そういうものと一緒に生きている。そういう「私のあり方」を「真実」として生きればいいのだ、と言っているように思える。
このことを言い直して、
と言う。
「ただに」は「ただひたすらに」だろう。「身」を「気候」そのものにする。「無我」になり、「気候」そのものになる。
この「無」は詩の最後にも出てくる。
きっと、この詩は「無」と関係がある。長田は「無」のことを考えている。そう感じる。
わかったとは、言えない。
私は、長田がこういうことを言おうとしているのだろうと感じるだけだ。いつかは、長田のこの詩をわかったと言えるときがくるかもしれない。それまでは、「ただに」、読むだけである。
「夏、秋、冬、そして春」は難しい。
(我思うところに、我なし)
と、いきなり抽象的にはじまる。「我思う、ゆえに我あり」ということばを思い出すが、それとは反対のことを言っているように感じられる。しかし「ゆえに」ではなく「ところに」と言っているのはなぜだろう。書き出しの一行だけではわからない。
(我思うところに、我なし)
春くる前の冷たい朝、
(我思わぬところに、我あり)
不意に、そう確信したのだった、
澄みわたった冬のセレストの空の下で。
「セレスト」については長田は詩の注釈に「至高の天空の色」と書いている。冬の朝、不意に「我思わぬところに、我あり」と「確信」したことはわかるが、それはどういうことなのか、これだけではわからない。
なぜ「思う」ではなく「思わぬ」なのか、なぜ「ゆえに」ではなく「ところに」なのか。長田は何を言おうとしているのか。
「確信」ということばを引き継ぎながら、次のように書いている。
確信はありふれたものを真実にする。
冬の朝の光の粒々は、真実である。
柔らかに天を指すハナミズキの、
枝々の先の、冬芽は真実である。
移りゆく季節は、真実である。
「真実」ということばが繰り返されている。そして、「真実である」と書かれている。この「ある」は「我あり」の「ある」と重なるか。「我あり」は「我がある」と読むのがふつうだろうけれど、「我である」とも読めそうだ。
そのとき、しかし、どこに「我がある」のか。どのように「我である」のか。
「冬の朝の光の粒々」は「我」ではない。その「我ではない」ところ(存在のなかに)、「我」が「ある」。そういう「あり方」が「真実」である、と言っているように思える。
「ハナミズキの、枝々の先の、冬芽」も「我」ではない。「我ではない」ところ(冬芽)に「我がある」。あるいは「我ではない」冬芽が「我である」。「冬芽」をみつめ、冬芽であると認識するとき、そこに「真実」がある。「冬芽」と「我」が「一体(ひとつ)」になって存在している。「我」は「我」ではなく、「冬芽」は「冬芽」ではない。「我」は「冬芽」であり、「冬芽」は「我」である。そういう「関係」を「真実」と言っているように思える。
「我」が「ある」と思わぬところ、「我」とは意識して来なかったところに「我」が「ある」。「光の粒々」や「冬芽」のなかに、そういう「場(ところ)」に「我」が「ある」。その「場(ところ)」としての「存在」が「我である」。そういう「あり方」が人間の存在の仕方の「真実」である、と言っているように感じる。
(我を担いで生きるなかれ)
という一行が途中に出てくる。「我思う、ゆえに我あり」というように、「我」を意識しつづけて「生きるなかれ」と言っているのだと思う。「我」を「思わず」、「無我」になって生きる。そうすると「我」は、みつめた対象(存在)のなか(ところ/場)にある。
「移りゆく季節」の「移りゆく」という「動詞」を「我」が引き受け、「光の粒々」や「冬芽」のなかに「無我としての我」を「移す」。あるいは「我が移りゆく」。そのとき「光の粒々」「冬芽」一体になって「我がある」。「我を思わぬ我=無我」としての「我がある」。そういう「無我」が「我である」。
そんなことを、ぼんやりと考える。ぼんやりと感じる。
でも、これでは抽象的すぎる。「我を思わぬ」を「無我」と考えるのも、強引すぎるかもしれない。「無我」ということばをつかっていないのだから。
しかし読み進んでいくと、突然「無」という文字に出会う。
わたし(たち)のすぐそばに
一緒に生きているものたちの
殊更ならざる真実の、慕わしさ。
それら、物言わぬものたちが
日々の徴(しる)している親和力によって、
人は生かされてきたし、救われてもきた。
そのことを無事、大事と考える。
「無事」のなかの「無」。
この「無事」の「意味」は難しい。「無事」ということばを私は知っているが、その知っている「無事」の意味をそのままあてはめて、この「無事」を理解できるかどうか、わからない。
「無事」と「大事」が同じ重さで書かれていることから「無事が何より」という言い方を思い出す。何もないこと、「無事であることが何よりも大切、大事なこと」。これは、一般的には、何が大きなこと、目立ったことなどなし遂げなくても、何もなくても生きていることが一番大事だよ、という意味でもある。有名、「名のある我」にならなくても、「無名の我」であっても生きていることが大事、という意味である。
この「大事」を「真実」と言い直してみるとどうなるだろう。
「生きている」ということが「大事」、「生きている」ことが「真実」。その「生きている我」が「無我=名ものない我」であっても、「生きている」ことが「真実」。「無我」の「我」は、「我」にはこだわらず、「光の粒々」や「冬芽」を「我」の「場」として、そういうものと一緒に生きている。そういう「私のあり方」を「真実」として生きればいいのだ、と言っているように思える。
このことを言い直して、
季節のなかに、黙って身をさらし、
ただに、日々の気候を読む。
と言う。
「ただに」は「ただひたすらに」だろう。「身」を「気候」そのものにする。「無我」になり、「気候」そのものになる。
この「無」は詩の最後にも出てくる。
両掌で熱いティーカップを包んで飲む。
無に息を吹き込むようにして。
きっと、この詩は「無」と関係がある。長田は「無」のことを考えている。そう感じる。
わかったとは、言えない。
私は、長田がこういうことを言おうとしているのだろうと感じるだけだ。いつかは、長田のこの詩をわかったと言えるときがくるかもしれない。それまでは、「ただに」、読むだけである。