詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩堀純子『水の旋律』

2015-07-24 08:18:56 | 詩集
岩堀純子『水の旋律』(編集工房ノア、2015年07月07日)

 岩堀純子『水の旋律』のなかに「言葉が」という作品がある。

わたしは形がない
言葉が
昨日が
わたしを
つくってゆく

 と、はじまる。「わたしは形がない」とは存在しないということではない。存在しているが「形」をもっていない。「形」は「言葉」と「昨日」がつくりあげる。「言葉」と「過去(時間)」が「わたし」をつくる。
 これは「わたし」は「言葉」によって「わたしになる」と、どう違うのか。ちょっとむずかしい。「わたしは/ことばによって/わたしになる」というとき、「主語」は「わたし」。「わたし」がことばを動かしている。
 岩堀の書いていることは、それとは違って「言葉」と「過去」が「主語」なのだ。「わたし」は「不定形」(形がない)から動けない。動くのは「言葉」なのである。

わたしは形がない
言葉が
滴が
わたしを
つくってゆく
波のように
汚れた砂を清ます

 「滴」ということばが「わたし」を「波」という形にする。そしてことばによって「波」になった「わたし」は、汚れた砂を洗って清らかにする。もし「滴」ということばがなかったら、「わたし」は「波」にもなれない。
 このとき、ここに、もうひとつの動きがある。「滴」が「波」になる。滴があつまり水になり、水があつまり波になるという動きがある。「滴」は小さい。その小さい「滴」が次々に「滴」を呼び寄せる。そして水に、波になる。水が波に成長する。「なる」というとき、そこには「同質」のものがあつまりながら、「同質のもの」のなからか、ひとつの「力」を高めていく。この二連目の場合、「水」は何かを「清らかにする」という「力」になってゆく。(「清ます」は「すます」と読ませるのだろうか。)この変化があらわれる「場」、変化があらわれる「契機」として「わたし」という存在の「形」がある。

わたしは形がない
言葉が
木々の緑が
わたしをつくってゆく
祈りのように
やすらぎの翼をくれる

 この三連目では、どうだろう。
 「木々の緑」。そのなかに何があるか。どんな「力」があるか。「安らぎ」がある。木々の緑がつくりだす影。「安らがせる」力である。これを岩堀は「いのり」と結びつけている。「いのり」によって「安らぎ」が訪れる。そして「安らいだ(こころ)」は不安を忘れてのびのびとどこかへ飛んで行くことができる。「こころ」に「翼」が生えたのだ。
 ここには木々の緑のなかで安らぎ、再び空へ飛んでいく鳥(翼)のイメージが重なっている。鳥は不安で飛び立つのではない。木々で安らいだ後、今度は空で安らぐ。
 これは、木々の緑を思い、それをことばにするとき、「わたし」のなかで、そういう変化が起きるということを語っているのかもしれない。「わたし」を「いまのわたし」ではなく、「違ったわたし(いままでのわたしではない、新しいわたし)」にしてくれる。それが「言葉」なのだ。「言葉」よって、「わたし」は「木々の緑」になる。そのあと「木々の緑」は「いのり」「安らぎ」「翼」へと変化して行く。その「変化」のなかに「わたし」の「形」ができあがる。
 「わたし」には「形がない」。しかし、いったん「形」になると、それは次々に変化して行く。その「変化」こそが「わたし」の「力」というものだろう。変化をつらぬく「力」、変化を変化として存在させる力が「わたし」。受け身の「わたし」がいつのまにか「主語」として、自然に姿をあらわしている。

わたしは形がない
言葉が
傾く陽射しが
わたしを
つくってゆく
帰る巣のない鳥のように
さびしい火をさがす

 何かになる「力」。それは「さびしい」という「感情」になることもある。「さびしい(感情)」も「言葉」がなければ「さびしい」という「感情」にはなれない。「感情」はことばによってつくられる。
 ここでは「傾く陽射し」ということばが「さびしい」になるまでの変化が書かれている。陽射しが傾く。夕方になる。そうすると、鳥は巣へ帰って行く。それがふつうだが、帰る巣を持たない鳥もいる。「さびしい」とは「帰る巣をもたない鳥」の「気持ち」である。「傾く陽射し」から、そういうとこを考える「わたし」を「言葉」はつくってゆく。「傾く陽射し」ということばから、「わたし」は「さびしい」という「感情」にたどりつくまで、そういうふうに「言葉」を辿った、ということでもある。
 この私のスケッチは、かなり粗雑なもので、岩堀は単に「さびしい」と書いているのではなく「さびしい火をさがす」と書いている。ほんとうは「火」と「さがす」ということろまできちんとことばを追って、その変化を書かないと「読んだ」ということにはならないのだが、これを全部書くのはなかなかむずかしい。
 「火」は「傾いた陽射し」の「太陽」の「火」と結びついている。「さがす」というのは「(帰る)巣」を「さがす」鳥と結びついている。「さがしてもない」ということと結びついている。--こう追いかけるだけでは、まだまだ不十分だ。
 なぜ「傾いた陽射し」と「太陽」と「火」が結びつくか。一連目に書かれていた「昨日」が関連している。どんな「昨日(過去)」を生きてきたか。そこで、ことばを何と結びつけてきたかをさぐらなければいけない。
 でも、そういうことをしてしまうと、今度は「詩」から離れて、岩堀のことを考えることになってしまう。それは、とても面倒。だから、私は、ここでやめておく。岩堀は、ことばが抱え込んでいる「昨日(過去)」しっかりみつめている。「昨日(過去)」の「言葉」で「わたし」をつくろうとしている。「おぼえている言葉/知っている言葉」で「わたし」をつくろうとしている。いや、「わたし」を「つくらせよう」としている。「おぼえている言葉/知っている言葉」が「わたし」をつくっていくのを妨げないように、ことばのまわりをととのえるといえばいいのかもしれない。「おぼえている言葉/知っている言葉」に無理をさせない。「新しいことば」は知らなくてもいい、という感じの、何か落ち着き(余裕)がある。そこが岩堀の魅力になっていると思う。
詩集 水の旋律
岩堀 純子
編集工房ノア

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