南風桃子『うずら』(空とぶキリン社、2015年03月15日発行)
南風桃子『うずら』について語るのは、私にはむずかしい。たとえば「哀愁うずらおやじ」という作品。
帯に「生きていく中での喜びや悲しみを/ユーモアのレースにくるんで歌った/おかしくてほろ苦いうずらの世界」と書いてあるんだけれど。
うーん、
私はこんなふうにさらりと感想が書けない。また、「生きていく中での喜びや悲しみを/ユーモアのレースにくるんで歌った/おかしくて」というのは、言いえているようだが、それってほかの誰かの詩にも言わない?と疑問にも思う。抽象的すぎて、読まなくても書ける批評のひとつじゃないだろうか。
南風の詩についてのことではないのだが、たとえば「繊細なことばのなかに作者の知性を感じる」とか「作者のやさしさが、やわらかな春の光のようにひろがってくる」とか……。
まあ、帯なので長い文章は書けないからそうなるのかもしれないが。
脱線した。
私がこの詩で思うことは、ここに書かれている「うずら」がわからないけれど、それがわからなくてもわかる部分があるということ。そして、私はそのわかる部分に反応して読んでいるということ。
一連目、会社の偉い人から何か言われたら、それに従うしかない、ということ。「家族を養わなければならない」からね。このことばのなかに「おやじ」の生き方(思想/肉体)がある。「おやじ」は自分だけのために働いているのではなく「家族」のためにも働いている。自分と家族は切り離せない。そして「努力」する。この「努力する」が「おやじ」の生き方とわかるので「うずら」は、まあ、わきへ置いておく。そういうものだよな、人間は、と思いながら。
テーマは「うずら」なのかもしれないが、「うずら」でなくても、そこに書かれている「動詞」は動く。動くと「人間」になる。動詞に、私の「肉体」と「肉体がおぼえている」ことを重ねるからだ。「金魚」でも「苦情受付係」でも、同じように「動詞」は動き、その動詞に自分の「肉体」を重ねるようにして、そこに書いてあることが「わかる」。
私は「名詞」ではなく、「動詞」でことばを読んでいる。
そして、南風の書いている「動詞」は、どれもこれも「肉体」に重なる。それが、いい。「動詞」が重なりながら、自分に激しく絡み付いてくる(自分の「肉体」の記憶を激しく刺戟してくる)というのではなく、そういう「動詞」の動きは知っている、おぼえているけれど、これは「自分」ではなく「うずら」なんだと思うと、ちょっと安心する。
「わかる」けれど、「親身」さが「半分」。
「……のくせに態度がでかいと どつかれたり」「……のくせによく食うとイヤミを言われたり」という表現のなかにある「……のくせに」という言い方。何度も何度も聞かされるねえ。「態度がでかい」「よく食う」という批判の仕方。「どつかれたり」「イヤミを言われたり」。ここでも「動詞」に私は反応する。「うずら」に反応しているわけではない。むしろ「うずら」によって、私の「肉体」の反応は、かなり軽くなる。自分でもおぼえているのに、そのおぼえていることが、感情そのものにならない。少し離れる。間接的になる。
詩というのは(文学というのは)、そこに書かれていることが「他人」のことなのに、「あ、これは自分のことなんだ」と思うときに感動がはじまる--ということから考えると、この「間接性」は、ちょっと弱点。
ちょっと「弱点」というのは、言い換えると、「絶対的な傑作(たとえばドストエフスキーの作品)」という基準からはなんとなくはみだしてしまう。もっと直接的なものを評価してしまうという、暗黙の基準がどこかにあるんだろうなあ。
でも、そういう「絶対的な文学」じゃないから、いい、というところもあるね。いつもいつも、「絶対」にしばられて動くなんて、つらい。息抜きしながら、動いていたい。
そういう気持ちに「とりあえず」とか「なかなか」ということばが寄り添ってくれるね。そういうことばのなかに、何か「呼吸」のようなものがあるね。「肉体」を動かしながら「呼吸している」。そのリズムを、そのままことばとして結晶させている。
「浜辺のドップラー効果」は「うずら」ではなく「はまぐり」になった詩だが、不幸な期待と不幸な期待が裏切れる瞬間の、安心とがっかりした気分の矛盾した感じが動くところがおもしろい。「息をのむ」というのはだれもがつかう「動詞」だけれど、この詩では「常套句」であることを忘れてしまうくらいに、「肉体」にぴったり重なる。
南風は自分の「肉体」でおぼえこんだことばを、そのときの「肉体」のまま思い出し、使うことができる人なのだろう。
「遠い夏」は多くの人が経験したことのある光景かもしれない。
「じっと動かない」という「副詞」と「動詞」のなかにおばあちゃんが生きている。そして、それを「まめつぶ」というだけではなく「ひかる」ということばで修飾している。その「ひかる」なのかに「真実」がある。「ひかる」ということばによって、はじめて世界にあらわれてくる何かがある。
これは先に書いてきた南風のことばへの感想とは違ってしまうかもしれないけれど、こういう「肉体」をふっとはみだす瞬間のことばに南風の「ほんとう(人柄)」がある。こういうことばがあらわれるまで、ていねいにていねいに、南風は「動詞」を動かしているのだろう。
「うずら」は何のことかわからない、と私は最初に書いたが、きっと「ひかるまめつぶ」の「ひかる」のような何かそのものなのである。会社の偉い人からは「うずら」にしか見えないが、南風はそこに「ひかる」のようなものを見ている。それが見えるから、生きていける。
「うずら」の前も、いまも、「ひかる」その「ひかり」そのものである。無傷の、無垢の、何かが「肉体」のなかにある。それがあるから、人間は生きているのだ、と感じさせてくれる。
南風桃子『うずら』について語るのは、私にはむずかしい。たとえば「哀愁うずらおやじ」という作品。
きょうからきみは
うずらになってもらうよ
と、会社の偉い人から言われました
家族を養わなければならないので
とりあえず
うずららしくなってみようと努力したのですが
みんなから
うずらのくせに態度がでかいと どつかれたり
うずらのくせによく食うとイヤミを言われたり
なかなかたいへんです
帯に「生きていく中での喜びや悲しみを/ユーモアのレースにくるんで歌った/おかしくてほろ苦いうずらの世界」と書いてあるんだけれど。
うーん、
私はこんなふうにさらりと感想が書けない。また、「生きていく中での喜びや悲しみを/ユーモアのレースにくるんで歌った/おかしくて」というのは、言いえているようだが、それってほかの誰かの詩にも言わない?と疑問にも思う。抽象的すぎて、読まなくても書ける批評のひとつじゃないだろうか。
南風の詩についてのことではないのだが、たとえば「繊細なことばのなかに作者の知性を感じる」とか「作者のやさしさが、やわらかな春の光のようにひろがってくる」とか……。
まあ、帯なので長い文章は書けないからそうなるのかもしれないが。
脱線した。
私がこの詩で思うことは、ここに書かれている「うずら」がわからないけれど、それがわからなくてもわかる部分があるということ。そして、私はそのわかる部分に反応して読んでいるということ。
一連目、会社の偉い人から何か言われたら、それに従うしかない、ということ。「家族を養わなければならない」からね。このことばのなかに「おやじ」の生き方(思想/肉体)がある。「おやじ」は自分だけのために働いているのではなく「家族」のためにも働いている。自分と家族は切り離せない。そして「努力」する。この「努力する」が「おやじ」の生き方とわかるので「うずら」は、まあ、わきへ置いておく。そういうものだよな、人間は、と思いながら。
テーマは「うずら」なのかもしれないが、「うずら」でなくても、そこに書かれている「動詞」は動く。動くと「人間」になる。動詞に、私の「肉体」と「肉体がおぼえている」ことを重ねるからだ。「金魚」でも「苦情受付係」でも、同じように「動詞」は動き、その動詞に自分の「肉体」を重ねるようにして、そこに書いてあることが「わかる」。
私は「名詞」ではなく、「動詞」でことばを読んでいる。
そして、南風の書いている「動詞」は、どれもこれも「肉体」に重なる。それが、いい。「動詞」が重なりながら、自分に激しく絡み付いてくる(自分の「肉体」の記憶を激しく刺戟してくる)というのではなく、そういう「動詞」の動きは知っている、おぼえているけれど、これは「自分」ではなく「うずら」なんだと思うと、ちょっと安心する。
「わかる」けれど、「親身」さが「半分」。
「……のくせに態度がでかいと どつかれたり」「……のくせによく食うとイヤミを言われたり」という表現のなかにある「……のくせに」という言い方。何度も何度も聞かされるねえ。「態度がでかい」「よく食う」という批判の仕方。「どつかれたり」「イヤミを言われたり」。ここでも「動詞」に私は反応する。「うずら」に反応しているわけではない。むしろ「うずら」によって、私の「肉体」の反応は、かなり軽くなる。自分でもおぼえているのに、そのおぼえていることが、感情そのものにならない。少し離れる。間接的になる。
詩というのは(文学というのは)、そこに書かれていることが「他人」のことなのに、「あ、これは自分のことなんだ」と思うときに感動がはじまる--ということから考えると、この「間接性」は、ちょっと弱点。
ちょっと「弱点」というのは、言い換えると、「絶対的な傑作(たとえばドストエフスキーの作品)」という基準からはなんとなくはみだしてしまう。もっと直接的なものを評価してしまうという、暗黙の基準がどこかにあるんだろうなあ。
でも、そういう「絶対的な文学」じゃないから、いい、というところもあるね。いつもいつも、「絶対」にしばられて動くなんて、つらい。息抜きしながら、動いていたい。
そういう気持ちに「とりあえず」とか「なかなか」ということばが寄り添ってくれるね。そういうことばのなかに、何か「呼吸」のようなものがあるね。「肉体」を動かしながら「呼吸している」。そのリズムを、そのままことばとして結晶させている。
「浜辺のドップラー効果」は「うずら」ではなく「はまぐり」になった詩だが、不幸な期待と不幸な期待が裏切れる瞬間の、安心とがっかりした気分の矛盾した感じが動くところがおもしろい。「息をのむ」というのはだれもがつかう「動詞」だけれど、この詩では「常套句」であることを忘れてしまうくらいに、「肉体」にぴったり重なる。
南風は自分の「肉体」でおぼえこんだことばを、そのときの「肉体」のまま思い出し、使うことができる人なのだろう。
「遠い夏」は多くの人が経験したことのある光景かもしれない。
おばあちゃんは
バス停まで いつも
見送りに来てくれました
バスが土ぼこりをあげて
見えなくなるまで
見送ってくれました
そのとき おばあちゃんは
じっと動かない
ひかるまめつぶ
のようでありました
「じっと動かない」という「副詞」と「動詞」のなかにおばあちゃんが生きている。そして、それを「まめつぶ」というだけではなく「ひかる」ということばで修飾している。その「ひかる」なのかに「真実」がある。「ひかる」ということばによって、はじめて世界にあらわれてくる何かがある。
これは先に書いてきた南風のことばへの感想とは違ってしまうかもしれないけれど、こういう「肉体」をふっとはみだす瞬間のことばに南風の「ほんとう(人柄)」がある。こういうことばがあらわれるまで、ていねいにていねいに、南風は「動詞」を動かしているのだろう。
「うずら」は何のことかわからない、と私は最初に書いたが、きっと「ひかるまめつぶ」の「ひかる」のような何かそのものなのである。会社の偉い人からは「うずら」にしか見えないが、南風はそこに「ひかる」のようなものを見ている。それが見えるから、生きていける。
「うずらはつらいよ…」
思わずため息をつくと
「うずらの分際で」と間髪入れずにおこられました
そうこうしているうちに
さらさらと月日はながれ
「あれ?うずらの前はオレ、誰だったっけ?」
と、夕方ビールをのみながら思うのでした
(「哀愁うずらおやじ」)
「うずら」の前も、いまも、「ひかる」その「ひかり」そのものである。無傷の、無垢の、何かが「肉体」のなかにある。それがあるから、人間は生きているのだ、と感じさせてくれる。
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