詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(81)

2019-03-10 10:22:16 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
81 アレクサンドリアの人アイミリアノス・モナエ 紀元六二八--六五五

言葉と外見とふるまいによって
立派な鎧をつくってやろう、
そうして悪い人間どもと対面しよう、
無力を恐れる必要はなくなるだろう。

奴らはわたしを傷めつけようとする、しかし
わたしに近づく者の誰とて知るまい、
わたしの傷口が、弱いところが、いずこにあるかを。
すべてが虚偽でおおわれているのだから--

 池澤の註釈。

主人公は実在の人物ではない。こう奇妙な処世方針を立てるのはやはり若い人間のすることだろう。

 二十七歳で死んだことがわかっているのだから「若い人間のすることだ」で何を言いたいのかわからない。言う必要がない。
 なぜカヴァフィスは架空の若い人間に、こういうことを言わせ、なおかつ二十七歳で死なせてしまったのか。
 そこにはカヴァフィス本人が描かれているのではないだろうか。
 「言葉と外見とふるまい」によってカヴァフィスは「傷口(弱いところ)」がどこにあるか隠してきた。二十七歳までは。しかし、その後は隠すことをやめた、ということではないだろうか。
 このとき「死んだ」はどういう意味をもつだろうか。
 「傷口」を隠していた人間が死んだのであり、「傷口」をさらけだして生きるようになったという具合に受け止めることはできないか。
 私は「伝記」というものに興味をもったことがない。カヴァフィスがいつ、何を書いたかも関心がない。しかし、この詩を読むと、二十七歳の頃、カヴァフィスは「生き方」を変えたのだろうと思いたくなる。「傷口」を「傷口」ではないと悟って生き始めたと読みたい。カヴァフィスにとっては二十七歳以前は「架空」の人間だった、と「誤読」したい。


カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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クリント・イーストウッド監督「運び屋」(★★★★★)

2019-03-10 09:31:00 | 映画
クリント・イーストウッド監督「運び屋」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシア

 劇的に撮ろうと思えばどこまでも劇的に撮れる映画だろうけれど、実に淡々としている。考えてみれば、どんなに劇的な人生であろうとそのほとんどの部分は「日常」であり、日常は淡々としているものだ。
 最初のクライマックス(?)、自分が運んでいるものがドラッグだと気付く。そこへ警官がやってくる。ドラッグ探査犬もいる。予告編でもちらりと見えた。どうなるんだろう。はらはら、どきどき。でも、一瞬で切り抜けてしまう。痛み止めクリームの匂いで犬を引きつける(鼻を麻痺させる)という知恵も機転が利いているが、そのあとの処理が素早い。イーストウッドの演技も素晴らしいが、さっと消えていくときの警官の演技(犬をコントロールする演技)が素晴らしい。自然体そのもの。まるで何もなかったみたい。実際に、何も起きないのだが、この何も起きないところにドラマがある。
 監視役の二人にチキンサンドイッチを振る舞うシーンもいいなあ。「なんで、こんなところに立ち寄るんだ」「西部一うまいチキンサンドを出すからだ」。で、食べた瞬間の監視役のやくざの表情がかわる。うまい。その「うまい」という表情が自然すぎるくらい自然だ。「バベットの晩餐」で喋ってはいけないといわれていた近所の老人たちがワインを口にした瞬間、顔の表情がゆるむシーンに似ている。ひとは、うまいものを食べた瞬間にこころが明るくなる。それが顔に出る。
 このシーンなどストリーそのものには何の関係もないような部分なのだけれど、その積み重ねが、ストーリーを「日常」にしてしまう。監視役の二人が盗聴マイクから流れてくるイーストウッドの聞いている曲をバカにしているうちに、だんだんその気になってくるところとかね。
 こういうことがあって、孫娘の卒業式に出席したイーストウッドがダイアン・ウィーストの咳に気づき、それが「運び屋」のストーリーの奥の、ほんとうのストーリーにつながっていく。このシーンも、ほんとうに短い。けれど印象に残る。だから、最後にあれが伏線だったと、自然に納得できる。
 ダイアン・ウィーストが死んでゆくシーンは、もっと感情的に盛り上げようとすれば盛り上がるシーンだし、感情的に盛り上げようとしなくても盛り上がってしまうシーンだが、イーストウッドはきわめて淡々と撮ってしまう。考えてみれば「主人公」とはいえ、それは観客にとって「他人」。のめりこんでしまうと「他人」ではなくなる。映画の楽しみは「自分」ではなく「主人公」になってしまうことだけれど、それは瞬間的なことであって、観客は観客の人生にかえっていかなければならない。そういうことを承知しているから、さらりと「こういうことがありました」という感じにおさえてしまう。おさえても、それは静かに触れてくる。この「触れてくる」という感じがとてもいい。
 「もっと」と思うときもあるけれど、「もっと」は観客のそれぞれが自分の人生で実践すればいいことなのだろう。
 ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシア。出演者の誰もが「主役」を演じることができるのだが、みんな「脇役」に徹している。イーストウッド自身「脇役」を演じている感じがする。
 ブラッドリー・クーパーとの朝のコーヒーショップでの会話、アンディ・ガルシアの豪邸での監視役のやくざとの会話など、大切なことはイーストウッドがセリフにしているのだけれど、そのセリフの向こう側にブラッドリー・クーパや監視役のやくざの人生が「事実」として動く。その「事実」を浮かび上がらせる産婆としてイーストウッドがいる。「脇役」として生きている。
 ハイウエーでパンクしたアフリカ系家族とのやりとり、女性ライダーたちとのやりとりという「エピソード」にすぎない部分にも、「事実」とその「事実」が噴出してくる瞬間に動いている「他人の感情」をしっかり浮かび上がらせている。浮かび上がらせるためにイーストウッドがいる。
 で、ね。
 これが何というか……。イーストウッドの演じた「運び屋」の男の性格そのものなのだ。自分のことに集中していればいいのに、ついつい「他人」に目を向けてしまう。「他人」から評価されたい、評価されるときの喜びを味わいたいという欲望が主人公の体にしみついてしまっている。そのために「家族」をほっぽりだしてしまう。「家族」も「他人」なのに「身内」なので、ついついないがしろにしてしまうということなんだろうなあ。「家族」よりも「他人」に喜んでもらいたい。それが、イーストウッドを逸脱させてしまう。という具合に、ストーリー全体にもおおいかぶさってくる。
 この不思議な不思議な「構図」(映画構造)が、泣かせる。
 (2019年03月09日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン2)
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