谷川俊太郎『バームクーヘン』を読む(朝日カルチャーセンター、2019年03月18日)
朝日カルチャーセンターの「一日講座」で谷川俊太郎の『「バームクーヘン』(2018年09月01日発行)を読んだ。
「あさこ」「とまらない」「くらやみ」の順に三篇。
主人公は、どんな人物?
「すき」を詩の中のほかのことばで言うと何になる?
「ひそんでいる」を、ほかのことばで言いなおすと?
というような意地悪な質問を私がして、受講生が、それに答えるというような方法で読んで行く。
私は質問するだけで、どれが「正解」なんて、考えない。
詩は、どう読んでも、読んだ人のかって、と思っているから。
「あさこ」は、こういう作品。
この詩のわたしは誰? どんな人? 何歳くらい? 男と女、どっち?
「高校を卒業する女子」「中学生くらいの女子」「谷川俊太郎の若い妻」「あさこのボーイフレンド」
どうして、どのことばから、そう思う?
「ウィーン留学するのだから、高校卒業くらいだろう」(ウィーンは、学費が安いから、とても留学しやすいんです、という情報が別の人からあった)
「音楽室が中学校や、小学校を思い出させる」
「谷川は何度も結婚している。激しい人なんです。だから若い妻がいるんです」
「あさこなんて ださいなまえ!と突き放しているところが、男を感じさせる」
男は、意外とそういう露骨なことばはいわないんじゃないかなあ。
「ひみつのはなしをメールでする、というのが女の子を感じさせる」
「わたしのほうがうまいとおもった/あさこはらい ウィーンへいく、には嫉妬のようなものがふくまれているから」
じゃあ、すきということばが何度か出てくるけれど、好きって、どういうこと? この詩の中にあることばで言いなおすと、どれ?
「ともだちとは少し違う。ともだち以上という感じかなあ」
「感情が、うごいていく。二連目の、ゆっくりうごいていく、が好きというときの気持ち」
「わたし、この二連目のように、空ではなくて雲を見るのが好きなんです。だから、自分のことみたいだと思った」
この連だけ、あさこが登場しないね。どうしてだと思う?
「ここは、虚構じゃなくて、ほんとうのことが書いてあるんだと思う。ほんとうに、教室から空の雲を見ている」
わ、すごいなあ。目からうろこが落ちる、というのは、こういうことを言うんだろうなあ。私は谷川が「女子中学生のふり」をして書いている詩だと思って、ぱっと読んだ。そこには女子中学生が描かれているが、「ほんとうのこと」が書いてあるとは思わなかった。
すぐれた詩は、どこかに「ほんとう」がある。
そのほんとうは、谷川が書いたものか、それとも読者が見つけたものかわからないけれど、「ほんとう」と感じたとき、その読者は谷川になっている。
〇〇さんも、教室の窓から雲を見たことがある? 雲が好き?
思わず、聞き返してしまった。
こういうやりとりをしていると、谷川俊太郎の詩を読んでいるのが、参加者のこころを読んでいるのかわからなくなる。
でも、私は、こういう瞬間が好き。
詩を読むのは、詩人の心を読むだけではなく、自分が何を考えているかを振り返ること。
ひとりで読むのも楽しいけれど、多くの人といっしょにやるのもおもしろい。自分が見落としていたものが、いろいろ見えてくる。
それは谷川のこころ?
その発言をした人のこころ?
それとも私のなかにかくれていたこころ?
どれでも、いい。
それが何であっても(どれであっても)、自分が少しかわることができたという感じが楽しい。
「とまらない」。
ぼくは、何歳?
多くの人が小さな子どもを想像した。「孫がこれくらいの年」という人もいた。最近、母を亡くしたひとがいて、「二連目は自分の気持ちのようだ」と言った。何歳になっても、ひとは同じように感じる。
詩の「意味」を探して読むと、どうしても小さな子どもを思い浮かべるけれど、実際に小さな子どもがこのことばを言えるとは思わない部分、大人のことばがあって、それが読む人をぐいとつかみとるということも起きる。
この三行、言いなおすと、どんな感じ?
「なにか、ぎゅうっと集中していく感じ」
そういう体験をしたことがありますか?
誰もが、体験をしたことがある。でも、それを谷川のように、ことばにはできない。ことばにできないけれど、知っている。そういうものに出会ったとき、ひとは、「あ、これは私が言いたかったこと」と思う。その瞬間、詩は、詩人のもではなく、読者のものになる。
もっと、答えやすい(?)部分でも聴いてみた。
この詩のぼくが、小さい子どもだとして、その子どもが目の前にいたら、どうしますか?
「だきしめる」
「なにもしない。そのままにしておく」
なにもしないという声が想像以上に多かった。
どういえばいいのかわからないが、あ、親は強い、と思った。何もしなくても、子どもは乗り越えて成長していくということを「実感」として知っている。
「くらやみ」の「わたし」には年齢や性別を感じさせる手がかりのようなものがなくて、これをどう読んでいくかには、読者そのものがくっきり出てくる。でも、時間が足りずに(時間配分を間違えて)、いろいろな感想を聞き出すことができなかった。
「くらやみはこころからなくならない」のは、なぜ? 「わたしはくらやみをすきになりたい」の「すき」を別なことばでどう言い換えているだろう? そういうようなことを「ひそんでいる」「いる」「さわっている」ということばや、「ちから」「うちゅう」ということばと一緒に考えてみることができるとたのしいと思っている。
四月から、月二回のペースで講座が始まります。
受講生募集中です。
講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
4月1日、15日、5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
申し込みは、朝日カルチャーセンター、博多駅前・福岡朝日ビル8階☎092-431-7751
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
朝日カルチャーセンターの「一日講座」で谷川俊太郎の『「バームクーヘン』(2018年09月01日発行)を読んだ。
「あさこ」「とまらない」「くらやみ」の順に三篇。
主人公は、どんな人物?
「すき」を詩の中のほかのことばで言うと何になる?
「ひそんでいる」を、ほかのことばで言いなおすと?
というような意地悪な質問を私がして、受講生が、それに答えるというような方法で読んで行く。
私は質問するだけで、どれが「正解」なんて、考えない。
詩は、どう読んでも、読んだ人のかって、と思っているから。
「あさこ」は、こういう作品。
おんがくしつであさこはハイドンをさらっていた
わたしはうちでおなじきょくをひいてみた
なんどかつっかえたけど
わたしのほうがうまいとおもった
あさこはらいねん ウィーンへいく
わたしはそらをみるのがすき
あおぞらじゃなく くもをみるのがすき
くもはじっとしていない
かぜがないときでもかたちをかえながら
いつもゆっくりうごいている
わたしはあさこが きらいなのかすきなのか
わからない でもともだちだとおもう
ときどきひみつのはなしをメールでするから
あうとだいたいしらんかおだけど
あさこなんて ださいなまえ!
この詩のわたしは誰? どんな人? 何歳くらい? 男と女、どっち?
「高校を卒業する女子」「中学生くらいの女子」「谷川俊太郎の若い妻」「あさこのボーイフレンド」
どうして、どのことばから、そう思う?
「ウィーン留学するのだから、高校卒業くらいだろう」(ウィーンは、学費が安いから、とても留学しやすいんです、という情報が別の人からあった)
「音楽室が中学校や、小学校を思い出させる」
「谷川は何度も結婚している。激しい人なんです。だから若い妻がいるんです」
「あさこなんて ださいなまえ!と突き放しているところが、男を感じさせる」
男は、意外とそういう露骨なことばはいわないんじゃないかなあ。
「ひみつのはなしをメールでする、というのが女の子を感じさせる」
「わたしのほうがうまいとおもった/あさこはらい ウィーンへいく、には嫉妬のようなものがふくまれているから」
じゃあ、すきということばが何度か出てくるけれど、好きって、どういうこと? この詩の中にあることばで言いなおすと、どれ?
「ともだちとは少し違う。ともだち以上という感じかなあ」
「感情が、うごいていく。二連目の、ゆっくりうごいていく、が好きというときの気持ち」
「わたし、この二連目のように、空ではなくて雲を見るのが好きなんです。だから、自分のことみたいだと思った」
この連だけ、あさこが登場しないね。どうしてだと思う?
「ここは、虚構じゃなくて、ほんとうのことが書いてあるんだと思う。ほんとうに、教室から空の雲を見ている」
わ、すごいなあ。目からうろこが落ちる、というのは、こういうことを言うんだろうなあ。私は谷川が「女子中学生のふり」をして書いている詩だと思って、ぱっと読んだ。そこには女子中学生が描かれているが、「ほんとうのこと」が書いてあるとは思わなかった。
すぐれた詩は、どこかに「ほんとう」がある。
そのほんとうは、谷川が書いたものか、それとも読者が見つけたものかわからないけれど、「ほんとう」と感じたとき、その読者は谷川になっている。
〇〇さんも、教室の窓から雲を見たことがある? 雲が好き?
思わず、聞き返してしまった。
こういうやりとりをしていると、谷川俊太郎の詩を読んでいるのが、参加者のこころを読んでいるのかわからなくなる。
でも、私は、こういう瞬間が好き。
詩を読むのは、詩人の心を読むだけではなく、自分が何を考えているかを振り返ること。
ひとりで読むのも楽しいけれど、多くの人といっしょにやるのもおもしろい。自分が見落としていたものが、いろいろ見えてくる。
それは谷川のこころ?
その発言をした人のこころ?
それとも私のなかにかくれていたこころ?
どれでも、いい。
それが何であっても(どれであっても)、自分が少しかわることができたという感じが楽しい。
「とまらない」。
なきだすとぼく とまらない
しゃっくりみたいに なきじゃくって
なきやみたいのに とまらないんだ
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに
ほんとはおかあさんに しがみつきたい
でもぼくはもう
いちにんまえの おとこのこだから
あまえてはいけない
そうおもったらまた
まえよりもっと かなしくなった
ぼくは、何歳?
多くの人が小さな子どもを想像した。「孫がこれくらいの年」という人もいた。最近、母を亡くしたひとがいて、「二連目は自分の気持ちのようだ」と言った。何歳になっても、ひとは同じように感じる。
詩の「意味」を探して読むと、どうしても小さな子どもを思い浮かべるけれど、実際に小さな子どもがこのことばを言えるとは思わない部分、大人のことばがあって、それが読む人をぐいとつかみとるということも起きる。
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに
この三行、言いなおすと、どんな感じ?
「なにか、ぎゅうっと集中していく感じ」
そういう体験をしたことがありますか?
誰もが、体験をしたことがある。でも、それを谷川のように、ことばにはできない。ことばにできないけれど、知っている。そういうものに出会ったとき、ひとは、「あ、これは私が言いたかったこと」と思う。その瞬間、詩は、詩人のもではなく、読者のものになる。
もっと、答えやすい(?)部分でも聴いてみた。
この詩のぼくが、小さい子どもだとして、その子どもが目の前にいたら、どうしますか?
「だきしめる」
「なにもしない。そのままにしておく」
なにもしないという声が想像以上に多かった。
どういえばいいのかわからないが、あ、親は強い、と思った。何もしなくても、子どもは乗り越えて成長していくということを「実感」として知っている。
「くらやみ」の「わたし」には年齢や性別を感じさせる手がかりのようなものがなくて、これをどう読んでいくかには、読者そのものがくっきり出てくる。でも、時間が足りずに(時間配分を間違えて)、いろいろな感想を聞き出すことができなかった。
「くらやみはこころからなくならない」のは、なぜ? 「わたしはくらやみをすきになりたい」の「すき」を別なことばでどう言い換えているだろう? そういうようなことを「ひそんでいる」「いる」「さわっている」ということばや、「ちから」「うちゅう」ということばと一緒に考えてみることができるとたのしいと思っている。
四月から、月二回のペースで講座が始まります。
受講生募集中です。
講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
4月1日、15日、5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
申し込みは、朝日カルチャーセンター、博多駅前・福岡朝日ビル8階☎092-431-7751
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com