詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦成友『斜めに走る』

2019-03-22 20:46:58 | 詩集
松浦成友『斜めに走る』(思潮社、2018年12月25日発行)

 松浦成友『斜めに走る』の巻頭の「万華鏡」は、万華鏡をのぞきみたときの世界を視覚化したものだ。

つつ の なか は かがみ の せかい
   ゆきのけっしょう ほうせき かじつ はなびら

さまざまな けいしょう が いろどられて
       ふゆ の ひ を あたためている

 私は目が悪いので、視覚を刺戟してくる作品が苦手だ。でも、他の作品と読み比べると、この詩には何か「音楽」のようなものがある。
 詩集のタイトルになっている「斜めに走る」に似たことばが登場する「走るクリナメン」の書き出しを引いてみる。

肉体の微妙な不均衡は正確な歩行を許さない
斜行への誘惑は無意識の内に発動される
まして左脳の軽微な損傷は世界を把握する言語体系から
砂のように言葉が滑り落ち
フィルターの掛かった通りを正しく間違えるのだ

 このリズムは、とてもつらい。「意味」が強すぎる。「微妙」と「軽微」の違いなど「微」の文字が重なるから「雑音」に聞こえるし、「まして」という間延びした感じのことばも「漢語(漢字熟語)」と「和語」の結びつきに変な「休止」というか「間合い」を持ち込んできて、すっきりしない。
 このリズムに比べると、「万華鏡」の「分かち書き」はとても自然だ。「かじつ」「けいしょう」という「硬質」な音も、鏡の乱反射のようで楽しい。いま見たのは、なんだったのかな? 見たと思っただけで「錯覚」だったのかな、と感じさせる。スピードの変化がリズムになっている。
 私は黙読しかしないので、音読すると「音楽」が違って聞こえるかもしれないが。
 で。

かたち は つねに へんか し
あらたな けっしょう を うんでいく

 「けっしょう」が前に出てきているのでうるさいのだが(もっと短いことばなら印象が違うと思うが)、「へんか し」の「し」の独立が刺激的だ。「死」が音に重なるように闖入してきた。そして、それが「うんでいく(生んでいく)」という正反対のことばを誘い出す。
 「意味」が強いのだけれど、その「意味」の強さと向き合っている「し」の一文字が美しく見える。「詩」に見える。
 最終蓮の三行、

くるしみ を ろか して
いのち の さいご の ひ が
かがみ の なか で うつくしく はな ひらく

 書かなければ詩が終わらないと思って、こう書いてしまうのだと思うが、「種明かし」になりすぎていて、おもしろくない。「の」の繰り返しにもうんざりさせられる。
 「苦」を屹立させるとか、「殺して」を連想させる「ろか して」の配置の仕方を工夫するとかすれば、万華鏡の奥の「闇」が輝いたのではないかと思う。

えめらるど さふぁいあ そして いちじくのみ

 という途中にある一行、特に「いちじくのみ」が「音」としても「絵」としても印象的なので、読んでいて、なんだか残念だなあ、という気持ちになる。




*

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イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)

2019-03-22 10:28:33 | 映画
イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)

監督 イングマール・ベルイマン 出演 ペルニラ・アルビーン、バッティル・ギューベ、アラン・エドワール、エバ・フレーリング、グン・ボールグレーン

 最初に見たときはクリスマスのシーンにただただ圧倒された。あとにつづく陰鬱なシーンはせっかくのクリスマスシーンを台なしにするようで、無残な気持ちがした。でも、再び見ることができて、発見が多かった。
 いちばんの発見は、時間の処理である。特に二部に入ってからがびっくりしてしまう。
 かけはなれた場所で起きるできごとを、カメラを瞬時に切り換えて映し出して見せる。(もちろん、これは編集、ということなのだが。)そうすると違った場所なのに、それが同じ時間に起きていることになる。実際に同時に起きていることがあるかもしれないが、そういうことはかけはなれた場所でのできごとなので、誰にもわからない。
 しかし。
 記憶というのは、かけはなれた時間も場所も「いま/ここ」のように整えてしまう。「あのとき、ここではこういうことが起きていたが、あそこではああいうことが起きていたのか。そして、これとあれは、完全につながっていたのか」と言う具合に。
 この映画のひとつのクライマックス。アレクサンデルが人形工房で迷子になる。幽閉されている男の部屋に招き入れられ、その男と話をする。男はテレパシーのようにアレクサンデルの頭の中をことばにしてみせる。そのとき、教会では、ほとんど寝たきりの女性がランプを倒して、それが衣服に燃え移り、火まみれになって部屋を飛び出す。男の語っていることばにつづいてそういうシーンが映し出されると、まるでアレクサンデルの願望がそのままかけはなれた場所で実現されているようにも見える。
 でも、これは正確に言いなおすならば、その事故を警察が母親に報告にきたのをアレクサンデルが聴いて、あ、きのうのことばは、こういうことだったのか、と整えた結果だろう。幽閉されていた男が語ったことばは、抽象的で、現実的な描写ではないのだから。
 ことばが先にあって、現実があとからやってくる、というよりも、ひとはことばによって現実を整える。そのとき、時間や場所は「距離感」をなくして凝縮する。「追憶」のなかで世界は緊密に結びつき、より濃密になる。
 アレクサンデルの父親が、ハムレットの「亡霊」の練習をしていて、倒れる。それは事故なのだが、その後、母が再婚し、新しい父が世界を牛耳はじめると、まるで「ハムレット」の世界がそのまま現実になったように思える。幼いアレクサンデルには、そうとしか思えない。復讐心がわく。父の「亡霊」も見える。
 クリスマスシーンも濃密だが、その後の陰惨な物語もまた濃密である。いつまでたっても終わらないのじゃないかと錯覚させる。
 映画の中で、アレクサンデルの祖母が「子どものときの、終わらないのじゃないかと思う濃密な時間」というようなせりふをちらりともらす。ファニーが「クリスマスの晩餐は長いから嫌い」とつぶやく。子どもにとっては、どの時間も非常に長い。(小学生のとき、夏休みは永遠に終わらないんじゃないかと思うくらい長かったなあ。)その長い時間、濃密さが、この映画の中に、そのまま動いている。

 「野いちご」もそうだが、「追想」なのだからストーリーはある。初めがあって、終わりがある。けれど、そこにあるのはストーリーではなく、ストーリーを突き破って動いていく人間の存在の充実だ。アレクサンデルの叔父の大学教授(?)夫婦のやりとり、夫婦げんかなど、アレクサンデルにとっては何の関係もないようなものだが、その存在が「思い出」の奥で、ほかの人間といっしょになって動いている。こういうことも、きっとあとから「あのとき、こういうことがあったんだよ」と聞かされ、ひとつのストーリーになっていくんだろうけれど。
 登場する人間のひとりひとりが、むごたらしいくらいに生々しい。

 それにしても、と思う。
 デジタル化された映像はたしかに美しい。しかし、デジタルでこれだけ美しいならフィルムはもっとつややかで美しいだろうと悔しくなる。フィルムを劣化させずに残す方法はないのだろうか。
 (2019年03月21日、KBCシネマ1)
ファニーとアレクサンデル HDマスターDVD
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池澤夏樹のカヴァフィス(93)

2019-03-22 09:18:03 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」

93 翳が訪れる

一本の蝋燭で充分。  ほのかな光こそ
よほどふさわしい、 ずっと好ましい、
愛が翳となって、 訪れる時には。

一本の蝋燭で充分。  今宵この部屋に
明りは多くいらない。  夢想のさなか
想いえがくところ、 ほんの少しの光--
この夢想のさなか、 幻のうちに
愛が翳となって、 見える時には。

 短い詩だが、そのなかに同じことばが何度も出てくる。この繰り返しはモーツァルトの曲のように酔いを引き起こす。そのために、この詩の「意味」を忘れてしまいそうだ。
 「愛が翳となって訪れる」というのは、愛が弱まっていく、ということだろう。「意味」としては否定的なものである。しかし、この詩で展開されるリズムは、まるで快感である。
 悲しみが快感にかわる、悲しみがひとを酔わせるのは、それが「思い出」であるときだ。
 この詩は「回想(追憶)」の形をとっていない。むしろ、これから起こることのように読める。
 しかし、そのリズムは追憶のリズムだ。追憶は、一回ではおわらない。繰り返し繰り返し、繰り返すことで形を整える。そういう追憶の「動き」そのものが詩のリズムに乗り移っている。

 この詩の原形はどうなっているのかわからないが、句点のあとの二字あき、読点のあとの一字あきの表記が、私には「耳障り」である。「音」が寸断される。そこに「沈黙の音」があるのかもしれないが、追憶というのは「間」を消すものである。十年前も、きのうも、そして一時間前も、すぐに「肉体」のそばにやってきて、肉体をわしづかみにする。

 池澤は、註釈でカヴァフヘスの声について言及している。

生前の詩人を知っていた人々の話によれば、彼はたいへん良い声をしていて、朗読もきわめて上手だったという。

 私は、好きな詩は、朗読では聞きたくない。ことばのもっているリズムと、声の持っているリズムが、どうもあわない。黙読の時に、肉体の奥で動く音楽が私は好きだ。

カヴァフィス全詩
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