詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(88)

2019-03-17 09:05:32 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
88 イメノス

《……不健康な衰弱的な快楽が
もっともっと求められるべきだ。
その快楽が欲するものを感じとれる肉体は少ない--
不健康で衰弱的な方法によってのみ得られる
健全とは無縁なエロスの強度がある……》

 池澤は一連目と二連目の発表された時間が違うことを根拠に、こう註釈している。

 第一聯は詩人そのひとの考えで、それをイメノスという架空の人物に託して、最もそれにふさわしい時代の背景の前に置いたということになろう。この詩的技法による主張の緩和は興味深い。これは二十世紀初頭より九世紀の方に似つかわしい官能主義なのだ。

 逆に読むこともできる。ここに書かれている官能主義は、いま(二十世紀初頭)はじまったものではなく、すでに九世紀に存在した。長い歴史を生き抜いてきた官能主義である、と強調したいのかもしれない。
 カヴァフィスはシェイクスピアのように「慣用句」を自分のものとしてつかっているのではないか、ということを以前書いたが、それを流用すれば、カヴァフィスは慣用的エロスを詩に持ち込んでいる。エロスに「異質」なものはない。あらゆるエロスが「慣用的」である、と主張していると、私は読む。

健全とは無縁なエロスの強度がある……》

 「強度」ということばが強い。「不健康」「衰弱」しているものも、「強度」に引きつけられる。「快楽」は絶対的な「強度」であり、本能はそれに打ち勝つことはできない。敗北するものだけが獲得できる愉悦がある。エロスに敗北できるものだけがエロスの「強者」である、という宣言にも読むことができる。
 だいたい「九世紀の方に似つかわしい官能主義」なら、二十世紀初頭に、わざわざ書く必要はないだろう。いま必要だからこそ、カヴァフィスは書いた。人は必要ではないものを書いたりはしない。


カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イングマール・ベルイマン監督「野いちご」

2019-03-17 08:28:03 | 映画
イングマール・ベルイマン監督「野いちご」(★★★★★)

監督 イングマール・ベルイマン 出演 ビクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン

 ベルイマン生誕 100年。デジタル版の上映。
 私が「野いちご」を見たのは大学生のとき。当時、毎日新聞社が「名画シアター」のような催しをやっていた。ぼんやりした記憶だが、半年 500円で毎月1本の上映。小倉の井筒屋(デパート)ホールが会場。1本あたり 100円以下の料金、しかも毎回はがきで連絡が来るという、信じられない企画だった。でもさすがに、これでは赤字がかさむだけということなのだろう。私が見始めて2年しないうちに打ち切りになったと思う。
 私はそのころ映画を見始めたばかりで、まだ映画の何を見ていいのかもわからずに、ただ見ていた。老人が夢見ているだけの、奇妙な映画という印象しかなかった。
 今回見直して、あ、すごい、とただただ驚いた。
 モノクロがとても美しかった。とくに最初の夢の白と黒の対比が強烈だ。主人公の顔が、建物の内部の闇(影)をバックに浮かび上がるシーンは鮮烈だ。影だから、実際は光はあるのだが、光を消してしまって闇にしている。無にしてしまっている。無といっても、日本人(東洋人)が考えるような、すべての存在を生み出す前の渾沌というのではなく、ほんとうに何もない、拒絶としての無。その無の中に存在する人間、という印象が強烈だ。
 ストーリーとしては、老人(大学教授)の「夢」をつないでいるだけである。ロードムービーと組み合わせているところが、とても斬新である。なんといってもすごいのは、「グリーンブック」のような、あるいは「最強の二人」のような結末がないことだ。単に一日が終わったというだけだ。いまでも、誰かがこの手法で取ったらびっくりすると思う。移動は、登場人物をまきこむための「方便」にすぎない。
 車の移動の途中で、場所が変わり、登場人物(脇役)が変わる。ある意味では脈絡がないのだが、脈絡がないだけに、登場してくる人間の姿がくっきりする。ストーリーにとらわれることがない。ストーリーなんてないのだ。人間が生きている、存在しているということ自体の中に究極のストーリーがある。生きている意味は、それぞれの人間の中にしかない。共有などできない。共有できない「存在としての人間」がいるだけだ。
 このストーリーのない展開の中で、では、何が起きるのか。
 女の感情が、肉体を突き破って出てくる。男(主人公)はそれに翻弄される。女の欲望の強さに男がついていけない。主人公は女に裏切られ続ける。恋人は別の男を選び、妻は別の男とセックスをする。それを主人公は見てしまう。そして、何もできない。
 神は存在するか、存在しないか、というような議論も持ち込まれる。そういうことを話すのは男なんだけれどね。
 で。
 こういう展開の中で、主人公は何を見たことになるのだろうか。夢と思い出がいりまじりながら一日が過ぎていくとき、主人公は恋人や妻の裏切りを見ただけなのか。あるいは主人公が見たのは、女たちではなく、何もできなかった自分自身だったのか。ほんとうに生きているのは、女たちなのか、男の私のなのか。妻が死んでいるだけに、そんな疑問も浮かび上がってくる。
 これは、こう言い換えることもできる。
 誰かが何かを語るとき、それは対象について語っているか、それとも自分自身を語ることになるのか。
 見終わると、突然、そういう「哲学的」というか、「文学的」というか、強い「問い」を突きつけらる。
 まあ、こういうことは、「答え」を出さなくてもいい。衝撃を受けたという「事実」さえ、肉体に残ればいいことだと私は思っているのだが。
 それにしても。
 ベルイマンの描く女はなまなましい。肉体を突き破って感情がむき出しになる。映画なのだから、そこまでむき出しにしなくても感情がわかるのだが、ベルイマンは逆に考えているのかもしれない。映画なのだから、単に感情を動かすのではなく、肉体がスクリーンからはみ出すくらいに描かないと、映画にする意味がない。観客が耐えられなくなるくらいでないとだめ。観客の網膜を突き破って、観客の肉体に侵入していく、というところまで求めているのかもしれない。「役」を見せているのではなく、「女」そのものを見せている。だから、「そんな感情をぶつけられても、私はあなたの男ではない」と言いたくなる。こんな演技というか、「むき出しの感情」を監督から求められたら、女優はたいへんだ、と思ってしまう。
 というようなことも二十歳になるかならないかの大学生のときは、わからなかったなあ。
 (2019年03月16日、KBCシネマ2)

野いちご <HDリマスター版> 【DVD】
クリエーター情報なし
キングレコード
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする