詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「新たな皇室像」

2019-03-25 15:56:49 | 自民党憲法改正草案を読む
「新たな皇室像」
             自民党憲法改正草案を読む/番外249(情報の読み方)

 2019年03月25日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の社会面。

新たな皇室像 兄弟で/秋篠宮さま 公務支え

 という見出しで秋篠宮の活動を紹介している。それによると、

昨年の(皇太子)ご夫妻での公的な外出は皇室行事を含め24件を数えたが、秋篠宮ご夫妻は54件に上った。

 単に「事実」が書いてあるように見える。秋篠宮が皇室活動を影で(?)支えているという具合に読めるが、私は「深読み(誤読)」をする。
 秋篠宮へ国民の視線をあつめる(秋篠宮を重視する)という姿勢は、NHKの「天皇生前退位意向」の報道以来、一貫してつづいている。この背景には安倍の「意向」が隠れている。
 天皇「強制」生前退位(と、私は「強制」ということばを補って見ている)は安倍によって仕組まれたものであり、安倍の狙いは、秋篠宮を飛び越して悠仁を「摂政」につかせ、安倍の独裁を完成させることだ。
 天皇の「公務」は夫妻でやるのが原則。皇太子の場合、夫妻での活動には無理が生じることがある。昨年の実績では、皇太子夫妻は秋篠宮夫妻にくらべて半分しか活動していない。
 だから、皇太子が「天皇」をつとめるのは、無理。
 かといって、秋篠宮に交代させるというのは、やはりむずかしい。
 一気に秋篠宮を飛び越して、「摂政」という形で悠仁を担ぎだす。
 悠仁天皇(摂政)を誕生させたのは、安倍だ、ということを国民に印象づけ、独裁を正当化する。
 これが最初からの狙いだろう。
 そのためには、もちろん秋篠宮も利用できるだけ利用する。NHKのスクープも、秋篠宮と親しいNHKの記者経由という「噂」が流れたが、そのころから「裏工作」をしていたのだ。利用していたのだ。安倍主導の「強制生前退位」ではない、というための隠蔽工作である。
 皇太子と秋篠宮の違憲の対立(齟齬?)のような報道も、安倍がどこかで「操作」しているのだろう。
 読売新聞は、

 発言に慎重な兄と率直な弟。天皇、皇后両陛下は、兄弟が比較や対立の構図で見られることを懸念されていると言う。(略)ある政府関係者は「秋篠宮さまの不規則発言は懸念材料の一つだ」という。ただし、秋篠宮さまの30年に及ぶ活動の重みもよく理解している。

 と書いている。「秋篠宮さまの30年に及ぶ活動の重みもよく理解している」の「主語」は「ある政府関係者」なのだろうが、はっきりしない。「主語」を明示しないことで、「国民が」「理解している」という解釈が成り立つように、つまり、そういう考えを誘導するような書き方でもある。
 「兄と弟」というのは、新聞としてはかなりかわった「表現」だと思う。普通なら、

発言に慎重な「皇太子」と率直な「秋篠宮」。天皇、皇后両陛下は、「ふたり」が比較や対立の構図で見られることを懸念されていると言う。
 
 という書き方になると思う。「兄と弟」というような表現も、「天皇生前退位」と同じように「誰か」が用意したものなのだろう。
 昭和天皇、いまの天皇の「兄弟関係」についての報道でも、「兄の昭和天皇」「兄の(いまの)天皇」という言い方は、しないだろう。昭和天皇の「弟の〇〇宮」、天皇の「弟の〇〇宮」とは言っても、天皇に「兄の」とう形容詞はつかないだろう。「唯一無二」の存在なのだから、形容詞はいらない、というのが「日本語の経済学」である。
 私は天皇制というばかげた制度はなくなればいいと思っているが、そういう私でさえ「兄の〇〇天皇」ということばは思いつかない。天皇を支配するのはおれだ、と思っている誰かしか思いつかないことばだろう。
 「誰か」というのは、もちろん安倍サイドである。この「誰か」は「生前退位」報道のときもそうだが、有頂天になった瞬間、日本語の常識を逸脱する。(「生前退位」は皇后が誕生日に、そういうことばは聞いたことがなく胸を痛めたというまで、マスコミに流れ続け、皇后の発言以来、ばっと消えた。ミスに気づいた「誰か」がつかわないように指示したということだろう。)

 読売新聞は、また、こういうことも書いている。

 代替わりの後の「兄が天皇、弟が皇位継承順位1位の皇嗣」という後世は「父が天皇、長男が皇太子」という流れがつづいた明治以後の天皇制で初めてのことだ。

 私は歴史を知らないからわからないが、明治以前はどうたったのか。なぜ「明治以後」に限定して天皇制を見ないといけないのか。継承権が「1位」「2位」ときまっているなら、特に「皇嗣」というような呼び方もいらないと思うが、なぜわざわざそう呼ぶことにしたのか。そういうことも、私は疑うのである。
 だいたいいまの天皇が即位するとき、だれが「新たな皇室像 兄弟で」などと言っただろうか。「兄弟で」ということばを持ち出してくる限りは、そこに「弟重視」の視点があると見なければならない。
 皇太子が天皇の間に、法律を改正し、「女性天皇」を誕生させるよう制度をととのえることもできる。そういうことを封印しようとする人間が背後にいて、それが「兄弟」を全面に出し、その延長に「悠仁天皇」を思い描いていると想定する必要がある。

 自民党総裁「安倍3選」からまだ1年もたっていないが、すでに「4選」の話まで出ている。安倍は絶対に「悠仁天皇」まで居すわる。独裁のためなら、なんでもする。そう思って、安倍の行動を見守る必要がある。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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戸田ひかる監督「愛と法」

2019-03-25 13:57:36 | 映画
戸田ひかる監督「愛と法」(★★★★)

監督 戸田ひかる 出演 南和行、吉田昌史、南ヤヱ、カズマ、ろくでなし子

 大阪の弁護士夫夫(ふうふ)の活動を描いている。
 二人が担当した担当している訴訟が取り上げられる。女性性器を題材に作品をつくっている女性、擁護が必要な子ども、君が代斉唱のとき起立しなかった教師、無国籍のひと……。なぜ、ひとは自分がしたいことをできないのか。自分がしたいことをするのは罪なのか。
 彼らが抱える問題は、私には直接関係がない。
 と、言ってしまうと、そこでおしまい。
 ほんとうに関係がないのか、実は、わからない。でも、自分がしたいことができないと苦しみ悩んでいるひとがいるということ、そしてそのひとたちがしたいことをできないようにしている社会があるということは、ゆっくり考えてみる必要がある。
 私のしていることも、「それはしてはいけない」と突然言われるかもしれない。たとえば、こうやってブログに感想を書いていること。自分が思ったことを思ったままに書いているだけに、なぜ、いけない?
 たとえば。
 私は安倍の進める改憲に反対している。そういう考えをブログに書き続けた。本を出した。新聞のインタビューに答えたり、映画で自分の意見を言ったりした。このとき、私の務めている会社の「許可」が必要だった。本の内容もチェックされた。会社名を出すわけでもないのに。許可はされたけれど、こういうことも、窮屈な感じがする。
 そういうことが周囲にもわかるから、映画の上映会をするときもいろいろたいへんだった。手伝ってくれる仲間もいたが、なかなか観客を集められない。安倍批判をしているひとも、実際に上映会にまでは来てもらえない。いろいろな事情があるのだろうけれど、どこかで会社の視線を意識している。
 別の活動をしているひとも、「会社には知られたくない」と、会社の視線を気にしていた。その人が正しいと思っていることを仲間といっしょにしているだけなのだけれど。
 映画の中に「空気を読む」ということばが出てきたが、「空気を読んで、まわりのひとにあわせる」。そういうことが、じわりじわりと、ひとりひとりの生き方を窮屈にしてくる。
 ここから映画に戻る。
 そういう「窮屈さ」をはねのけようとして生きているひとに、ふたりは寄り添っている。その寄り添い方が、とても自然だ。相談を持ちかけられている弁護士なのだから、関係者に対して怒ったりしてはいけないのだろうけれど、怒りもする。自分の生活をふりかえって泣いたりもする。そうやって生きながら、助けを求めるひとのために何ができるか、社会はどうあればいいのかを、語るというよりも、そういう社会へ向けて自分の肉体を動かしていく。その感じがとてもいい。
 行き場をなくして、突然二人の家にころがりこんできた少年(青年といった方がいいかも)の態度がとてもいい。ふたりの生き方を、そのまま、そこにあるように受け入れている。二人の生き方はかわっているわけではない。「自然(あたりまえ)」と思っている。彼にとって必要なのは、ただ「受け入れてくれる」ひとだったことがわかる。ひとはだれでも、自分を受け入れてくれるひとを求めている。求められたら、そして求められていることに対して自分ができることがあるなら、それをすればいい。もちろん、できなければ、できないといえばそれでいいだろう。だれひとり、無理なことはしていない。
 登場してくるひとたちを見ていると、無理をしているのは、彼らを拒んでいる社会かもしれないと思えてくる。
 君が代斉唱のとき椅子に座った教師の同僚(たぶん)たちの反応が、端的だ。「起立するように決まってるから、起立したらいいじゃないか」。多くのひとがそう思うだろうけれど、このとき、「自分は起立したかったのか」どうかを問いかけてみるとわかる。「君が代が大好き。だから立って歌いたい」と思っていたかどうか。ほんとうに、そうならそのひとは歌えばいい。ほんとうにそう思うなら「君が代は嫌い。だから立たない」というひとの気持ちもわかるだろう。でも、好きか嫌いか自分で答えを出さずに、嫌いというひとに「起立して斉唱するのは決まり」というのは、もしかすると、どこかで無理をしているのかもしれない。校長からにらまれたらいやだな、とかね。
 小さな小さな判断かもしれない。でも、その小さなことが少しずつ積み重なってくる。それが窮屈な社会をつくっているのだとしたら、小さな小さなことを少しずつはね返していくことが自由につながる。そう感じさせるとてもいい映画だった。

 映画の前に、弁護士がこの映画について少し紹介した。
 気になったことがある。LGBTについて説明するとき、一部で「男性なのに女性のこころをもったひと(女性なのに男性のこころをもったひと)」というようなことばをつかった。一般的に、そういう言い方をするのだが、もうやめた方がいいのではないだろうか。
 「男性のこころ」「女性のこころ」というものは、ない。
 あるのは「自分のこころ」だけである。
 この映画に登場するひとたちも、だれひとりとして「男性のこころ」「女性のこころ」を主張していない。「自分のこころ」を主張している。
 「肉体」は生物学的な特徴から「男/女」に分けることができる。けれど「こころ」はそういう具合には分けることができない。「こう感じるのが男のこころ(女のこころ)」というのは「社会制度」と関係がある。「こころ」に一定の型を押しつけてくるものをはね返し、「自分」(ひとりひとり)のこころのために生きていくことを大切にしたい。
 弁護士には、「ひとり」であることを応援する仕事をしてほしいと思った。
 ちょっと話がかわるけれど。映画に戻るけれど。
 映画の中にいろいろな音楽が流れる。そのうちの一部は、主役の弁護士が自分でつくったもの。そして、自分で歌っている。この歌、へたくそです。でもね、それがいい。自分に歌いたいことがある。だから歌う。ミュージックビデオみたいなものもつくる。これはプロ(?)が加わってくるので、映像はなかなか見栄えがする。これもいい。みんな自分のできることをしている。自分のできることに対しては手を抜かない。下手であろうがなんであろうが、真剣。それが自分。できあがったビデオを見ながら、本人は「いいじゃないか」と思って見ている。連れ合いも「ほーっ」という感じで見ている。幸せというのは、こういうときに生まれてくる。他者を受け入れながら、ひとりひとりが自分のできることを手を抜かずに生きていく。そのみんなのしてきたことが、寄り集まって、いままでなかったものがふっと生まれてくる。その瞬間が、幸せ。
 「自分」がいきている人間を見る。それが映画。映画の本道をあるいている映画です。見てください。
 (2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
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池澤夏樹のカヴァフィス(96)

2019-03-25 13:53:14 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
96 亡命したビザンティンの一貴紳が詩を作る

 散文的なタイトルの詩の最後も散文的だ。

神話を材に取り、ヘルメスやアポローン、
ディオニュソスや、テッサリアと
ペロポネソスの英雄たちを相手に楽しむ。
わたしは厳密きわまる強弱格を構築するが、
--はっきり申せば--コンスタンティノポリスの
学者どもはこの構築法を知らぬ。
この厳密さがおそらく彼らの不興を買った理由であろう。

 「学者どもはこの構築法を知らぬ。」がおもしろい。カヴァフィスは彼の詩をささえている「厳密きわまる」ことばの「構築法」が学者に理解されないと間接的に言っているのかもしれない。そのとき、「構築法」ではなく「厳密さ」に焦点を当て直しているところが特におもしろい。学者は「構築法」は知っている。でも、それを「厳密に」つくることはできない。大切なのは「構築法」ではなく「厳密さ」なのだ。「構築法」は学ぶことができる。しかし、それを「厳密」に動かすというのは簡単には学べない。力量のさが「厳密さ」にあらわれる。

 池澤の詩の主人公についての註釈。

 これは架空の人物とするか否か、判断は微妙である。つまり、彼を東ローマ帝国の皇帝ミカエル七世と見ることは不可能ではなく、あるいはミカエル七世に触発された架空の人物とする方が自然ともとれる。

 後者はそのままカヴァフィスということになるし、ミカエル七世であったとしてもミカエル七世自身が詩を書いているわけではないから、その場合も後者になる。








カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455


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