詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

南野森「憲法学者が弁護士に期待すること」

2019-03-24 20:27:57 | 自民党憲法改正草案を読む
南野森「憲法学者が弁護士に期待すること」(2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
 南野森・九州大学法学部教授の講演、「憲法学者が弁護士に期待すること」を聞いた。福岡県弁護士会館・新会館開館記念講演である。弁護士が対象の後援会なのかもしれないが、一般市民にも開放されていた。

 聞きながらいくつか疑問に思ったことがある。私は学者でも弁護士でもないから、「論理の完結性」とは無関係に自分の考えを書く。
 三点、気になった。
(1)
 南野が日本の憲法(特に改正問題)に注目するようになったのは2013年の安倍発言からと語った。安倍が「憲法96条」を改正したいと言った。そのとき憲法学者は右から左まで、こぞって反対した。「裏口入学」のような手法だ、というのがそのときの批判の「根拠」である。
 これは、私も、そう思う。
 しかし、この南野が憲法に関わるようになった契機の、安倍の主張のどこに問題があるのか、南野は語らなかった。学者の右から左までがこぞって反対したので、気になった、というのでは、「時流に乗り遅れる」のを恐れただけという気がする。
 何が問題なのか。
 私は、そのときの安倍の発言を把握していないので、明確なことは言えないが、2012年の自民党の「改憲草案( 100条)」と「現行憲法(96条)」を比較すると問題点(裏口入学の手法)がよくわかる。

「改正草案」
100条 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体であるものとして、直ちに憲法改正を公布する。

「現行」
96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 改正草案のどこが問題か。
(1)発議するときの「条件」がとても緩い。憲法改正のハードルがとても低く設定されている。現行憲法には「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し」とあるが、草案は「衆議院又は参議院の議員の発議に基づき」としか書かれていない。発議者がひとりであってもかまわない。これでは、いつでも発議できることになる。
(2)「国民投票」の前に「国会が議決し」という手順があるのも問題だ。「議決」は国民の意見を誘導する。「議決されたもの」を「承認する」のと、「発議されたもの」を国民が投票で賛否を表明するというのでは、判断の自由度が決定的に違う。
 こういうことはそのとき「反対」を表明した憲法学者や弁護士には分かりきったことかもしれないが、講演を聞きに来た一般市民が熟知しているとは思えない。6年も前のことだから、忘れているかもしれない。
 南野が何を問題と考えたのかわからない。

(2)
 南野は憲法は一般の法律の違いについて、一般の法律には罰則があるが、憲法には罰則がない、と説明した。道路交通法を守らなければ罰則があるが、違憲行為をしても罰則はない。これでは、「法」を「違反者を罰するもの」という定義にならないか。
 弁護士はどう考えるのかわからないが、私は、この定義に非常に疑問を感じる。
 私の感覚では、法は弱者を守るためのもの(強者の暴力を間接的に防ぐもの)だ。交通法規を守らない。そのために被害者が出る。そのとき被害者の権利を保障するのが法律であり、その保障の一貫として加害者への罰則がある。青信号で横断しているひとをはねて怪我をさせた場合は、信号を守らなかった車の運転者に対して罰則がある。歩行者は車より弱い。その弱い人間を守るためのものである。
 憲法も、国家の方が個人よりも強い。だから、その国家が個人の権利を侵害しないようにする、国家権力を拘束するというのが基本的な考えではないのか。
 国家権力への「罰則」については、選挙という手段で国民は対抗できるだろう。実際にはさまざまな制約があって、実現はむずかしいかもしれないが、理論的には、私たちは安倍政権を退陣させる力を持っている。自民党に投票しなければ、自民党政権は崩壊する。「国民主権」の論理からは、そうなるはずである。
 憲法違反に対する罰則は「落選」である。
 現行憲法の99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。「国会議員」を私たちは落選させることができる。

(3)
 南野は「憲法を守るのは誰か(守らせるのは誰か)」について語るとき、12条を引用した。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
 そして、憲法と国民との距離を縮めるために、弁護士には先頭に立ってもらいたい、というようなことを言った。「弁護士に期待すること」を、そう要約(結論?)した。
 私には、南野の言った「意味」が理解できなかった。言い換えると、南野が「国民の不断の努力」をどう理解しているかがわからなかったということである。
 12条は「第3章 国民の権利及び義務」に書かれている。国歌が国民の権利を侵害するということが起きないようにするために、国民は「選挙権」を行使し、そうすることで国家をきびしく監視する義務がある、ということだろう。
 統一選が始まったばかりだ。せめて「選挙権」と「国家」との関係について、一言でいいから語ってほしかったと思う。憲法学者や弁護士が、候補者や政策について何かを語るというのではなく、国民には力と権利があるということを語ってほしかったと思う。
 力を持っているのは、国家(国会議員)でも、学者でも、弁護士でもない。ひとりひとりの人間である。個人の権利(力)を保障するのが憲法であると、素人は、憲法について考える。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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スパイク・リー監督「ブラック・クランズマン」(★★★★★)

2019-03-24 10:39:36 | 映画
スパイク・リー監督「ブラック・クランズマン」(★★★★★)

監督 スパイク・リー 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、アダム・ドライバー

 スパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」を見たときの衝撃を忘れることができない。私がいかに黒人差別に加担していたかを知らされた。ハリウッド映画の描かれる「黒人像」をそのまま受け入れていたにすぎないかを知らされた。
 というような抽象的なことを書いてもしようがない。
 私は、その映画の中のアフリカ系アメリカ人の「家庭」にびっくりした。美しく整っている。乱雑さ、だらしなさと無縁である。考えてみれば、これは当然のことだ。ひとは誰であれ、自分の暮らしている場所は美しく整えたい。その方が気持ちがいい。つかいやすい。それだけなのだ。それだけなのに、こういうあたりまえを、私は忘れていた。
 この「あたりまえ」を、私はこの映画でも教えられた。
 ジョン・デビッド・ワシントンが警官になりたくて、警察に面接試験を受けに行く。その試験を署長(白人)とアフリカ系アメリカ人(肩書は聞き漏らした。それまでアフリカ系の警察官はいないというのだから、警察以外の職員かも)が担当する。このときの面接のやりとり(内容)がとても自然だ。差別の問題(きっといやなことに直面するだろう)というような指摘や、それに対してどうするつもりか、というようなことが、たんたんと進んでゆく。試験をする方も受ける方も、なんといえばいいのか、「わきまえ」を守っている。必要最小限、しかし必要不可欠なことは、そのなかできちんと処理されている。これは、どこにでもある世界だ。「どこにでもある」を「どこにでもある」ままに、スパイク・リーは描く。
 この映画でおもしろいのは、この「どこにでもある/わきまえ」が、しかし、なかなか「曲者」であるということだ。
 クライマックスというより、ハイライトか。ジョン・デビッド・ワシントンがKKKのトップを護衛することになる。ジョン・デビッド・ワシントンにしてみれば、潜入捜査でたどりついた大物、逮捕したい男なのになぜ護衛をしなければならないのか、という気持ちがあるだろう。一方、護衛される方にしても、殺してしまいたいと思っているニガーが護衛だなんて、頭に来る、という気持ちだろう。でも、KKKは秘密。「アソシエーション(団体)」の代表にすぎない。警官がニガーだからというので異議を唱えれば秘密がばれてしまう。受け入れるしかない。記念撮影も、肩を抱かれたことも、ぐっとがまんして受け入れるしかない。警官を殴れば、その場で公務執行妨害で逮捕される。ほかの仲間も同じだ。隠し続けるしかない。
 さらに、さらりと描かれているが、このパーティーのために仕事を求めてきたひとのなかにはアフリカ系のひともいる。「こんな差別的な団体だと知っていたら応募しなかった」というようなことを語り合っているが、彼らにしても、その思いを語り、即座に行動するということはできない。
 ここが問題。ここが、じつは一番恐いところだ。
 不満はいつも抑圧され、いつも差別は隠れている。隠れているというよりも、いつも隠されている。差別主義者は、差別を隠すことを知っている。
 これは取り締まる側にも言える。KKKの組織をつかんだ。けれども、それを摘発してしまうことはできない。この映画では、狂信的な夫婦の「爆弾テロ」が事件として処理されるだけだ。(映画では、明確に描かれていないが。)KKKが存在し、活動しているということは、公表されない。住民の不安をあおるからだ。
 すべては隠される。だからこそ、その後も差別は繰り返される。思い出したように、噴出してくる。事件はなくならない。映画の最後に流れる「現実のニュース」がそれを語っている。それは個人の反抗なのか。隠れた組織の指示によるものなのか。問題はそれだけではない。直接的な攻撃はしないが、「排除」という暴力がすすめられることがある。「アメリカ・ファースト」という主張そのもののなかには、暴力はないように見えるが、「排除」が隠蔽されている。
 隠されているものを、どうやって明るみに出すか。それとどう向き合うか。
 あ、これはジョン・デビッド・ワシントンの「潜入捜査」そのものだね。ストーリーがテーマそのものとなっている。巧みな脚本だ。
 (2019年03月23日、KBCシネマ1)

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池澤夏樹のカヴァフィス(95)

2019-03-24 10:34:38 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
95 アンナ・コムネナ

 カヴァフィスの詩のおもしろさは、言いなおしと繰り返しにある。

しかし、真相を言えば、この権力欲の強い女性は
一つしか重要な悲しみを知らぬように思われる。
(自分では認めなくとも)この高慢なギリシャ女は
ただ一つの焼けつく苦しみしか知らなかった。
すなわち、狡知の限りをつくして
帝位を手中に収めんとしたのに、あと僅かのところで
厚顔なイオアニスに取りかえされてしまったこと。

 「権力欲の強い女性」は「高慢なギリシャ女」と言いなおされ、「一つしか重要な悲しみを知らぬように思われ」は「一つの焼けつく苦しみしか知らなかった」と言いなおされる。そして、この繰り返しを経ることで「ように思われる」ということばは消え、断定に変わる。
 ことばは繰り返すと、それがどんなことであっても「事実」になる。こころにとっての「真実」と言った方がいいのかもしれないが、ことばは共有されるものだから「事実」の方が正しいだろう。
 この不思議な魔術を、カヴァフィスは「音楽」の力を借りて実現する。
 「重要な悲しみ」が「焼けつく苦しみ」になったあと、「帝位を手中に収めんとしたのに、あと僅かのところで/厚顔なイオアニスに取りかえされてしまったこと」とことばが変化するとき、それはアンナ・コムネナの心理描写というよりも、読んでいる私のこころに変わる。アンナ・コムネナもイオアニスに知らないのに、怒りと憎しみが肉体の奥から沸き起こってくる。「あの厚顔なやつめ」「ああ、くやしい」。そういう「声」が自分の肉体の中から沸き上がってくる。

 池澤は、こう書いている。

ギボンは彼女について「紫衣の位に在りながら修辞学や哲学などの造詣が深かった」と書いている(『ローマ帝国衰亡史』第五三章)。

 私は歴史に対する感覚がおかしいのかもしれないが、カヴァフィスの詩を読んだあと、ギボンへと読み進み、アンナ・コネムナがどういう人間か知りたいとは思わない。この詩で充分だ。むしろアンナ・コネムナを離れ、権力指向の強い女、さらには権力指向しかできない男の精神へと、いま、ここにいる「人間」へと目が動いていく。








カヴァフィス全詩
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