南野森「憲法学者が弁護士に期待すること」(2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
南野森・九州大学法学部教授の講演、「憲法学者が弁護士に期待すること」を聞いた。福岡県弁護士会館・新会館開館記念講演である。弁護士が対象の後援会なのかもしれないが、一般市民にも開放されていた。
聞きながらいくつか疑問に思ったことがある。私は学者でも弁護士でもないから、「論理の完結性」とは無関係に自分の考えを書く。
三点、気になった。
(1)
南野が日本の憲法(特に改正問題)に注目するようになったのは2013年の安倍発言からと語った。安倍が「憲法96条」を改正したいと言った。そのとき憲法学者は右から左まで、こぞって反対した。「裏口入学」のような手法だ、というのがそのときの批判の「根拠」である。
これは、私も、そう思う。
しかし、この南野が憲法に関わるようになった契機の、安倍の主張のどこに問題があるのか、南野は語らなかった。学者の右から左までがこぞって反対したので、気になった、というのでは、「時流に乗り遅れる」のを恐れただけという気がする。
何が問題なのか。
私は、そのときの安倍の発言を把握していないので、明確なことは言えないが、2012年の自民党の「改憲草案( 100条)」と「現行憲法(96条)」を比較すると問題点(裏口入学の手法)がよくわかる。
「改正草案」
100条 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体であるものとして、直ちに憲法改正を公布する。
「現行」
96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
改正草案のどこが問題か。
(1)発議するときの「条件」がとても緩い。憲法改正のハードルがとても低く設定されている。現行憲法には「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し」とあるが、草案は「衆議院又は参議院の議員の発議に基づき」としか書かれていない。発議者がひとりであってもかまわない。これでは、いつでも発議できることになる。
(2)「国民投票」の前に「国会が議決し」という手順があるのも問題だ。「議決」は国民の意見を誘導する。「議決されたもの」を「承認する」のと、「発議されたもの」を国民が投票で賛否を表明するというのでは、判断の自由度が決定的に違う。
こういうことはそのとき「反対」を表明した憲法学者や弁護士には分かりきったことかもしれないが、講演を聞きに来た一般市民が熟知しているとは思えない。6年も前のことだから、忘れているかもしれない。
南野が何を問題と考えたのかわからない。
(2)
南野は憲法は一般の法律の違いについて、一般の法律には罰則があるが、憲法には罰則がない、と説明した。道路交通法を守らなければ罰則があるが、違憲行為をしても罰則はない。これでは、「法」を「違反者を罰するもの」という定義にならないか。
弁護士はどう考えるのかわからないが、私は、この定義に非常に疑問を感じる。
私の感覚では、法は弱者を守るためのもの(強者の暴力を間接的に防ぐもの)だ。交通法規を守らない。そのために被害者が出る。そのとき被害者の権利を保障するのが法律であり、その保障の一貫として加害者への罰則がある。青信号で横断しているひとをはねて怪我をさせた場合は、信号を守らなかった車の運転者に対して罰則がある。歩行者は車より弱い。その弱い人間を守るためのものである。
憲法も、国家の方が個人よりも強い。だから、その国家が個人の権利を侵害しないようにする、国家権力を拘束するというのが基本的な考えではないのか。
国家権力への「罰則」については、選挙という手段で国民は対抗できるだろう。実際にはさまざまな制約があって、実現はむずかしいかもしれないが、理論的には、私たちは安倍政権を退陣させる力を持っている。自民党に投票しなければ、自民党政権は崩壊する。「国民主権」の論理からは、そうなるはずである。
憲法違反に対する罰則は「落選」である。
現行憲法の99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。「国会議員」を私たちは落選させることができる。
(3)
南野は「憲法を守るのは誰か(守らせるのは誰か)」について語るとき、12条を引用した。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
そして、憲法と国民との距離を縮めるために、弁護士には先頭に立ってもらいたい、というようなことを言った。「弁護士に期待すること」を、そう要約(結論?)した。
私には、南野の言った「意味」が理解できなかった。言い換えると、南野が「国民の不断の努力」をどう理解しているかがわからなかったということである。
12条は「第3章 国民の権利及び義務」に書かれている。国歌が国民の権利を侵害するということが起きないようにするために、国民は「選挙権」を行使し、そうすることで国家をきびしく監視する義務がある、ということだろう。
統一選が始まったばかりだ。せめて「選挙権」と「国家」との関係について、一言でいいから語ってほしかったと思う。憲法学者や弁護士が、候補者や政策について何かを語るというのではなく、国民には力と権利があるということを語ってほしかったと思う。
力を持っているのは、国家(国会議員)でも、学者でも、弁護士でもない。ひとりひとりの人間である。個人の権利(力)を保障するのが憲法であると、素人は、憲法について考える。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
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南野森・九州大学法学部教授の講演、「憲法学者が弁護士に期待すること」を聞いた。福岡県弁護士会館・新会館開館記念講演である。弁護士が対象の後援会なのかもしれないが、一般市民にも開放されていた。
聞きながらいくつか疑問に思ったことがある。私は学者でも弁護士でもないから、「論理の完結性」とは無関係に自分の考えを書く。
三点、気になった。
(1)
南野が日本の憲法(特に改正問題)に注目するようになったのは2013年の安倍発言からと語った。安倍が「憲法96条」を改正したいと言った。そのとき憲法学者は右から左まで、こぞって反対した。「裏口入学」のような手法だ、というのがそのときの批判の「根拠」である。
これは、私も、そう思う。
しかし、この南野が憲法に関わるようになった契機の、安倍の主張のどこに問題があるのか、南野は語らなかった。学者の右から左までがこぞって反対したので、気になった、というのでは、「時流に乗り遅れる」のを恐れただけという気がする。
何が問題なのか。
私は、そのときの安倍の発言を把握していないので、明確なことは言えないが、2012年の自民党の「改憲草案( 100条)」と「現行憲法(96条)」を比較すると問題点(裏口入学の手法)がよくわかる。
「改正草案」
100条 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体であるものとして、直ちに憲法改正を公布する。
「現行」
96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
改正草案のどこが問題か。
(1)発議するときの「条件」がとても緩い。憲法改正のハードルがとても低く設定されている。現行憲法には「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し」とあるが、草案は「衆議院又は参議院の議員の発議に基づき」としか書かれていない。発議者がひとりであってもかまわない。これでは、いつでも発議できることになる。
(2)「国民投票」の前に「国会が議決し」という手順があるのも問題だ。「議決」は国民の意見を誘導する。「議決されたもの」を「承認する」のと、「発議されたもの」を国民が投票で賛否を表明するというのでは、判断の自由度が決定的に違う。
こういうことはそのとき「反対」を表明した憲法学者や弁護士には分かりきったことかもしれないが、講演を聞きに来た一般市民が熟知しているとは思えない。6年も前のことだから、忘れているかもしれない。
南野が何を問題と考えたのかわからない。
(2)
南野は憲法は一般の法律の違いについて、一般の法律には罰則があるが、憲法には罰則がない、と説明した。道路交通法を守らなければ罰則があるが、違憲行為をしても罰則はない。これでは、「法」を「違反者を罰するもの」という定義にならないか。
弁護士はどう考えるのかわからないが、私は、この定義に非常に疑問を感じる。
私の感覚では、法は弱者を守るためのもの(強者の暴力を間接的に防ぐもの)だ。交通法規を守らない。そのために被害者が出る。そのとき被害者の権利を保障するのが法律であり、その保障の一貫として加害者への罰則がある。青信号で横断しているひとをはねて怪我をさせた場合は、信号を守らなかった車の運転者に対して罰則がある。歩行者は車より弱い。その弱い人間を守るためのものである。
憲法も、国家の方が個人よりも強い。だから、その国家が個人の権利を侵害しないようにする、国家権力を拘束するというのが基本的な考えではないのか。
国家権力への「罰則」については、選挙という手段で国民は対抗できるだろう。実際にはさまざまな制約があって、実現はむずかしいかもしれないが、理論的には、私たちは安倍政権を退陣させる力を持っている。自民党に投票しなければ、自民党政権は崩壊する。「国民主権」の論理からは、そうなるはずである。
憲法違反に対する罰則は「落選」である。
現行憲法の99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。「国会議員」を私たちは落選させることができる。
(3)
南野は「憲法を守るのは誰か(守らせるのは誰か)」について語るとき、12条を引用した。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
そして、憲法と国民との距離を縮めるために、弁護士には先頭に立ってもらいたい、というようなことを言った。「弁護士に期待すること」を、そう要約(結論?)した。
私には、南野の言った「意味」が理解できなかった。言い換えると、南野が「国民の不断の努力」をどう理解しているかがわからなかったということである。
12条は「第3章 国民の権利及び義務」に書かれている。国歌が国民の権利を侵害するということが起きないようにするために、国民は「選挙権」を行使し、そうすることで国家をきびしく監視する義務がある、ということだろう。
統一選が始まったばかりだ。せめて「選挙権」と「国家」との関係について、一言でいいから語ってほしかったと思う。憲法学者や弁護士が、候補者や政策について何かを語るというのではなく、国民には力と権利があるということを語ってほしかったと思う。
力を持っているのは、国家(国会議員)でも、学者でも、弁護士でもない。ひとりひとりの人間である。個人の権利(力)を保障するのが憲法であると、素人は、憲法について考える。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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