詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇51)Joaquinの作品

2020-05-03 18:14:48 | estoy loco por espana


スペインはコロナウィルスの「クアレンテーナ」から一部解放された。
それによせたホアキンの作品。
私は、こんなことを感じた。

ひとりが問う。
「私たちに何の罪があるだろう。
なぜ私たちは円でないのだろう」
ひとりが答える。
「わたしたちは完全ではない。
だから完全を夢みることができる」
ひとりが付け加える。
「わたしたちはつながる。
つながりはいつでも完全だ」
ひとりがよろこびの声を上げる。
「わたしたちは、ひとつの円ではない。
わたしたちはつながることで複数の円になる」
みんなが言う。
「わたしたちはひとりではない。
わたしたちは世界だ」


Una persona pregunta a una persona.
"Que pecado tenemos?
Por que no somos circulos? "
Una persona responde.
"No somos perfectos.
Por eso pdemos sonar con la perfeccion ".
Una persona agrega.
"Estamos conectados.
La conexion siempre es perfecta ".
Una persona habla alegremente.
"No somos un solo circulo.
Nos convertimos en multiples círculos al estar conectados ".
Todos dicen
"No estamos solos.
Somos el mundo "
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青柳俊哉「枯れ木」、池田清子「わからん」、徳永孝「おおとかげ」

2020-05-03 17:38:49 | 現代詩講座
青柳俊哉「枯れ木」、池田清子「わからん」、徳永孝「おおとかげ」(朝日カルチャー講座福岡、2020年04月06日)


枯れ木  青柳俊哉

光のうすい
池水の肌からつきだしている
一本の枝のない簡潔な枯れ木が
もとめているものは
空のうえにひろがる大きな光の感覚と
そこにいきている自身の
反映(よろこび)

そして
水と空中にふれている肌の感覚の 
空への
反照(てりかえし)である

 風景を見て、感覚が動く、意識が動く。それを、感覚的風景、意識的風景、つまり「心象風景」として言語化する。
 「意識」を中心に見ていけば。
 「反映」から「反照」へと意識が動いていく。「反映」を「よろこび」と読ませ、「反照」を「てりかえし」と読ませる。
 「枯れ木」は枯れてはいるが、死んではいない。生きている。だから「もとめる」という運動が起きる。まだ「動いている」(生きている)その自覚が「よろこび」である。
 それは同時に「空」からあたえられるもの。あたえられて生まれる。それは木の中にあると同時に、「空」にある。「空」にあるものが木に反映している。
 一連目で受け止めたものを、二連目で「空」に返す。だから「かえし」ということばが選ばれているのだろう。
 一方、感覚を中心に見ていけば、「光」と「水」と「木」と「空」は「簡潔」ということばのなかに集約する。最小限のものが最大限のものを語る。「一本」の枯れ木、「枝のない」枯れ木が、「大きな光」と一体になる。しかもその「光」は最初から「大きい」のではない。最初は「うすい」。言い直すと「微小」(小さい)。しかし、その「小さい(うすい)」光と木が一体になると、それは「大きな」もの、空そのものにある。「水面」と「空」をつなぐものとして(一体にするものとして)、一本の枯れ木がある。
 この一体感を、青柳は「ふれている(ふれる)」という動詞でつかみとる。たしかに「ふれる」とは何かに接続することである。接続の感じから、一体感がひろがっていく。
 これを「肌」ということばで具体化する。肌は「枯れ木」の肌であり、また青柳の肌である。
 「反照」は「てりかえし」と読ませるよりも、一連目の「反映」のように「感情」をあらわすことばとして読ませた方が、「一体感(感覚)」は官能的になって響くかもしれない。孤独の中にある官能が浮かび上がるかもしれない。
 しかし、それは青柳が書きたいものかどうかは、わからない。このことばの動きから、私は、そういうものも読んでみたいなあ、と感じた。



「わからん」  池田清子

昨日も
今日も
わからん を
彷徨ってる

 三行目が微妙だ。「わからん が」ではなく「を」。主語はほかにあるのだ。主語は何か。「わたし」と言い直すと、少し物足りない。「さまよう」感じが「論理的」になりすぎて、物足りない。
 私は「わからない」という意識が「わからない」という意識の中をさまよっていると読む。
 「わからん」は拒絶したい何かではない。むしろ求めている何かだ。「わからん」という人間のあり方、それを求めている。わからないから、生きる楽しみがある。生きる力が生まれる。「わかる」も大切だが、「わからない」を抱え込んで、「わからない」を生きることの方が、きっと「おもしろい」。
 これは実際に苦悩している人、困っている人には迷惑な話かもしれないが、文学は、しかし、こんな苦悩があるのか、こんな悲しみがあるのかということを、ことばで教えられることでもある。
 だから。
 悲劇の主人公が死ぬ。そのとき人は悲しむだけではなく、激しく感動してしまう。
 人殺しがある。残酷だ。でも、残酷といいながら、その描写を一字一句読んでしまう。読みとばしたりはしない。
 人間は、さまようことが好きな存在なのだろう。



おおとかげ  徳永孝

ぼくのへやにいる
ぬいぐるみのおおとかげ

いつもいっしょにいたいけど
みんながおどろくから
いつもは家にいてもらう

おまつりの時だけ
背おって出かけます

 「いつも」ということばが二度つかわれている。しかし、意味は微妙に違う。
 最初の「いつも」は「常時」と書き直すことができる。常時(いつも)いっょしにいたい。
 二度目の「いつも」は「普段」と書き直すことができるかもしれない。
 「普段」(いつも)と違う時間は、どういうときか。「おまつり」である。「おまつり」は祝祭。日常とは違う。「はれ」の日。そこでは何があってもいい。あるいは、いつも(普段)と違うことがあるから「おまつり」。
 「はれの日」。ひとは何を期待するか。「おどろき」を期待する。驚くことで「日常」からはなれる。違う世界を楽しむ。
 どのくらいの大きさのぬいぐのみなのか。わからないが、背負わないともっていけない大きさだ。それを背負って、「まつり」に行ってみたくなる詩だ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(47)

2020-05-03 10:49:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (死をたそがれの唄だといいながら)

ぼくはだれを訪ねようとしているのだろう
いままで冷たく固い扉に何度か手を触れた

 「冷たく固い扉」とは「遺体」の比喩か。遺体に対面したとき、どこに触れるだろうか。顔か、手か。「冷たく固い」は、逆に、嵯峨が「温かく、柔らかい」状態の肉体を知っているからこそ、生まれてくることばだ。
 そのとき、「扉」は開かれていた。いまは閉ざされている。このとき、自分で自分に問う「だれ」はもちろん名前ではない。そのひとの「温かさ」「柔らかさ」である。生きているとき、ひとにはぞれぞれ「固有」の「温かさ」「柔らかさ」がある。それをどんなことばで言い表わすことができるか。それを嵯峨は自分に問いかけている。

 もし固有のことばで言い表わすことができたなら、その人は永遠に嵯峨といっしょに生きる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どういう意味?

2020-05-03 09:35:07 | 自民党憲法改正草案を読む
どういう意味?
       自民党憲法改正草案を読む/番外346(情報の読み方)

 2020年05月03日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出しを読み、私は混乱した。何が書いてあるか、即座に理解できなかった。いや、内容は理解できたが、どうしてそういうことが起きるのかが理解できなかったと言い直さなければならない。

社会活動再開 容認へ/特別警戒都道府県除き/少人数イベントなど/政府原案

 6日で期限が来る「非常事態宣言」を「1か月程度延長する」というのが、きのうまでの方針であった。コロナ対策は「長丁場」になる、ということだった。
 「1か月延長するけれど、特別警戒都道府県は制限をゆるやかにする」というのは、おかしくないだろうか。いまでも、営業しているパチンコ店へ県境を超えて客が押し寄せ、問題になっている。「特別警戒都道府県」に住むパチンコ好きはみんな他県へパチンコをしに行くだろう。ほかの「社会活動」も同じだ。
 また、1面には、

コロナ 国内死者500人超

 とある。26面には、「東京 新たに160人感染」という記事と「ピークの4割減/1週間の都内感染」という記事が載っている。
 コロナ感染者、死者の推移はどうなっているのか。減っているのか。増えているか。判断しにくい。だからこそ、警戒するために、非常事態を「1か月延長」するのだと思っていたら、そうではない。東京でも「1週間単位」でみれば感染者は減っている。だから、規制緩和を、まず感染者の多くないところでやってみる、ということか。
 まるで、「実験」である。

 で、何のための実験? 人間のいのちがかかっているに、なぜ、そんな無謀な実験をする?
 1面の、つぎの見出しを手がかりになる。

憲法改正 賛成49%/「緊急事態」関心高まる/本社世論調査

 私は、こう考える。以下のように、一連の流れを詠む。
 安倍は、コロナ対策を「憲法改正」に利用したいのだ。しかも、その「利用」は、「社会活動再開 容認」が成功しても、失敗しても、安倍にとっては好都合なのだ。
 ①成功すれば……。「非常事態宣言を1か月延期」しながら、規制緩和もすすめる。感染者が確実に減り続け、特定警戒都道府県の規制も解除できるようになれば。すぐに国会を解散し、総選挙だ。2020年07月05日の都知事選に合わせるのだろう。そのときの宣伝文句は「安倍のコロナ対策は大成功」ということになる。マスクや10万円給付など、批判もあったが、コロナを封じ込めることができた。まだ安倍を批判し続けるのか、安倍のもとで日本経済を再建するのか、その判断を国民に問う、と安倍は主張するだろう。
 ②失敗すれば。イベントなどを開催した県が悪いのだ。「非常事態宣言」が延長されているのに、あちこち移動した国民が悪いのだ。指揮を、都道府県に任せるのではなく、安倍が管理する必要がある。指揮権を安倍に集約する必要がある。憲法を改正して「非常事態事項」を盛り込まなければ、コロナは終息しない。憲法改正、非常事態事項を盛り込むことに賛成か、反対か、その判断を国民に仰ぐ。安倍は、そう主張するだろう。
 失敗するにしろ、成功するにしろ、安倍は、それを利用できるのである。そして、どちらかというと②の失敗の方に重心をおいている。①の成功では、安倍の政策が支持されたとはいえても、それがそのまま憲法改正(緊急事態事項の盛り込み)には直結しにくいからである。これは、いいなおせば、国民のいのちを利用して、自分のやりたいことをやるということなのである。安倍は国民のいのちなど、なんとも思っていない。すでに「独裁者」なのだ。

 3面には、

緊急事態 コロナで焦点

 という見出しがある。
 そのなかに、こんな記事がある。

(自民党憲法改正)推進本部幹部は「現行憲法でも対応できるが、憲法に私権制限を含めた緊急事態条項を明記すれば、法律をより迅速に運用できるようになる(略)」と語る。

 目的は「私権制限」である。パチンコ店の開業は制限できるし、パチンコをしに外出することも制限できる。「要請」ではなく、はっきり「制限」できる。そして「私権」はパチンコをすることだけではない。デモもだめ。こうやって安倍批判を書くこともだめ、ということになる。
 戦争中だって、「戦争反対、侵略戦争をやめろ」と政府に訴える権利は国民にある。しかし、そういう権利はすべて封じこめられる。そういう時代がくるのだ。日本国民が全員「御霊」になるまで(死亡するまで)、安倍の独裁はつづくだろう。

 しかし、あまりにもむちゃくちゃすぎる。
 いまは、コロナの感染をいかに終息させ、死者を少なくするか、を考えるときだろう。そのほかのことは、そのあとに考えればいい。
 安倍は、安倍の求めていることに対しては「先手先手」を繰り出すが、国民が求めていることについては「後手後手」どころか、何もしない。放置を決め込んでいる。

 外れることを願いながら、予測しておく。
 衆院選は、都知事選と同日に行われる。すでに安倍は役員会で「議員は地元に帰って運動しろ」というよう支持を出している(04月12日)。議員はコロナ対策のチラシを名目に、しっかり名前を売り込んでいる。そして読売新聞は「衆院選 注目の選挙区」という連載をはじめている。もう、選挙は水面下で始まっている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする