青柳俊哉「枯れ木」、池田清子「わからん」、徳永孝「おおとかげ」(朝日カルチャー講座福岡、2020年04月06日)
枯れ木 青柳俊哉
光のうすい
池水の肌からつきだしている
一本の枝のない簡潔な枯れ木が
もとめているものは
空のうえにひろがる大きな光の感覚と
そこにいきている自身の
反映(よろこび)
そして
水と空中にふれている肌の感覚の
空への
反照(てりかえし)である
風景を見て、感覚が動く、意識が動く。それを、感覚的風景、意識的風景、つまり「心象風景」として言語化する。
「意識」を中心に見ていけば。
「反映」から「反照」へと意識が動いていく。「反映」を「よろこび」と読ませ、「反照」を「てりかえし」と読ませる。
「枯れ木」は枯れてはいるが、死んではいない。生きている。だから「もとめる」という運動が起きる。まだ「動いている」(生きている)その自覚が「よろこび」である。
それは同時に「空」からあたえられるもの。あたえられて生まれる。それは木の中にあると同時に、「空」にある。「空」にあるものが木に反映している。
一連目で受け止めたものを、二連目で「空」に返す。だから「かえし」ということばが選ばれているのだろう。
一方、感覚を中心に見ていけば、「光」と「水」と「木」と「空」は「簡潔」ということばのなかに集約する。最小限のものが最大限のものを語る。「一本」の枯れ木、「枝のない」枯れ木が、「大きな光」と一体になる。しかもその「光」は最初から「大きい」のではない。最初は「うすい」。言い直すと「微小」(小さい)。しかし、その「小さい(うすい)」光と木が一体になると、それは「大きな」もの、空そのものにある。「水面」と「空」をつなぐものとして(一体にするものとして)、一本の枯れ木がある。
この一体感を、青柳は「ふれている(ふれる)」という動詞でつかみとる。たしかに「ふれる」とは何かに接続することである。接続の感じから、一体感がひろがっていく。
これを「肌」ということばで具体化する。肌は「枯れ木」の肌であり、また青柳の肌である。
「反照」は「てりかえし」と読ませるよりも、一連目の「反映」のように「感情」をあらわすことばとして読ませた方が、「一体感(感覚)」は官能的になって響くかもしれない。孤独の中にある官能が浮かび上がるかもしれない。
しかし、それは青柳が書きたいものかどうかは、わからない。このことばの動きから、私は、そういうものも読んでみたいなあ、と感じた。
*
「わからん」 池田清子
昨日も
今日も
わからん を
彷徨ってる
三行目が微妙だ。「わからん が」ではなく「を」。主語はほかにあるのだ。主語は何か。「わたし」と言い直すと、少し物足りない。「さまよう」感じが「論理的」になりすぎて、物足りない。
私は「わからない」という意識が「わからない」という意識の中をさまよっていると読む。
「わからん」は拒絶したい何かではない。むしろ求めている何かだ。「わからん」という人間のあり方、それを求めている。わからないから、生きる楽しみがある。生きる力が生まれる。「わかる」も大切だが、「わからない」を抱え込んで、「わからない」を生きることの方が、きっと「おもしろい」。
これは実際に苦悩している人、困っている人には迷惑な話かもしれないが、文学は、しかし、こんな苦悩があるのか、こんな悲しみがあるのかということを、ことばで教えられることでもある。
だから。
悲劇の主人公が死ぬ。そのとき人は悲しむだけではなく、激しく感動してしまう。
人殺しがある。残酷だ。でも、残酷といいながら、その描写を一字一句読んでしまう。読みとばしたりはしない。
人間は、さまようことが好きな存在なのだろう。
*
おおとかげ 徳永孝
ぼくのへやにいる
ぬいぐるみのおおとかげ
いつもいっしょにいたいけど
みんながおどろくから
いつもは家にいてもらう
おまつりの時だけ
背おって出かけます
「いつも」ということばが二度つかわれている。しかし、意味は微妙に違う。
最初の「いつも」は「常時」と書き直すことができる。常時(いつも)いっょしにいたい。
二度目の「いつも」は「普段」と書き直すことができるかもしれない。
「普段」(いつも)と違う時間は、どういうときか。「おまつり」である。「おまつり」は祝祭。日常とは違う。「はれ」の日。そこでは何があってもいい。あるいは、いつも(普段)と違うことがあるから「おまつり」。
「はれの日」。ひとは何を期待するか。「おどろき」を期待する。驚くことで「日常」からはなれる。違う世界を楽しむ。
どのくらいの大きさのぬいぐのみなのか。わからないが、背負わないともっていけない大きさだ。それを背負って、「まつり」に行ってみたくなる詩だ。