詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(50)

2020-05-06 22:49:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (心の奥の方へかけだした)

哀しさが二重になり 誕生祝いの銀のスプーンを落としてしまった
それに灰をかけよう

 心の奥には隠している哀しみがある。隠していたものに出会ってしまった。
 「誕生祝い」は嵯峨の誕生祝いではなく、嵯峨が贈った誕生祝いだろう。
 だから「哀しみ」はほんとうは「よろこび」だったかもしれない。哀しくて、こころの奥に隠してある「よろこび」のところまで行ったら、そこに「よろこび」があったために、いまの哀しみをもう一度確かめることになってしまった。
 詩は、読むたびに表情を変える。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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山本育夫書下ろし詩集「薬缶(やかん)」十八編

2020-05-06 22:24:24 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下ろし詩集「薬缶(やかん)」十八編(「博物誌」46、2020年04月15日発行)

 新型コロナウィルスは思いもかけないところにも影響を及ぼす。たとえば山本育夫が発行している「博物誌」もしばらく発行されなかった。46号も「04月15日発行」と奥付には書いてあるが、それよりも遅れた。
 私も、実は、こんなことになるとは思わなかったが、突然、書くスピードが鈍った。奇妙な不安が私のまわりに漂っていて、それが気になってしようがない。
 私は子どものときから病弱だった。風邪には年中悩まされる。気管支が弱い。扁桃腺もすぐはれる。だが、不思議なことに、インフルエンザにはかかったことがない。医者から「雑菌が原因だから、他人にはうつらない」と言われる。インフルエンザが流行する前に、風邪を引いて寝込んでいて、インフルエンザにかかる暇がなかったということなのか。予防注射も受けたことがない。風疹にかかったのは24歳のときだし、水疱瘡にかかったのは50歳のときだ。一週間、入院した。どうも「流行」からずれたところで、私の肉体は動いているようなのだ。
 しかし、それゆえなのか、どうかわからないが。
 新型コロナウィルスに感染すると、きっと死んでしまうなという予感、いままでの病気とはまったく違うものが襲ってくるという予感が、目の前に漂っている。

 奇妙なことを書いたが、書かずにはいられないのである。
 で、どうしてこんなことを書いたかというと、実は、山本育夫の新作を読めば、ことばが動いてくれるかなあと、期待していた部分があったのだ。ところが、山本も新型コロナウィルスに圧力を感じているようなのだ。いつものような「勢い」がない。何か、自制、自粛している感じがする。
 
18凶吉

凶吉のほとりで
祈っている人が老いる
あんなにクレバーな人だったのに
占星術にはまり込んでいる

 私は、思いついたら、その瞬間から書き出すので、詩(詩集)を最後まで読んで書き始めることは少ない。今回は、なぜか、最後まで読んでしまった。
 そして、まあ、ここから書くしかないなあ、と思い始めた。
 「凶吉」ということばは、私は知らない。私は「吉凶」ということばになじんでいる。それがひっくり返されている。私が感想を「終わり」から書き始めるのを見越しているのかもしれない。そういうことにして、その「見越されている」ところから出発してみるしかない。
 「凶吉」にもつまずいたが、つぎの「祈っている人が老いる」にもつまずくのだ。「祈っている人がいる」ではなく、そこに一文字、



 が割り込んでいる。これが、まるで「凶」そのもののように、私を立ち止まらせる。私は「祈る」ということはしないが、祈らなくても「老いる」。この、なんといえばいいのか「人間の自然」がことばの運動のなかに割り込んでくる感じが、まるで病気が(新型コロナウィルス)が肉体に割り込んでくる感じに似ている。
 意識できない。避けられない。向こうからやってきて、肉体の中に住みついて、内部から肉体を破壊していく。もし、



 の文字が闖入してきていなかったら、その後の二行は単なる「批評」だ。「批評」とは他人を自分から切り離す方法であり、手段だ。自分とは違う人間。そんな人間のことなんか知るもんか、と言ってしまうのが批評。「共感としての批評」があるという人がいるかもしれないが、「共感」というのは自分と相手の区別がなくなることだから、そこには「批評」などない。「溺愛」というのとも違う。もっと激しく、乱暴なものだ。作者が私のものだと主張しているのに、「それは認めない、これは私が書きたかったことであり、私が読んでしまったのだから、もう私のものなのだ」というのが「共感」である。
 で、今回の場合、ややこしいことに。
 私は、山本の詩に割り込んできた



 これに「共感」してしまったのだ。
 「祈っている人がいる」という行だったら、次の二行に「クレバーはクレバスを思い起こさせる。深い裂け目、墜落を誘い込む深淵が、凶吉のほとりということばによってさらに深くなる。占星術が、それに拍車をかける」とかなんとか、テキトウなことばを動かして行ける。でも、そんなテキトウなことばをこの



 の一文字が拒絶する。
 山本は、祈っている人を見たのではなく、「老いる」という動詞そのものを見たのだ。それは「いや」なものかもしれない。しかし、見た以上は、それは「共感」なのだ。山本の「肉体」が、山本を裏切って「老」と一体になっている(セックスしてしまっている)ということだ。私が、ここで「一体」を「セックス」と言い直したのは、セックスというのは「共感」の言い直しになるが、相手の気持ち良さよりも自分の気持ち良さの方に重心が移っていく、自己中心的なものであると言いたいからである。欲望、あるいは本能的なものである、と言いたいからだ。

 だから、というのはかなり強引な結びつけ方だが。

03・・・・・

きのふ
こころというものがゆっくりと冬蜘蛛の

にのっかっていた

 この詩の「こころ」ということばはつまらない。「こころ」というものはだれにでもあって、だれでも「自分のこころ」しか考えない。だから、だれでもこの詩に「自分のこころ」を重ねあわせ、「共感した」と言ってしまえる。この「共感」は私のつかっている「共感」とはまったく別のもので、いわば「好意的批評」の類である。
 「きのう」というもの抽象的で、これもまたそれぞれの「自分のきのう」というものがあるのだが、それを拒絶するように、やまもとは「きのふ」と書いている。「ふ」という旧仮名が「老」のように、私を立ち止まらせる。
 きの「ふ」の「ふ」なんて、見たくない。「老」のように、見たくない。見たくないけれど、見てしまった。
 この詩は、「こころ」を追い出して、゛

きのふというものがゆっくりと冬蜘蛛の

にのっかっていた

 であった方が、私は「共感」しやすい。「誤読」し、好き勝手に、私はこう感じたと言える。「時間」を、という「もの」にして濁らせている。
 透明なものが「詩」なのではなく、不透明で、見えない「もの」、抽象であっても抽象を拒んで、普遍化されず、そこに存在してしまう「もの」。まだ、だれの「もの」でもない。だから、書いた人から、それを奪って「私のもの」と言ってしまえるのが「詩」なのだ。
 余分なことを書いたが、この余分なことを書くことで、私は、書こうかどうしようか迷っていた最初の詩にもどることができる。つまり、何か書けそうな気がしてくる。

01薬缶

ゆびさき、が黒ずんできた
目の縁とか、も
足の指

副作用が、気づかぬうちにからだ、のあちこちに微細な異常、を
ふきだめていく、印のように

 これが「老」というものだろうが、「老」という抽象的なもの(考えを整理するときにつごうのいいもの)にはなかなか変わってくれない。「ふきだめ」のように、整理とは逆の動きになっていく。「ふきだめる」という動詞として山本はつかっているが、これが、私に言わせれば「共感」というものだ。「共感」は「こころ」が感じるものではない。「肉体」がどうしようもなく感じてしまう「本能/欲望」なのだ。だから、セックスというのだ。こんなことを書くと怒る人がいるかもしれないが、「こころ(愛)」がなくても肉体は本能として動くのだ。あとから本能を美しくみせるために「愛(こころ)」ということばで世界を整えるのだ。
 「肉体」が「もの」になる。自分の「肉体」なのに、「もの」として見てしまう。「もの」のなかに、何か、自分の意思ではととのえられないものがあって、それはそれで動いていく。そして、それが「共感」を呼び込んでしまう力なのだ。
 詩は、こうつづく。

涙目になりながらねこがすりよってくるからねこねことぼくはいい
ねこはみゃおみゃおと、副作用をなめる、だめだめそんなことをすると、
うつるよ、といいかけて。
ハッとする。

 「人間の肉体」と「ねこ」は完全に違う。そんなものが「共感」していいはずがない。「共感」なんかするから「コロナウィルス」なんてものが野生の動物から人間に移ってしまうのだ。それは「共感」してはいけないものなのだ。しかし、「人間」の「肉体」はなんにでも「共感」する。そして、そのとき「(病気が)うつるよ」などという「科学で整理したことば」までつかってしまう。「肉体」の「共感」のためなら「理性/科学」さえもつかってしまう凶暴なものが人間にはあるのだ。無軌道なバカなのだ。これを、別な人は「愛」ということばで整理するかもしれないけれど。
 山本のことばはそこではとまらない。言い換えると無軌道なバカから、さらに逸脱していく。

夕暮れにて、のにて、に感動したことがあったじゃないか
ぼくの夕暮れにて、ぼんやりと予感が薬缶からそそぎ出る、

 何の関係があるかわからない(他人の肉体のなかでおきていることだからね、いわば「共感」というのは病気だからね)「にて」ということばへの感動(私がつかっている「共感」のことだ)をへて「薬缶」までことばは暴走する。
 もちろん副作用の原因となっている薬を飲むために湯を沸かす薬罐という具合に「意味」をつくろうとすれば意味はいつでも捏造できる(論理を整理できる)が、大事なのは意味でも論理でも、それを整理することでもない。
 「黒ずんできた肉体」と「ねこ」と「にて(ということば)」と「薬缶」というものをくっつけてしまう凶暴な「共感」がいま、ここで、動いているということなのだ。その「もの」、何のつながりもないはずのものが「詩という病気」に感染して、いままでそこにあった「黒ずみ」でも「ねこ」でも「にて」でも「薬缶」でもないものになってしまっている。
 で、このあと、どうなる?
 誰もが「結論」を求めてしまう。そこからたとえば「抒情病」というものが始まるのだが、コロナウィルスのように感染したら二割が重症化し、一割が死んでしまうというおそろしい事態がはじまるのだが……。

死は日常のものなのに
なんだって特別なものになってしまったんだろうな

 ね。
 重症でしょ?
 私は自分の病気ではないから、つっぱねるしかない。感染したくない。ここには「共感」しないぞ、と決めているのだ。(もちろん「共感的批評」などは書かない。)
 「予感」「薬缶」というような「ことば遊び」をしているから、「死」ということばにつかまってしまうのだ。何がなんでも「薬缶」そのものを「もの」にしてしまわないとおもしろくない。この詩のなかでは、「薬缶」はまだ「山本の薬缶」のままであり、私は「この薬缶がほしい、山本から盗んでやる、盗んだら絶対に返したりはしない」という気持ちになれない。
 「ねこ」は私は苦手だし、嫌いだから盗んでやりたいという気持ちはないが、このねこ隠してしまったら、山本は探し回るだろうなあ、と思うくらいには「共感」している。「黒ずんできた肉体」も、「にて」ということばへのこだわりも「共感」できるが。

 この奇妙な「不全感」のようなものをひきずって、私は詩集の最後まで読んで、最後に何か書けそうという感じをつかんで引き返してきたのだけれど。
 でも、「不全感」は残った。
 やっぱりコロナウィルスが、どこかで影響しているんだろうなあ。山本にも、私にも。「うつるよ、うつっちゃいけない」という意識が、どこかで動いているのだ。「肉体」を自由にしてくれないのだ。




 「18凶吉」と読んだのは私の「見間違い」でした。「吉凶」です。山本さんから指摘がありました。引用するとき、なぜ「凶吉」なのか、疑問に思い、しっかり確かめたつもりなのだけれど。
 正しい作品を引用しなおしておきます。「見間違い/読み間違い」にはそれなりの理由があると思うので、前に書いたものは、そのままにしておきます。

 
18吉凶

吉凶のほとりで
祈っている人が老いる
あんなにクレバーな人だったのに
占星術にはまり込んでいる








*

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Estoy loco por espana(番外篇53)Joaquinの作品

2020-05-06 17:45:15 | estoy loco por espana


Joaquinの「母の日」によせた作品。
(スペインの「母の日は5月の第一日曜日」

母に抱かれる子ども。
手前の小さな三角形が子どもだろうか。
そうではない。
手前の三角形は母親の腕だ。
中央の三角形が子どもだ。
母親にとって、「小さな子ども」は存在しない。
母親にとって、すべての子どもは自分のいのちと同じもの。
同じ大きさ。
そして、たとえ子どもが成長しても、自分よりは少し小さい。
抱いて守らなければならないいのちなのだ。

母親の強い愛と、それに気づいた子ども(ホアキン)だけがつくることのできる作品。
ホアキンの作品には、鉄のいのちが引き継がれているが、同時に母のいのちと愛も引き継がれている。

La obra de Joaquin para el dia de la Madre.

un nino sostenido por una madre.
el pequeno triangulo es un nino?
No!
el triangulo pequno es el brazo de la madre.
el triangulo en el centro es el nino.
no hay "nino pequeño" para madre.
para madre, cada nino es igual a su vida.
es mismo tamano de su vida.
incluso si el nino crece, es un poco mas pequeno que madre.
para madre, es una vida que debe ser mantenida y protegida.

este trabajo que solo puede hacer por Joaquin quien nota el fuerte amor de la madre.
el trabajo de Joaquin ha heredado la vida de hierro, pero al mismo tiempo, ha heredado la vida y el amor de su madre.
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Estoy loco por espana(番外篇52)Joaquinの作品

2020-05-06 10:48:19 | estoy loco por espana


Joaquinの作品

すでに紹介した作品かもしれない。
しかし見る角度によって、印象が違ってくる。
これが彫刻のいちばんの面白みかもしれない。

私は葛飾北斎の「裏波」を思い出した。
天にとどけといわんばかりに立ち上がる波。
崩れ落ちるのだが、崩れ落ちたら終わりというのではなく、何度も立ち上がる巨大な力を思うのだ。

El trabajo de Joaquín

Puede ser el trabajo ya presentado.
Sin embargo, la impresión cambia segun el angulo de vision.
Este puede ser el aspecto más interesante de la escultura.

Recuerdo el "Uranami" de Katsushika Hokusai.
Las olas subiendo al cielo.
Se derrumba, pero cuando se derrumba, no es el final, pero pienso en una gran fuerza que se eleva muchas veces.


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なりゆきまかせで休業要請終了?

2020-05-06 10:31:23 | 自民党憲法改正草案を読む
なりゆきまかせで休業要請終了?
       自民党憲法改正草案を読む/番外348(情報の読み方)

 2020年05月06日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

「特定警戒」休業要請正続/13都道府県 都は協力金追加

 という見出しの一方で、

山口や長崎 きょうまで/休業要請 17県が終了方針

 という見出し。「緊急事態宣言」は31日まで延長されるのに、17県は「休業要請」をしない。この17県というのは、「特定警戒」自治体以外の34県のちょうど半分だ。この数の多さに驚く。
 なぜ、こんなことが起きるのか。
 休業要請をすれば「補助金(協力金?)」を要求される。それにこたえる財源がない、ということなのだろう。
 しかし、これは県の責任なのか。国が責任をもって休業補償をしないことが問題なのだ。税金の「再配分」で乗り切るしかないのに、国が知らん顔をする。
 病気になって死ぬのも、収入がなくなって死ぬのも、個人の責任。国は税金を徴収し、安倍が満足する政策をすすめればそれでいい、という考えなのだろう。
 国が、責任を持って休業補償をすれば、こんなことは起きないだろう。

 休業要請をしないということは、休業する業種がなくなるということ、簡単に言い直すと、どの店も開くということ。人の動きが活発になる。人と人が触れる。感染の危険が高まる。そして、死んでいく人が増える。(26面には、「子どもの感染急増/10歳未満240人 4月以降判明9割」という不気味な記事が載っている。)
 感染者が増え、死ぬ人も増える。このとき、それは、だれの責任なのか。
 安倍は、休業要請をしなかった知事の責任であり、店を開いた人の責任であり、「不要不急の用事(買い物)」なのに街へ出掛けた人の責任というに違いない。
 「だって、ぼくちゃん、緊急事態宣言の延長をする、と言ったんだもん」
 言って、それから何をしたか。官僚の書いた原稿をプロンプターをつかって読み上げただけだ。しかも、読み違えている。実質的には何もしていない。
 いったい、これから先、どうなっていくのだろうか。



 1面には、また、

大阪 解除へ独自3基準

 という記事が書かれている。それによると、

①感染経路が不明な感染者が10人未満
②検査件数に対する感染者の割合を示す「陽性率」が7%未満
③重症者の病床使用率が60%未満

 の3条件を「7日間連続」で満たせば、段階的に要請を解除するという。
 私はきのう、コロナウィルスの感染状況を把握するためには、①感染者数②感染率③感染経路の特定、この三つが必要だと書いた。大阪の「解除基準」はそれに「病院の状況」を付け加えたものだ。
 大阪の基準の③は、私には医療現場のことがわからないので判断のしようがないが、①は、そんなに数が多くていいのか、と思う。
 感染経路が分かっていれば、感染者が1日100人、極端に言えば1000人という状況でもいいのか。感染者総数の「目標値」がない。さらに「経路不明の感染者」の「割合目標」がない。つまり、感染者が「9人」だと仮定して、その9人とも「経路不明」でも大丈夫なのか。①②を合わせて考えると、130人検査して、9人が陽性だとわかる。陽性率は7%未満。しかし、その9人とも感染経路が不明の時は安全な状態に近づいているといえるのか。
 130人といえば、小さな小学校の児童の数くらいである。(私が通っていた小学校は、山の中にあった。私が小学生だったときの児童総数が最大時で130人もいなかった。)これは、簡単に考えてクラスに1人から2人の感染不明の児童がいるということである。
 具体的に考えると、怖くない?
 もちろん、判明した陽性者のすべてが感染経路がわからないということはほとんとありえない状況だろう。いま書いた小学校を例にとれば、きっと「学校内の集団感染(クラスター)」と定義されて、どこから感染したかわからなくても「感染経路不明」からは除外されるかもしれない。
 でも、どんなクラスターも、「発生源」の「感染経路」をつきとめるのはなかなかむずかしい。クラスターが発生したあと、その「感染経路」の集団が「クラスター」と呼ばれるだけだろう。

 2面には、ニューヨークの「経済再開」に関する7基準が載っている。感染者1人が何人に感染させるかという数字が「1・1」以下の条件をつけた上で、

①入院患者数が14日連続で減少
②死者数が14日連続で減少
③1日の新規入院患者が10万人あたり2人未満

 「陽性率」は条件にしていない。入院患者と総人口の割合を問題にしている。「医療現場」から現実をとらえる、ということだろう。

④地域内での空き病床30%以上
⑤集中治療室のベッドの空き30%以上

 という具合につづく。
 医療現場から遠い私には、これらの「基準」をどうとらえていいのか見当がつかないが、わかることがひとつある。
 大阪にしろニューヨークにしろ、市民に「目標数値」を明確に示していることだ。しかも、その「目標値」は「ひとつ」ではない。複数だ。条件がさまざまにからみあってくるから、「ひとつ」達成すればいいというものではない。
 安倍は、

1日あたりの新規感染者数は全国で100人を下回る水準を目指す

 と「ひとつ」しか目標数値をあげなかった。ほんとうはいくつもあげたのかもしれないが、きのうの読売新聞には、きょうの大阪、ニューヨークのような整理された記事はなかった。

 「休業要請」を中止した知事は、中止するにあたっての「基準」をどう設定したのか。またひとの往来が簡単ないま、隣県との調整などをどうおこなったのか。そういうことが、よくわからない。
 新聞では個別の「基準」を明示しにくいのかもしれない。しかし、これは、また、国が(安倍が)、きちんと「基準」を示していないということに原因があるとも言える。
 「基準」が明確にされないままでは、「なりゆきまかせ」にとしか思えない。
 不安が募るばかりだ。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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アマゾンや一般書店では購入できません。
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