* (わたしは幾日も筏を待っている)
「単なる川しも」とは、どういうことだろうか。「単なる」がわからない。これを「失われた方角」と言い直している。
「単なる」は「失われた」状態なのだ。
何が失われたら「単なる」になるのか。「思い入れ」のようなものだろう。「気持ち」だろう。それまでは嵯峨には「川しも」に思い入れがあった。「川しも」には海がある。あるいは街がある。そこへ行きたい。行けば、何かが始まる。そういう「夢」のようなものが失われた。
「行く」というのは必然的に「方角」をもつが、「行く」という意欲がなくなれば「方角」もなくなる。
「単なる」は「失望」がとらえる世界である。そこには「もの」しかない。気持ちを拒絶する「もの」、気持ちの存在しない「世界」が「単なる」と呼ばれている。
*
詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
筏はながれてくる
単なる川しもへ 失われた方角へ
「単なる川しも」とは、どういうことだろうか。「単なる」がわからない。これを「失われた方角」と言い直している。
「単なる」は「失われた」状態なのだ。
何が失われたら「単なる」になるのか。「思い入れ」のようなものだろう。「気持ち」だろう。それまでは嵯峨には「川しも」に思い入れがあった。「川しも」には海がある。あるいは街がある。そこへ行きたい。行けば、何かが始まる。そういう「夢」のようなものが失われた。
「行く」というのは必然的に「方角」をもつが、「行く」という意欲がなくなれば「方角」もなくなる。
「単なる」は「失望」がとらえる世界である。そこには「もの」しかない。気持ちを拒絶する「もの」、気持ちの存在しない「世界」が「単なる」と呼ばれている。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)