詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョンソンの言う「社会」とは何か。

2020-05-10 22:39:47 | 考える日記
2020年05月10日(日曜日)

 私は読み落としたのだが、イギリスのジョンソン首相は、コロナに感染し、一時重体だった。そして、そこから復帰した。そのとき、こう言った。

「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会は存在するのだ。」

「社会」の定義はむずかしい。
私は日本国憲法13条に書いてある「公共の福祉」というのが「社会」ではないかと考えてる。
「公共の福祉」とは何かと言われたら「社会」と答えると思うが。

「公共」だけでも「福祉」だけでもない。「公共の福祉」。

これは「公共」と「福祉」という「二つの考え(概念)」が、「公共=福祉」という「一つの考え」に統合するときに生まれるのだと思う。
「社会」は単なる集団ではない。「福祉」を実現するための集団であり、福祉が実現されない限り「社会」ではあり得ない。
「社会」を目指そうとするから、奇妙なことになる。
「福祉」を目指し、それを実現すれば必然的に「社会」は生まれてくる、と言い直せると思う。
「公共の福祉」は「公共」に意味があるのではなく「福祉」方に意味がある。
「公共」も「福祉」も名詞であり、これを「動詞(人間の動き)」として見直すのは面倒だけれど、あえていえば「福祉」は「命を助ける」という現実の動きだと思う。「ひとのいのち」を助けることが「福祉」。
そう考えると、ジョンソンの言った「社会は存在する」もすんなりと読むことができる。「人のいのち(ジョンソンのいのち)を助けようとして、現実に動いた人間がいる」、それが「社会」というものだ。ジョンソンは、それを「実感」したのだ。

ひるがえって。
日本には、ジョンソンが実感した「社会」は存在するか。安倍は、「社会」を目指しているか。
目指していない。
簡単に言い直すと「医療崩壊」を口実に、国民がコロナに感染しているかどうかの検査さえしない国には「社会」は存在しない。
「医療崩壊」を口にした医療関係者は、そのときから「人のいのちを助ける」ということを放棄している。

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(52)

2020-05-10 09:57:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (旅立っていった妻よ)

どうして「時」を残していったのか
おまえの影をさむざむと宿している時を

 「記憶」を「時」と言い直しているのか。
 しかし「時」は過ぎ去る。
 そうであるなら、この「時」は「未来」である。未来が「さむざむ」とするのである。どこまでもどこまでも、「未来」であるかぎり「さむざむ」とする。
 逆に言えば「時」は過ぎ去らない。「未来」もない。あるのは「さむざむ」とする「いま」だけが永遠に続く。












*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

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