2020年05月10日(日曜日)
私は読み落としたのだが、イギリスのジョンソン首相は、コロナに感染し、一時重体だった。そして、そこから復帰した。そのとき、こう言った。
「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会は存在するのだ。」
「社会」の定義はむずかしい。
私は日本国憲法13条に書いてある「公共の福祉」というのが「社会」ではないかと考えてる。
「公共の福祉」とは何かと言われたら「社会」と答えると思うが。
「公共」だけでも「福祉」だけでもない。「公共の福祉」。
これは「公共」と「福祉」という「二つの考え(概念)」が、「公共=福祉」という「一つの考え」に統合するときに生まれるのだと思う。
「社会」は単なる集団ではない。「福祉」を実現するための集団であり、福祉が実現されない限り「社会」ではあり得ない。
「社会」を目指そうとするから、奇妙なことになる。
「福祉」を目指し、それを実現すれば必然的に「社会」は生まれてくる、と言い直せると思う。
「公共の福祉」は「公共」に意味があるのではなく「福祉」方に意味がある。
「公共」も「福祉」も名詞であり、これを「動詞(人間の動き)」として見直すのは面倒だけれど、あえていえば「福祉」は「命を助ける」という現実の動きだと思う。「ひとのいのち」を助けることが「福祉」。
そう考えると、ジョンソンの言った「社会は存在する」もすんなりと読むことができる。「人のいのち(ジョンソンのいのち)を助けようとして、現実に動いた人間がいる」、それが「社会」というものだ。ジョンソンは、それを「実感」したのだ。
ひるがえって。
日本には、ジョンソンが実感した「社会」は存在するか。安倍は、「社会」を目指しているか。
目指していない。
簡単に言い直すと「医療崩壊」を口実に、国民がコロナに感染しているかどうかの検査さえしない国には「社会」は存在しない。
「医療崩壊」を口にした医療関係者は、そのときから「人のいのちを助ける」ということを放棄している。
私は読み落としたのだが、イギリスのジョンソン首相は、コロナに感染し、一時重体だった。そして、そこから復帰した。そのとき、こう言った。
「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会は存在するのだ。」
「社会」の定義はむずかしい。
私は日本国憲法13条に書いてある「公共の福祉」というのが「社会」ではないかと考えてる。
「公共の福祉」とは何かと言われたら「社会」と答えると思うが。
「公共」だけでも「福祉」だけでもない。「公共の福祉」。
これは「公共」と「福祉」という「二つの考え(概念)」が、「公共=福祉」という「一つの考え」に統合するときに生まれるのだと思う。
「社会」は単なる集団ではない。「福祉」を実現するための集団であり、福祉が実現されない限り「社会」ではあり得ない。
「社会」を目指そうとするから、奇妙なことになる。
「福祉」を目指し、それを実現すれば必然的に「社会」は生まれてくる、と言い直せると思う。
「公共の福祉」は「公共」に意味があるのではなく「福祉」方に意味がある。
「公共」も「福祉」も名詞であり、これを「動詞(人間の動き)」として見直すのは面倒だけれど、あえていえば「福祉」は「命を助ける」という現実の動きだと思う。「ひとのいのち」を助けることが「福祉」。
そう考えると、ジョンソンの言った「社会は存在する」もすんなりと読むことができる。「人のいのち(ジョンソンのいのち)を助けようとして、現実に動いた人間がいる」、それが「社会」というものだ。ジョンソンは、それを「実感」したのだ。
ひるがえって。
日本には、ジョンソンが実感した「社会」は存在するか。安倍は、「社会」を目指しているか。
目指していない。
簡単に言い直すと「医療崩壊」を口実に、国民がコロナに感染しているかどうかの検査さえしない国には「社会」は存在しない。
「医療崩壊」を口にした医療関係者は、そのときから「人のいのちを助ける」ということを放棄している。