詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵩文彦「へんしん」

2020-05-08 19:10:27 | 詩(雑誌・同人誌)
嵩文彦「へんしん」(「弦」77、2020年05月01日発行)

 詩は「ことば」でできている。そして、「ことば」というのは、それがとらえる「領域」はあいまいである。
 嵩文彦「へんしん」は、こう始まる。

蝶が一頭韃靼海峡の渡りについたのは
一九二六年のことでした
それはとても容易いことのようでした

 安西冬衛の詩が踏まえられている。「現実」ではなく「ことば」から出発している作品だ。でも、安西冬衛は「一頭」というふるめかしい蝶の数え方をしていたっけ? 私は「一匹」と記憶しているが、私の記憶はあてにならない。自分の都合にあわせて、記憶を、ではなく、事実をそのものを変えてしまうということがしゅっちゅうある。
 だから、私のことは(記憶のことは)さておいて。
 嵩は、あ、安西冬衛の書いたことを虚構ではなく「事実」としてとらえようとしている、というよりも、「ことば」のなかから「事実」を「一九二六年」に絞って書こうとしていることがわかる。この「絞る」は、しかし、「ずらす」でもある。安西冬衛は、ほんとうに蝶が韃靼海峡を渡っていったのを見たわけてはなく、「ことば」としてそう書いただけだ。
 ここに「ことば」の可能性がある。
 「事実」ではなくても、「ことば」は「ことば」にすることができる。それはいったい何なのか。そして、それが「容易」なのは、なぜなのか。その「うそ」(?)を書いてしまう「ことば」のなかには、いったい何があるのか。
 まあ、答えのことは、私は考えない。詩のつづきを読んでいく。そのうち「答え」が出てくるかもしれない。

蝶がヨットになることはできます
羽根だけが蟻にひかれて
固土にかげをゆらゆらさせてゆきました

 この「ヨット」は「韃靼海峡」のように「事実」ではない。「比喩」だ。
 と、書いた瞬間に、私はアレッと思う。「韃靼海峡」が比喩ではないとどうして言える? それが実在するにしろ、そこを実際に蝶が渡っていったのではなく、安西が感じている何かを「韃靼海峡」という比喩にしただけかもしれない。「蝶」だって比喩かもしれない。
 そんなことを考え始めたら、私はもともと安西の詩を「現実」ではなく、ある瞬間の心象風景、それ全体が「比喩」であると感じていたことに気がつく。
 安西の詩には「現実」などない。もし「現実」があるとしたら、嵩が書いているように、それを書いたとき「一九二六年」だったということだけかもしれない。
 蟻にひかれて「ヨット」になる蝶。そのとき蝶は死んでいるのだが、つまり、蝶が「ヨット」に「なる」のではなく、人間の視線(比喩を生み出す意識)が蝶を「ヨット」にしてしまうのだが、嵩は「なる」と書いたので、その「なる」を引き継いで、こう考えるのだ。

胴体のある蝶が生きたまま
生きたままヨットにならなくては
壮大なロマンではないのです、ね

 書いていることが「微妙」だね。
 どこに焦点をあてれば、「ことば」の運動が、運動として「一貫したもの」になるのか。
 「なる」というのは「生きている」ものができること。でも、蝶が「ヨット」に「なる」とき、それは生きていないし、たぶん、胴体もない。蝶が生きたまま「ヨット」に「なる」なら、それは「壮大なロマン」か。いや、死んだあと「ヨット」に生まれ変わるというのも、それは「壮大なロマン」ではないか。
 でも、だれにとって?
 どうも、「ことば」は蝶のためにあるものではないらしい。人間が勝手に「壮大なロマン」をつくるために動かしているだけのものかもしれない。
 じゃあ、その「壮大なロマン」って何なのか。
 嵩の「ことば」は転調する。「壮大なロマン」を「夢」と言い換えて(ずらして)、転調する。あ、転調は、「ずれ」のことか。で、ことばは「ずらされる」のだが「ずらされ」てもつづいてしまう。

ある朝夢から覚めてみると
ヒトが巨大な虫になっておりました
それはできたのです
やったヒトがいます

 カフカの「変身」だね。
 それは「なる」ことが「できた」のか。「やった」ことなのか。カフカはそれを書いたが、主人公が「なった」わけでも「やった」わけでもないだろうなあ。
 でも、なぜ、そんなことを書いたのか。
 蝶々が韃靼海峡を渡ったことと同じように、それはわからない。書いた人間にはそれなりの理由があるだろうけれど、読者には、それはわからない。しかし「わからない」といいながら、「わかった」気持ちになる。面倒くさいことに、それが「わかった」と言えるとき、実は、その「わかった」は「わかった」人だけの「わかった」であり、決して他人と「共有」できない。そして、「共有」できないものであると知っているからこそ、だれもが「わかった」と言う。つまり、その作品(ことば)を自分のものにしてしまう。
 面倒くさいぞ。

蝶がヨットになるのは難儀です
とてもやっかいです
まずはベッドがない
夢から覚めてみるべきベッドがありません

 私が「面倒くさい」と書いたことを、嵩は「難儀」と書き、「やっかい」と書き直している。
 「ことば」とは、「夢」なのだ。でも、その「夢」は覚めてから語る夢なのだ。覚めないと語れない「夢」なのだ。どこかに「矛盾」があり、「矛盾」があることによって、はじめて「真実/事実」になるような運動が「ことば」のなかで動いている。
 人間は「ことは」に「へんしん」する存在なのかもしれない。








*

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Estoy loco por espana(番外篇54)Joaquinの作品

2020-05-08 16:51:57 | estoy loco por espana


Joaquinの作品。


Donde ves la escultura?
Lo ves en un museo?
Lo ves en unu propia casa?
Lo ves en su taller?
O los ves al aire libre?

El trabajo de este Joaquin sería divertido al aire libre.
Lo mejor esta en un bosque.
Hay varios sonidos en el bosque.
Hojas de arboles y flores que se mecen en el viento.
La voz del pajaro. La voz animal. El sonido del agua lejana del rio.
Incluso la luz del sol brilla intensamente tiene la voz.
Y las sombras tambien. Es una pausa en la musica. Silencio
Una melodia que sigue el ritmo que corre libremente.
La escultura de Joaquin esta tocando una trompeta para que coincida con esos sonidos.
El sonido en ese momento es el sonido de la trompeta,
NOOOO, pero NO es el sonido de la trompeta.
Es el sonido del corazon de Joaquin.

El circulo es un simbolo de perfeccion.
La forma que intenta convertirse en un circulo, es es un simbolo de libre.
La felicidad se extiende.

彫刻をどこで見るか。
展覧会の会場で見るか。
個人の家で見るか。
アトリエで見るか。
屋外で見るか。

このホアキンの作品は、屋外で見ると楽しいだろう。
森の中が、いちばんいいだろう。
森の中にはいろいろな音がある。
風にそよぐ木の葉や草花。
鳥の声。動物の声。遠い川の水の音。
そこでは太陽の光さえ鮮やかな音を響かせている。
そして、影も。それは、音楽の中の休止。沈黙。
自由に走り出すリズムを追いかける旋律。
ホアキンの彫刻は、そういう音にあわせてラッパを吹いている。
そのときの音は、ラッパの音だけれど、ラッパの音ではない。
ホアキンの心の音だ。

円は完璧の象徴。
円になろうとする形は自由の自由がある。
よろこびがひろがる。


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数字は正確か(どの数字を信じるか)

2020-05-08 11:26:15 | 自民党憲法改正草案を読む
数字は正確か
       自民党憲法改正草案を読む/番外349(情報の読み方)

 2020年05月08日の読売新聞(西部版・14版)の28面の見出し。

国内感染100人下回る/3月30日以来 福岡は1人

 この「見出し」の数字は、記事そのものであり、「正確」だ。
 しかし、正確さを考えるとき、それが事実と合致しているかだけではなく、なぜその数字が選ばれたのかを考えないといけない。つまり、「事実」の取り出し方の「正確さ」というものがある。
 100人検査して100人陽性だったというのと、1000人検査して100人陽性だったというのでは、同じ100人でも「正確さ」に不備がある。「感染率」が違うから、100人と言っても「事実の重さ」が違う。
 この記事は、もうひとつ「情報」がある。見出しにはなっていない。(番号は、私がつけた。)

①国内では7日、新たな感染者が計96人確認された。(略)死者は東京都で5人、大阪府3人、兵庫県2人などだった。(合計数は不明)
②6日の国内の感染者は東京都38人、北海道23人、大阪府12人、福岡県1人など全国で105人。死者は東京5人、群馬2人など6都道県で計11人に上った。

 「死亡率」が以前は2%前後、最近は3%くらいで推移し、少しずつ上昇する傾向にある。8日午前0時現在の累計では、感染者1万6287人、死者603人、死亡率3・7%である。死亡率は、私が計算した。つまり新聞には書かれていない。
 で、6日だけの増えた感染者と死者の関係でみると。感染者105人、死者11人だから、死亡率は10・5%である。死者は当然、治療中だった人だろうから、その日の感染者と死者の割合を出してみてもどうしようもないのかもしれないが、死者が増えているなあ、という「実感」にはなる。最近、死者の割合が増えているなあ、ということを実感させてくれる。
 最終的にどうなるのかわからないが、このまま感染者は少なくなるけれど死者が増えていくということがつづけば、死亡率は当然高くなる。イギリス、フランス、スペイン、イタリアのように10%を越すだろう。フランスは20%近くの死亡率である。
 日本の死亡率を2%におさえるという「目標値(?)」はすでに破綻している。私は、公表されている数字が事実を正確に反映しているとは考えていない。操作された数字だと疑っている。その疑っている数字の中にあらわれる「変化」(死亡率の上昇)は、でも、ごまかせない。だから、ここにこそ、「真実」が隠れていると思う。死亡率はきっと10%に、これから近づいていくと思う。「肺炎」で死亡したが、新型コロナ感染者であるかどうかわからない(検査されていない人がいる)という告発がネットなどでは流布している。そういう人をふくめるとすでに10%を超えているかもしれないが、そういう「わからない」部分を除外しても、いまのように「感染者」を絞り込む(検査をさせない)という操作をつづけても、死亡率は徐々に上がると思う。
 どの国の対策がいちばん効果的だったのか(科学的に正しかったのか)という判断は難しいと思うが、ドイツの死亡率の低さ、感染者16万8276人、死亡者7277人、死亡率4%が際立つ。日本の現在の死亡率はそのドイツをさえも下回っているが、とても不思議である。数字の操作がおこなわれているとしか、思えない。その操作の「むり」が、これから徐々に表面化してくると思う。
 私はいつでも書かれていない情報に意味があると思う。「検査数」のように、新聞を読んでいるだけの私にはわからない情報もあれば、そこに書かれている情報を組み合わせることで見出せる隠れた情報(死亡率)のようなものもある。死亡率は「隠されている情報」というより、「隠すことのできない情報」と呼んだ方がいいかもしれない。私は、そういう「どうしても露顕してしまう情報」の方を信じる。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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すぐにはできない?

2020-05-08 11:21:53 | 自民党憲法改正草案を読む
共同通信のウェブサイトに、信じられない記事が載っていた。

https://this.kiji.is/630960520993457249?fbclid=IwAR1d0Sd6t-HMxFMuxyS0UedWZ-GSSgyisNANVBK7TgM9qK8eIZGaknDDASc

【ニューヨーク共同】「新型コロナウイルスのデータをファクスで集めていた日本が、ついにデジタルへ」―。米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は6日までに、日本政府が医療機関に新型コロナ発生届を手書きしてファクスするよう求めていた仕組みから脱却し、今月中旬からオンラインで行われるようになると伝えた。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

知らなかったなあ。
笑いだしてしまう。
こんなことをするから「統計」をとるのに時間がかかる。
ネットで共有ファイルに送信すれば、即座に「統計」を共有できるだろう。
で、考えられること。
「統計」をまとめているのがどこか私は知らないが、「厚労省」と仮定しておく。
その責任機関の厚労省は、情報(統計)を共有したくなかったのだ。
言い換えると、情報を操作し、目指している「数字」に整えてから、それを公開したかったのだ。
コロナ感染者の、感染者に対する死者の割合は、長い間2%だった。
それが最近3%になっている。(私は、新聞の数字を見て、概算で計算しただけだから正確ではない。)
世界の状況をみながら5%くらいにまで上げていくのだろう。
たとえば東京都が「100人陽性、5人死亡」という報告をしてきたら、そのうちの「2人」をあすの統計にまわす、というような操作をすることで「死亡率3%」を維持できる。
次の日、検査対象者を増やし、陽性者を増やす。その結果「2人」の死亡が追加されても、「死亡率3%」を維持できる。
面倒くさいけれど、これくらいの面倒くささは、「安倍への忖度」で出世できると思えば、いまの官僚ならやってしまうのではないか。
それにしてもなあ。
緊急事態宣言下の感染者、死亡者の推移を見ていると、まだ、来年の五輪開催にこだわっている安倍への忖度が働いているかと疑いたくなる。
死者が何万人になってしまうと、いくらコロナが終息したからといってオリンピック気分にはならないだろう。
少ない数でおさまってこそ、コロナを克服できたということができる。
だからこそなのだけれど。
ここから、こんな具合に考えないといけない。
日本は少ない死者のままコロナ感染を終息できたとしても、何万人と死んでいる国は、たとえその国のコロナが終息したとしても、「さあ、オリンピック」という気持ちになれるだろうか。
あるいは、終息していない国は、どう感じるだろうか。
コロナは、日本だけの問題ではない。世界中の問題なのだ。
「忖度」するとしたら、安倍に対して忖度するのではなく、世界の人々に対して忖度しないといけない。
オリンピックを中止して(返上して)、これからオリンピックにかけるはずだった費用を、コロナ治療のためにつかう。日本だけではなく、世界のためにもつかう。ワクチンや新薬開発のための費用にまわすために、日本はオリンピックを中止する、と言えばいいのに。
私は安倍支持派ではないが、そういうことをすると安倍の信頼は高まると思うよ。
オリンピックを開きたい。オリンピックの会場で「ぼくちゃんが首相、いちばん偉いんだ」と言わなくても、世界中が安倍の決断(オリンピック返上、予算をコロナ対策に投資)を称賛してくれると思うよ。

しかしねえ。
「今月中旬からオンラインで行われるようになる」
というのは、のんびりしているなあ。
ファイルの共有なんて、すぐにできるんじゃないの?
なぜ、そんなに時間がかかる?
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