嵩文彦「へんしん」(「弦」77、2020年05月01日発行)
詩は「ことば」でできている。そして、「ことば」というのは、それがとらえる「領域」はあいまいである。
嵩文彦「へんしん」は、こう始まる。
安西冬衛の詩が踏まえられている。「現実」ではなく「ことば」から出発している作品だ。でも、安西冬衛は「一頭」というふるめかしい蝶の数え方をしていたっけ? 私は「一匹」と記憶しているが、私の記憶はあてにならない。自分の都合にあわせて、記憶を、ではなく、事実をそのものを変えてしまうということがしゅっちゅうある。
だから、私のことは(記憶のことは)さておいて。
嵩は、あ、安西冬衛の書いたことを虚構ではなく「事実」としてとらえようとしている、というよりも、「ことば」のなかから「事実」を「一九二六年」に絞って書こうとしていることがわかる。この「絞る」は、しかし、「ずらす」でもある。安西冬衛は、ほんとうに蝶が韃靼海峡を渡っていったのを見たわけてはなく、「ことば」としてそう書いただけだ。
ここに「ことば」の可能性がある。
「事実」ではなくても、「ことば」は「ことば」にすることができる。それはいったい何なのか。そして、それが「容易」なのは、なぜなのか。その「うそ」(?)を書いてしまう「ことば」のなかには、いったい何があるのか。
まあ、答えのことは、私は考えない。詩のつづきを読んでいく。そのうち「答え」が出てくるかもしれない。
この「ヨット」は「韃靼海峡」のように「事実」ではない。「比喩」だ。
と、書いた瞬間に、私はアレッと思う。「韃靼海峡」が比喩ではないとどうして言える? それが実在するにしろ、そこを実際に蝶が渡っていったのではなく、安西が感じている何かを「韃靼海峡」という比喩にしただけかもしれない。「蝶」だって比喩かもしれない。
そんなことを考え始めたら、私はもともと安西の詩を「現実」ではなく、ある瞬間の心象風景、それ全体が「比喩」であると感じていたことに気がつく。
安西の詩には「現実」などない。もし「現実」があるとしたら、嵩が書いているように、それを書いたとき「一九二六年」だったということだけかもしれない。
蟻にひかれて「ヨット」になる蝶。そのとき蝶は死んでいるのだが、つまり、蝶が「ヨット」に「なる」のではなく、人間の視線(比喩を生み出す意識)が蝶を「ヨット」にしてしまうのだが、嵩は「なる」と書いたので、その「なる」を引き継いで、こう考えるのだ。
書いていることが「微妙」だね。
どこに焦点をあてれば、「ことば」の運動が、運動として「一貫したもの」になるのか。
「なる」というのは「生きている」ものができること。でも、蝶が「ヨット」に「なる」とき、それは生きていないし、たぶん、胴体もない。蝶が生きたまま「ヨット」に「なる」なら、それは「壮大なロマン」か。いや、死んだあと「ヨット」に生まれ変わるというのも、それは「壮大なロマン」ではないか。
でも、だれにとって?
どうも、「ことば」は蝶のためにあるものではないらしい。人間が勝手に「壮大なロマン」をつくるために動かしているだけのものかもしれない。
じゃあ、その「壮大なロマン」って何なのか。
嵩の「ことば」は転調する。「壮大なロマン」を「夢」と言い換えて(ずらして)、転調する。あ、転調は、「ずれ」のことか。で、ことばは「ずらされる」のだが「ずらされ」てもつづいてしまう。
カフカの「変身」だね。
それは「なる」ことが「できた」のか。「やった」ことなのか。カフカはそれを書いたが、主人公が「なった」わけでも「やった」わけでもないだろうなあ。
でも、なぜ、そんなことを書いたのか。
蝶々が韃靼海峡を渡ったことと同じように、それはわからない。書いた人間にはそれなりの理由があるだろうけれど、読者には、それはわからない。しかし「わからない」といいながら、「わかった」気持ちになる。面倒くさいことに、それが「わかった」と言えるとき、実は、その「わかった」は「わかった」人だけの「わかった」であり、決して他人と「共有」できない。そして、「共有」できないものであると知っているからこそ、だれもが「わかった」と言う。つまり、その作品(ことば)を自分のものにしてしまう。
面倒くさいぞ。
私が「面倒くさい」と書いたことを、嵩は「難儀」と書き、「やっかい」と書き直している。
「ことば」とは、「夢」なのだ。でも、その「夢」は覚めてから語る夢なのだ。覚めないと語れない「夢」なのだ。どこかに「矛盾」があり、「矛盾」があることによって、はじめて「真実/事実」になるような運動が「ことば」のなかで動いている。
人間は「ことは」に「へんしん」する存在なのかもしれない。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
詩は「ことば」でできている。そして、「ことば」というのは、それがとらえる「領域」はあいまいである。
嵩文彦「へんしん」は、こう始まる。
蝶が一頭韃靼海峡の渡りについたのは
一九二六年のことでした
それはとても容易いことのようでした
安西冬衛の詩が踏まえられている。「現実」ではなく「ことば」から出発している作品だ。でも、安西冬衛は「一頭」というふるめかしい蝶の数え方をしていたっけ? 私は「一匹」と記憶しているが、私の記憶はあてにならない。自分の都合にあわせて、記憶を、ではなく、事実をそのものを変えてしまうということがしゅっちゅうある。
だから、私のことは(記憶のことは)さておいて。
嵩は、あ、安西冬衛の書いたことを虚構ではなく「事実」としてとらえようとしている、というよりも、「ことば」のなかから「事実」を「一九二六年」に絞って書こうとしていることがわかる。この「絞る」は、しかし、「ずらす」でもある。安西冬衛は、ほんとうに蝶が韃靼海峡を渡っていったのを見たわけてはなく、「ことば」としてそう書いただけだ。
ここに「ことば」の可能性がある。
「事実」ではなくても、「ことば」は「ことば」にすることができる。それはいったい何なのか。そして、それが「容易」なのは、なぜなのか。その「うそ」(?)を書いてしまう「ことば」のなかには、いったい何があるのか。
まあ、答えのことは、私は考えない。詩のつづきを読んでいく。そのうち「答え」が出てくるかもしれない。
蝶がヨットになることはできます
羽根だけが蟻にひかれて
固土にかげをゆらゆらさせてゆきました
この「ヨット」は「韃靼海峡」のように「事実」ではない。「比喩」だ。
と、書いた瞬間に、私はアレッと思う。「韃靼海峡」が比喩ではないとどうして言える? それが実在するにしろ、そこを実際に蝶が渡っていったのではなく、安西が感じている何かを「韃靼海峡」という比喩にしただけかもしれない。「蝶」だって比喩かもしれない。
そんなことを考え始めたら、私はもともと安西の詩を「現実」ではなく、ある瞬間の心象風景、それ全体が「比喩」であると感じていたことに気がつく。
安西の詩には「現実」などない。もし「現実」があるとしたら、嵩が書いているように、それを書いたとき「一九二六年」だったということだけかもしれない。
蟻にひかれて「ヨット」になる蝶。そのとき蝶は死んでいるのだが、つまり、蝶が「ヨット」に「なる」のではなく、人間の視線(比喩を生み出す意識)が蝶を「ヨット」にしてしまうのだが、嵩は「なる」と書いたので、その「なる」を引き継いで、こう考えるのだ。
胴体のある蝶が生きたまま
生きたままヨットにならなくては
壮大なロマンではないのです、ね
書いていることが「微妙」だね。
どこに焦点をあてれば、「ことば」の運動が、運動として「一貫したもの」になるのか。
「なる」というのは「生きている」ものができること。でも、蝶が「ヨット」に「なる」とき、それは生きていないし、たぶん、胴体もない。蝶が生きたまま「ヨット」に「なる」なら、それは「壮大なロマン」か。いや、死んだあと「ヨット」に生まれ変わるというのも、それは「壮大なロマン」ではないか。
でも、だれにとって?
どうも、「ことば」は蝶のためにあるものではないらしい。人間が勝手に「壮大なロマン」をつくるために動かしているだけのものかもしれない。
じゃあ、その「壮大なロマン」って何なのか。
嵩の「ことば」は転調する。「壮大なロマン」を「夢」と言い換えて(ずらして)、転調する。あ、転調は、「ずれ」のことか。で、ことばは「ずらされる」のだが「ずらされ」てもつづいてしまう。
ある朝夢から覚めてみると
ヒトが巨大な虫になっておりました
それはできたのです
やったヒトがいます
カフカの「変身」だね。
それは「なる」ことが「できた」のか。「やった」ことなのか。カフカはそれを書いたが、主人公が「なった」わけでも「やった」わけでもないだろうなあ。
でも、なぜ、そんなことを書いたのか。
蝶々が韃靼海峡を渡ったことと同じように、それはわからない。書いた人間にはそれなりの理由があるだろうけれど、読者には、それはわからない。しかし「わからない」といいながら、「わかった」気持ちになる。面倒くさいことに、それが「わかった」と言えるとき、実は、その「わかった」は「わかった」人だけの「わかった」であり、決して他人と「共有」できない。そして、「共有」できないものであると知っているからこそ、だれもが「わかった」と言う。つまり、その作品(ことば)を自分のものにしてしまう。
面倒くさいぞ。
蝶がヨットになるのは難儀です
とてもやっかいです
まずはベッドがない
夢から覚めてみるべきベッドがありません
私が「面倒くさい」と書いたことを、嵩は「難儀」と書き、「やっかい」と書き直している。
「ことば」とは、「夢」なのだ。でも、その「夢」は覚めてから語る夢なのだ。覚めないと語れない「夢」なのだ。どこかに「矛盾」があり、「矛盾」があることによって、はじめて「真実/事実」になるような運動が「ことば」のなかで動いている。
人間は「ことは」に「へんしん」する存在なのかもしれない。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com