詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(51)

2020-05-09 21:57:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (文字からなにがいちばん遠いか)

生命から剥がされた時刻もしだいに色褪せてくる
もうはるか彼方という時間ではない

 非常ににわかりにくい。「文字」と「時刻」が「生命」ということばをとおして向き合っている。「時刻」は「時間」とも言い直されている。
 「生命から剥がされた時刻」とは「記憶」のことだろうか。「文字」は「記憶(思い出)」を記録する。しかし、その「記録」が色褪せてくる。「記憶」が色褪せてくる。
 そのために「記憶/記録」が「遠い」ものに感じられる。「彼方」へ言ってしまったように感じられる。
 でも「はるか彼方」とは言えない。
 「いちばん遠い」のに「はるか彼方」では「ない」。この矛盾に哀しみがある。色褪せるけれど「消える」のではない。「記憶」は消えるが「記録/文字」は消えない。
 ことばで特定できないところを、ことばはさまよっている。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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Estoy loco por espana(番外篇55)Joaquinの作品

2020-05-09 17:39:25 | estoy loco por espana


la obra de Joaquin

Si lo que vi ayer es "mu'sica del bosque", este trabajo representa "mu'sica del mar".
Una ola que rompe la superficie del mar y se eleva.
Una ola que lo suprime y trata de devolverlo al fondo del mar.
Los movimientos se cruzan. Y nace un ritmo.
Cuando los dos movimientos antagonizan, el horizonte del Mediterra'neo se extiende para siempre.
Como mu'sica.

きのう見たのが「森の音楽」を表現しているとしたら、この作品は「海の音楽」をあらわしている。
海面を突き破って立ち上がる波。
それを抑え込む波。
海の底へひきもどそうとする波。
交叉する動き、リズム。
二つの動きが拮抗したとき、地中海の水平線はどこまでもどこまでもひろがって行く。
そのひがりを感じさせる音楽。

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なぜ、いまごろ?

2020-05-09 09:56:40 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ、いまごろ?
       自民党憲法改正草案を読む/番外350(情報の読み方)

 2020年05月09日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

コロナ受診新目安/「息苦しさ」すぐ相談/「37・5度」削除

 この記事を読んでいちばん疑問に思うのは、「なぜ、いまごろ」かということ。
 「緊急事態宣言」はたしかに延長された。しかし14日にも、一部を見直すと報道されている。さらに24面には、

国内感染89人

 とあり、記事には

都内では39人の感染が確認され、6日連続で1日あたりの感染者が100人を下回ったとある。

 さらに、

都内陽性率7・5% PCR検査

 という見出しで、こう書いてある。

今月7日までの7日間の平均は7・5%だった。4月中旬に31・6%でピークに達して以降は下落傾向が続いている。

 ふつうに読むと、コロナ感染者は減っている。そういう状況のなかで、なぜ、わざわざ「受診しやすいように」するのか。感染者が減っているということは、受診希望者も減っているはずだ。
 親切に(?)考えれば、感染者は減っているが、完全に終息したわけではない。感染者を治療し、感染の拡大を防ぐことが大切だ。だから、疑問に思ったらすぐに受診しようという「呼びかけ」に読める。
 しかし、私は、これまでの動き、「医療崩壊の危機」を叫んでいた「医療現場」のひとのことを考えると、そうは思えない。「医療崩壊の危機」を叫んでいた人の主張は、「感染者かどうかわからない人が押し寄せると、ほかの治療ができなくなる。受診者に感染者がいる場合、態勢が整っていないと院内感染の恐れがある」というものだったと記憶している。
 でも、これからは?
 感染者は減りつつある。だから「医療崩壊の危機」はない。だから「受診して」。
 うがった見方をすれば、これは、「院内感染をおそれて(病院へ行くと感染するのではないかと恐れて)患者が減っている。金もうけにならない。困った。もっと、受診に来て」といっているように見える。
 「医療崩壊の危機」を叫んでいた医者は、単に金もうけがしたいだけなのだ。
 全国で、保健所や病院が統廃合されているのも、医者の数を減らすこと、逆に言うと医者一人当たりの患者を維持することで、収入を維持する、あるいはアップさせることが目的だろう。国民の健康と安全のためなら、医師ひとりあたりの患者数は少ない方が、はるかにていねいな検診・治療ができるだろう。患者から言わせると、そうなる。しかし、そうなると、医師の側から見れば、収入が減る、それは困る、ということなのだろう。医師の過剰は困る、と。そういう「医師会」の要請を受けて、病院の統廃合、保健所の統廃合は進んでいるのだろう。自民とにとって「医師会」は支持母体である。だから、その言い分を聞く。
 簡単に言い直すと、患者と医師の関係(人数のバランス)を保ち続けたい。そういう「意図」を私は感じてしまうのである。
 これは、これまでの「医療崩壊の危機」を叫んでいた医師の行動を見てもわかる。感染症の危険を指摘し、中国のように病院をつくれ、韓国のように安全な検査体制を確立し、より多くの検査を実施できるシステムをつくれ、と要求した医師の存在を知らない。(いたのかもしれないが。報道されないだけかもしれないが。)「医療崩壊の危機」を叫ぶ医師は、「感染しても8割は軽症。家にいればいい」と言っていた。感染したら、ヨーロッパの例では1割以上が死んでいる。そういう現実を見ながら、「8割は軽症」の方に重きをおいている。

 だいたい最初に「受診の目安(37・5度が4日つづく)」を出したのは2月である。いまはもう5月だ。3か月間、多くの国民が「目安」はおかしいと訴え続けているのに知らん顔をしている。それが、「感染が減り始めた」(このことには私は疑問をもっているが)いま、「目安」を緩和する。この動き自体が、変だろう。
 変えるなら変えるで、さいしょの「目安」が間違っていたと謝罪して変更しないといけない。加藤厚労相は国民と保健所が「誤解」した、「ぼくちゃんは悪くない」と言い放っている。国民と保健所に責任を押しつけている。
 感染が原因で死んでいる人が大勢いるのに、である。
 終息したら、絶対に「国家賠償請求訴訟」が起きるだろう。起こさないといけない。適切な対応をとらなかった安倍政権の責任をとわないといけない。中国、韓国の、成功例があるのに、それをみならわなかった。感染拡大を放置し、国民を死に至らしめたという「未必の故意」が問われなければならない。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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