詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(61)

2020-05-31 22:06:25 | 嵯峨信之/動詞
月の出に泳ぐ女

一日のひろい布を縫うために
ぼくの心からぬけだした女が泳いでいる

 海を「一日のひろい布」と言い直し、「縫う」を「泳ぐ」という動詞で言い直す。二行の中で比喩が交錯して、世界を立体的にする。
 その間にはされまた「ぬけだした(ぬけだす)」という動詞の動きがおもしろい。
 「縫う」と「閉じこめる」につながる。
 ここには、だから「矛盾」があるのだが、矛盾があるために、イメージが固定化されない。いきいきと動く。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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Estoy loco por espana(番外篇69) Fermin Garcia Sevilla

2020-05-31 21:23:18 | estoy loco por espana


Fermin Garcia Sevilla
“Homenaje a Lopez Torres”

Tengo la impresio’n de que Espan’a es un pai’s de luz.
Fermin tambie’n pinta luz, pero la impresio’n es bastante diferente de la luz del mar Mediterra’neo de Sorolla.
La luz de Fermin tiene hu’medo como la luz de Japo’n.
Aunque es la luz, pero tiene una sombra.
Puede ser posible reformular esto.
La luz de Fermin es la luz negra.
La luz de Sorosa es blanca, pero la luz de Fermin es negra.
La luz negra penetra en el verde de la hierba y calma el mundo.
Tengo la impresio’n de que todos los seres o existencias esta’n firmemente conectados a la tierra.
Incluso el agua de la fuente parece haber decidido que el lugar para regresar es la tierra.


スペインは光の国という印象がある。
フェルミンも光を描いてはいるが、その印象はソロージャの地中海の光とはずいぶん違う。
日本の光のように湿っている。
光なのに陰影がある。
あるいは黒い光と言えばいいのかもしれない。
ソロージャの光が白いが、フェルミンの光は黒い。
そして、その黒い光は、草の緑のなかに侵入して行き、世界を落ち着かせる。
あらゆる存在が大地としっかりつながっているという印象がする。
噴水の水さえ、変える場所は大地と決めているように感じられる。

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だれが命令したのか。(その2)

2020-05-31 11:08:45 | 自民党憲法改正草案を読む
ブルーインパルスの続報が「日刊スポーツ」に載っている。
https://www.nikkansports.com/general/news/202005300000402.html?fbclid=IwAR1OBgmMDU9_mx-3tD1IsznNu-hGdqFjMZG783UVp2K7SzNZM7yqHVN03XQ

「プロセスはどうでもいいだろうと思う」
フライトを直前に控えた当日の記者会見。河野太郎防衛相は概要や趣旨を説明する傍ら、誰が発案したのか問われると、こうはぐらかした。丸茂吉成航空幕僚長も飛行後の記者会見で「飛行することが重要で、プロセスは控えたい」と述べた。
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これは大問題だろう。
動いたのは自衛隊の飛行機である。軍用機である。
指揮系統がどうなっているか、だれが飛行を命令したのかは「どうでもいい」ことではない。
「どうでもいい」と発言した段階で、河野は憲法違反をしている。
丸も同じだ。もし、命令したのが丸ならば、軍の暴走である。丸は、それを実行したことになる。

また、もうひとつ論理的な問題がある。
「プロセスはどうでもいい」(だれが命令したかはどうでもいい)という人は、「目的」と「結果」が大事なのだといいたいのだと思う。
「新型コロナウイルス対応に当たる医療従事者への感謝と敬意を示す」ということが「目的」であり、それが大事だといいたいのだと思う。
だが「目的」とか「大事」というのは、あとから付け足すことができるし、変更もできる。
つまり、最初の「目的」は、安倍が自衛隊を指揮する(安倍が自衛隊に命令を出し、それを安倍が実行する)ことで、安倍が「自分は最高の責任者だと実感する」ということだったかもしれない。
ところが批判が高まったので、「新型コロナウイルス対応に当たる医療従事者への感謝と敬意を示す」という「目的」に変更することができる。
今回の場合、日刊スポーツによると、「フライトを直前に控えた当日の記者会見」で河野が「プロセスはどうでもいいだろうと思う」で語ると同時に「概要や趣旨」を説明しているから、私の書いてるような「後出しじゃんけん」のによる「目的の変更」ではないが、ほんとうに「後出しじゃんけん」でないかどうかは、疑問が残る。
つまり①安倍がブルーインパルスに飛行命令を出したい(自分に自衛隊が指揮できることを実感したい。指揮することで国民に最高責任者である、と宣伝したい)と言う。
②だれかが、ブルーインパルスを飛ばすには、もっと別な「理由(目的)」が必要であると指摘する。
③コロナが終息しつつある。国民を健康を支えた医療関係者に対して感謝するという「目的」にすればいい、と提言すする。(そうすれば、安倍への評価も高まる、と提言する)
ということだったかもしれない。
ただし、その「議論のプロセス」を記録した「議事録」は存在しない。
で、もし、そうだとすると、ここから、いま日本で起きていることの「すべて」が見えてくる。
あらゆることが「安倍の独断」で決定する。
「議事録」は残さない。「議事録」を残さないことで、あらゆる行動の「目的」は「後出しじゃんけん」のように、国民の反応をみてから「変更する」ということが起きる。
安倍の都合が悪くなれば、安倍は「ぼくちゃん何も知らない。決めたのはぼくちゃんじゃない」と言い逃れる。
こういうことが「軍隊(自衛隊)」に関しても起きている。

これが「戦争」につながらない、とだれが言えるだろうか。「軍隊の暴走」につながらないと、だれが言えるだろうか。
ブルーインパルスではなく、戦闘機が隊列を組んで、中国・武漢の上空を飛ぶ。
「目的」はコロナウィルスを封じ込めることに最初に成功した中国の医療チームに感謝と敬意をあらわすためである。
戦闘機にしたのは、もし中国から攻撃を受けた場合、応戦する必要があるからである。
奇妙な「論理」、中国からは絶対に受け入れてもらえない「理由/目的」だが、こういう非常識な「論理」がなりたってしまうのが「後出しじゃんけんの論理」なのである。
「言い逃れの論理」なのである。

私は、きのうのブログを、「日刊スポーツ」に書かれていることを知らずに書いたが、「日刊スポーツ」を読む限り、多くの記者がプルーインパルスの飛行を前に、問題点を認識していたことになる。
しかし、その「認識」は飛行を報道する30日の朝刊(私が読んだのは毎日新聞と西日本新聞だったと記憶している)には載っていなかった。(読売新聞・西部版には掲載されていなかった。)
新聞は、すでに記者が疑問に思ったことを記事にするという視点を失ってしまっている。
このことにも私は、失望するし、非常に驚いている。
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