ジュリアス・オナー監督「ルース・エドガー」(★★+★)
監督 ジュリアス・オナー 出演 ナオミ・ワッツ、ティム・ロス、ケルヴィン・ハリソンJr
ナオミ・ワッツとティム・ロスが夫婦というのは、あり得ない。私は、そう思うのだが、この「思い込み」は「偏見/先入観」である。「偏見/先入観」がテーマである映画を、私は「偏見/先入観」をかかえたまま見に行くのである。
なぜ、ナオミ・ワッツとティム・ロスが夫婦が夫婦であってはいけないのか。
ナオミ・ワッツは「透明」である。ティム・ロスは「不透明」である。そんなふたりが夫婦なら、そこで起きることは「透明/不透明」の間をゆらぎつづけ、最後はナオミ・ワッツが「不透明」になり、ティム・ロスが「透明」になるということが、あらかじめ予測できてしまうからである。
これは「偏見/先入観」というよりも、「定型」に属する事柄である。
映画は、この「定型」をどれだけ揺さぶることができるか。それがいちばん問題になるが、揺さぶりきれていない。もちろん、テーマがナオミ・ワッツとティム・ロスの問題ではないのだから、ナオミ・ワッツとティム・ロスの「定型」を揺さぶる必要はない、という見方もできるのではあるけれど。
ちょっと「前置き」長くなったが。
映画を見始めてすぐ、ぜんぜん映画らしくない、と感じる。長い間、映画を見ていないから、映画の「感触」を忘れてしまったのかと思ったが、最後まで映画を見ている気がしない。
最後になって、クレジットで、この映画が「舞台」を脚色したものであることを知らされる。それで、はじめて納得がいく。この映画は、映画ではなく、「舞台」なのだ。つまり、「肉体」よりも前に「ことば」があるのだ。ここで展開されるのは「ことば」のドラマなのだ。
また振り出しに戻るが、ナオミ・ワッツもティム・ロスも「ことば」で演技する俳優ではない。言い直すと、「ことばの論理」を演じる役者ではない。「肉体の論理」を演じる役者である。まあ、だからこそナオミ・ワッツとティム・ロスを夫婦にしたのかもしれない。
ドラマは、ケルヴィン・ハリソンJrと女性教師との間で展開する。その「引き金」になるのがケルヴィン・ハリソンJrの書いたエッセイというのが、「ことば」こそがこの映画のテーマであると語る。
ケルヴィン・ハリソンJrは歴史上の人物の思想を「代弁」する主張をエッセイに書く。そのことばは、ケルヴィン・ハリソンJrの主張なのか、それとも歴史上の人物の思想なのか。その歴史上の人物というのが危険な思想の持ち主の場合、とくに、その識別がむずかしくなる。
いったい、「だれのことば」が人間を動かしているか。
これは非常にむずかしい。もしこのストーリーを「小説」にすると、「ことばはだれのもの」というテーマが浮かびあがりにくくなる。小説では、だれが言ったかという印象よりも、言ったことばそのものが浮かびあがる。芝居だと、つねに目の前に「ことば」を話す人間がいるので、だれが言ったかが前面に出て、「だれのことば」かという問題は背後に隠れる。だからおもしろくなる。言い直すと、「ことばの論理」より前に、いま目の前にいる人間(役者)の存在そのものを判断の基準にしてしまうという「錯誤」が舞台では起きるのだ。
これを、そのまま映画で踏襲している。テーマにしている。
黒人の高校生がいる。成績が優秀でスポーツもできる。ルックスもいい。私たちが彼を判断するとき、何を基準にして判断するのか。「成績(スポーツを含む)」を判断するのは、ひとりひとりの考えではない。ルックスについては「好み」があるが、それにしたって顔だちがととのっている、背が高い、太っていないというような「判断基準」は、何か個人の判断を超えたものを含む。つまり「偏見/先入観」がどこかにある。「偏見/先入観」で見てしまった「人間」を、私たちは少しずつ「修正」していく。
ややこしいのは、この「修正」に、「社会的価値(?)」のような「基準」が作用してくることである。「社会が求める価値」に合致しているから、このひとは人間としてすばらしい、という「評価」が生まれる。ひとは「見かけ」で判断してはいけない、内面(精神、頭脳)を重視して、価値判断すべきである、というのもまた「社会的基準」なのである。「社会的理想」が「人間」に「修正」を迫るのだ。
それは判断するひとに対する作用だけてはなく、判断されるひとについても言える。つまり、「社会的評価」に合致するように行動できるひとを社会は受け入れると判断し、それにあわせるということが起きる。
このとき、だれが正しくて、だれが間違っている?
もし、流通している「社会的評価」のありよう、それを支えるすべてのひとが嫌いだとしたら、ひとはどう行動できる?
これに対する「答え」は、簡単には出せない。だから、映画は「答え」を用意していない。
「Black lives matter」の問題を考えるとき、私たちは、この映画(戯曲)が問いかけているところまで考えないといけないのだということを指摘している。それは、とても重要な指摘だが、やはり「映画」では何か無理がある。「ことば」を「肉体」が隠してしまう部分がある。舞台でこそ、より刺戟が強烈な作品だと思った。
「Black lives matter」が世界的風潮となっているいまではなく、それ以前に見れば、また違った感想(評価)になったかもしれないとも思うが。
(キノシネマ天神、スクリーン3、2020年06月13日)
*
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ちょっと「前置き」長くなったが。
映画を見始めてすぐ、ぜんぜん映画らしくない、と感じる。長い間、映画を見ていないから、映画の「感触」を忘れてしまったのかと思ったが、最後まで映画を見ている気がしない。
最後になって、クレジットで、この映画が「舞台」を脚色したものであることを知らされる。それで、はじめて納得がいく。この映画は、映画ではなく、「舞台」なのだ。つまり、「肉体」よりも前に「ことば」があるのだ。ここで展開されるのは「ことば」のドラマなのだ。
また振り出しに戻るが、ナオミ・ワッツもティム・ロスも「ことば」で演技する俳優ではない。言い直すと、「ことばの論理」を演じる役者ではない。「肉体の論理」を演じる役者である。まあ、だからこそナオミ・ワッツとティム・ロスを夫婦にしたのかもしれない。
ドラマは、ケルヴィン・ハリソンJrと女性教師との間で展開する。その「引き金」になるのがケルヴィン・ハリソンJrの書いたエッセイというのが、「ことば」こそがこの映画のテーマであると語る。
ケルヴィン・ハリソンJrは歴史上の人物の思想を「代弁」する主張をエッセイに書く。そのことばは、ケルヴィン・ハリソンJrの主張なのか、それとも歴史上の人物の思想なのか。その歴史上の人物というのが危険な思想の持ち主の場合、とくに、その識別がむずかしくなる。
いったい、「だれのことば」が人間を動かしているか。
これは非常にむずかしい。もしこのストーリーを「小説」にすると、「ことばはだれのもの」というテーマが浮かびあがりにくくなる。小説では、だれが言ったかという印象よりも、言ったことばそのものが浮かびあがる。芝居だと、つねに目の前に「ことば」を話す人間がいるので、だれが言ったかが前面に出て、「だれのことば」かという問題は背後に隠れる。だからおもしろくなる。言い直すと、「ことばの論理」より前に、いま目の前にいる人間(役者)の存在そのものを判断の基準にしてしまうという「錯誤」が舞台では起きるのだ。
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黒人の高校生がいる。成績が優秀でスポーツもできる。ルックスもいい。私たちが彼を判断するとき、何を基準にして判断するのか。「成績(スポーツを含む)」を判断するのは、ひとりひとりの考えではない。ルックスについては「好み」があるが、それにしたって顔だちがととのっている、背が高い、太っていないというような「判断基準」は、何か個人の判断を超えたものを含む。つまり「偏見/先入観」がどこかにある。「偏見/先入観」で見てしまった「人間」を、私たちは少しずつ「修正」していく。
ややこしいのは、この「修正」に、「社会的価値(?)」のような「基準」が作用してくることである。「社会が求める価値」に合致しているから、このひとは人間としてすばらしい、という「評価」が生まれる。ひとは「見かけ」で判断してはいけない、内面(精神、頭脳)を重視して、価値判断すべきである、というのもまた「社会的基準」なのである。「社会的理想」が「人間」に「修正」を迫るのだ。
それは判断するひとに対する作用だけてはなく、判断されるひとについても言える。つまり、「社会的評価」に合致するように行動できるひとを社会は受け入れると判断し、それにあわせるということが起きる。
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もし、流通している「社会的評価」のありよう、それを支えるすべてのひとが嫌いだとしたら、ひとはどう行動できる?
これに対する「答え」は、簡単には出せない。だから、映画は「答え」を用意していない。
「Black lives matter」の問題を考えるとき、私たちは、この映画(戯曲)が問いかけているところまで考えないといけないのだということを指摘している。それは、とても重要な指摘だが、やはり「映画」では何か無理がある。「ことば」を「肉体」が隠してしまう部分がある。舞台でこそ、より刺戟が強烈な作品だと思った。
「Black lives matter」が世界的風潮となっているいまではなく、それ以前に見れば、また違った感想(評価)になったかもしれないとも思うが。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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