柴田三吉『桃源』(ジャンクション・ハーベスト、2020年06月01日発行)
柴田三吉『桃源』には「母」が出てくる。生きているか、死んでいるのかよくわからない。「介護施設」が出てきたりするから、生きていたこともあったと言うことになる。
よくわからない。古谷鏡子『浜木綿』の感想でも書いたのだが、このよく「わからない」と言う部分には、詩人がそのまま出ているからである。詩人が対象を隠しているからである。詩人の側からだけ、「事実」が書かれている。詩人が見たこと、聞いたことだけが書かれているからである。
そして、私は、こういう「半分」しかわからない「事実」というもの、どうしても隠されてしまう「事実」というものが好きなのだ。
「鳥語」は、こんなふうにはじまる。
これは「比喩」と考えることができる。そしてその「比喩」は、「事実」のあとから、「時系列」を無視してつくられている。つまり、母が「クエクエ」というような奇妙なのどの鳴らし方をはじめた。まるで鳥のようだ。鳥が母ののどにすみついたのだ。
もちろん、そんなことが「現実」にありうるわけではない。柴田の思ったことが母の「現実」を半分隠している。そして、その半分の隠し方に柴田が出ている。
柴田以外の人間なら、老いた女が「クエクエ」と言っているのを見ても、「鳥がのどに棲みつい」たとは思わないかもしれない。苦しそうだ、と思うかもしれない。だいたい、その声が「クエクエ」と聞こえるかどうかも、わからない。
どうして、「クエクエ」と聞こえたのか。どうして「鳥がのどに棲みつい」たと思ったのか。しかも、その鳥は「まっくらな鳥」である。「まっくらな鳥」って、何? 見えない鳥、存在しない鳥である。それは「鳥」というよりも「声」なのだ。「ことば」なのだ。
「繰りかえす」から「クエクエ」という「こどば」として聞こえるようになった。母は柴田に「クエクエ」と繰り返し言い聞かされたたことがあるのだ。
どんなふうに、何を?
それが詩のつづきに書かれている。
むかし、私の田舎では葬式はそれぞれの家でおこなった。仏壇のまわりに供え物が並ぶ。盆を想定してもいいのだが、私は、葬式を思い出した。夏ならば、その供え物もすぐに悪くなる。むかしは冷房もない。食べ物は、もったいないから捨てない。悪くなってしまわないうちに「食えよ」と母が子どもに言う。それは、しかし、おいしいものではない。
子どものとき、柴田は、こういうことをしたことがあるのだ。子どもごころに食べ物をすてることは許されないと意識し、まずいけれど、口に入れる。しかし、呑みこめずに隠した。
いま、たぶん、現実の葬式のさなかに、柴田はそんなことを思い出している。
母を思い出してしまうので、むかしそうしたように、母に従うしかなくなる。「クウヨ、クウヨ」とふところに隠した菓子を食べる。けっして捨てたりはしない。
柴田と母は、そういう関係にあったのだ。
母が柴田をしっかりと「しつけ」た。ものに対する向き合い方を教えた。「食べ物」は食べられる限り「食う」。捨ててはいけない。それは「生きている者」の大事な仕事なのだ。
と、書いて、私は詩をすこし後戻りする。
なぜ、「生きている者が」「食べなければならない」を繰り返したのか。それは母が柴田に教えた「しつけ」の基本であるからだ。なぜ「生きている者が」ということばが強く響くように二度繰り返されているのか。母は「生きている者」ではなくなっているからだ。これは柴田の母の葬式でのできごとなのだ。
葬式の最中に、柴田は、傷んでいく供え物を見た。それを食べたわけではなく、見ただけだと思う。見ただけなのだが、思い出してしまうのだ。母に連れられて行った、だれかの葬式。そのときの供え物。葬式が終わったあと会席者に配られたりする。それを「食え」と言われて、いやいや食べたことがあるのだ。それを思い出している。
そのとき「思い出」は柴田の思い出か。柴田自身の「つらさ」の思い出か。そうではなくて、そこには母の思い出が含まれる。母はこういう人間だったという「思い出」。
柴田にとって、母とは、何よりも食べ物を粗末にするなということを教えた母だったのだ。それを葬式の供え物を食べることと結びつけておぼえている。他のことと結びつけてもいいのだが(たとえば、ごはんをこぼしたら「拾って食え」と叱られたという記憶と結びつけてもいいのだが)、柴田は葬式の供え物と結びつける。柴田の隠しておきたかった母との関係が、隠そうとして、逆にここにあらわれている。
だから、ついつい、柴田は
とこたえなければならないことになる。
この詩は、心底、かなしい。そして、おかしい。おかしいから、よけいにかなしい。
私の「誤読」なのかもしれないが、私には、柴田のことばは「母が死んだ」という事実を隠している。明確に語らずに、その事実を「肉体(ことば/思想)」で隠しながら、母がこう言った、それをおぼえている、と語る。
そのとき隠しているのは、「母が死んだ」という事実だけではなく、柴田は「母を愛していた」という事実を隠している。
クエクエ、クエヨクエヨと言われ「クウヨクウヨ」と追い詰められてる。追い詰められているのは、母を拒絶するからではなく、母を受け入れ、抱きしめるからである。この抱擁に柴田の愛が隠されている。すこしみっともない姿を晒すことで、必死になって、その愛を隠そうとしている。
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柴田三吉『桃源』には「母」が出てくる。生きているか、死んでいるのかよくわからない。「介護施設」が出てきたりするから、生きていたこともあったと言うことになる。
よくわからない。古谷鏡子『浜木綿』の感想でも書いたのだが、このよく「わからない」と言う部分には、詩人がそのまま出ているからである。詩人が対象を隠しているからである。詩人の側からだけ、「事実」が書かれている。詩人が見たこと、聞いたことだけが書かれているからである。
そして、私は、こういう「半分」しかわからない「事実」というもの、どうしても隠されてしまう「事実」というものが好きなのだ。
「鳥語」は、こんなふうにはじまる。
まっくらな鳥がのどに棲みついて
母は鳥のことばをしゃべるようになった
クエ
クエ
これは「比喩」と考えることができる。そしてその「比喩」は、「事実」のあとから、「時系列」を無視してつくられている。つまり、母が「クエクエ」というような奇妙なのどの鳴らし方をはじめた。まるで鳥のようだ。鳥が母ののどにすみついたのだ。
もちろん、そんなことが「現実」にありうるわけではない。柴田の思ったことが母の「現実」を半分隠している。そして、その半分の隠し方に柴田が出ている。
柴田以外の人間なら、老いた女が「クエクエ」と言っているのを見ても、「鳥がのどに棲みつい」たとは思わないかもしれない。苦しそうだ、と思うかもしれない。だいたい、その声が「クエクエ」と聞こえるかどうかも、わからない。
どうして、「クエクエ」と聞こえたのか。どうして「鳥がのどに棲みつい」たと思ったのか。しかも、その鳥は「まっくらな鳥」である。「まっくらな鳥」って、何? 見えない鳥、存在しない鳥である。それは「鳥」というよりも「声」なのだ。「ことば」なのだ。
なにとも知れぬ鳥類のことばで
朝に夕に そう繰りかえすのだ
「繰りかえす」から「クエクエ」という「こどば」として聞こえるようになった。母は柴田に「クエクエ」と繰り返し言い聞かされたたことがあるのだ。
どんなふうに、何を?
それが詩のつづきに書かれている。
夏の盛りというのに
仏壇に供え物が積み上げられていく
日ごとラップの内側で崩れていく
団子や水菓子
クエヨ
クエヨ
生きている者が萎びていくものを
食べなければならない
生きている者が饐えていくものを
食べなければならない
むかし、私の田舎では葬式はそれぞれの家でおこなった。仏壇のまわりに供え物が並ぶ。盆を想定してもいいのだが、私は、葬式を思い出した。夏ならば、その供え物もすぐに悪くなる。むかしは冷房もない。食べ物は、もったいないから捨てない。悪くなってしまわないうちに「食えよ」と母が子どもに言う。それは、しかし、おいしいものではない。
ものが分泌する甘酸っぱいにおいに
喉がつまり 声をうしなう
唾をため 呑みこんだふりをし
いただきましたと懐にかくす
子どものとき、柴田は、こういうことをしたことがあるのだ。子どもごころに食べ物をすてることは許されないと意識し、まずいけれど、口に入れる。しかし、呑みこめずに隠した。
いま、たぶん、現実の葬式のさなかに、柴田はそんなことを思い出している。
熱風のなか腐臭をまとって歩くわたしを
人はいぶかしげに振りかえる
クエヨ
クエヨ
母に似た鳥が畳の目をひっかいて
わたしの喉からことばをひきずりだす
クウヨ
クウヨ
母を思い出してしまうので、むかしそうしたように、母に従うしかなくなる。「クウヨ、クウヨ」とふところに隠した菓子を食べる。けっして捨てたりはしない。
柴田と母は、そういう関係にあったのだ。
母が柴田をしっかりと「しつけ」た。ものに対する向き合い方を教えた。「食べ物」は食べられる限り「食う」。捨ててはいけない。それは「生きている者」の大事な仕事なのだ。
と、書いて、私は詩をすこし後戻りする。
生きている者が萎びていくものを
食べなければならない
生きている者が饐えていくものを
食べなければならない
なぜ、「生きている者が」「食べなければならない」を繰り返したのか。それは母が柴田に教えた「しつけ」の基本であるからだ。なぜ「生きている者が」ということばが強く響くように二度繰り返されているのか。母は「生きている者」ではなくなっているからだ。これは柴田の母の葬式でのできごとなのだ。
葬式の最中に、柴田は、傷んでいく供え物を見た。それを食べたわけではなく、見ただけだと思う。見ただけなのだが、思い出してしまうのだ。母に連れられて行った、だれかの葬式。そのときの供え物。葬式が終わったあと会席者に配られたりする。それを「食え」と言われて、いやいや食べたことがあるのだ。それを思い出している。
そのとき「思い出」は柴田の思い出か。柴田自身の「つらさ」の思い出か。そうではなくて、そこには母の思い出が含まれる。母はこういう人間だったという「思い出」。
柴田にとって、母とは、何よりも食べ物を粗末にするなということを教えた母だったのだ。それを葬式の供え物を食べることと結びつけておぼえている。他のことと結びつけてもいいのだが(たとえば、ごはんをこぼしたら「拾って食え」と叱られたという記憶と結びつけてもいいのだが)、柴田は葬式の供え物と結びつける。柴田の隠しておきたかった母との関係が、隠そうとして、逆にここにあらわれている。
だから、ついつい、柴田は
クウヨ
クウヨ
とこたえなければならないことになる。
この詩は、心底、かなしい。そして、おかしい。おかしいから、よけいにかなしい。
私の「誤読」なのかもしれないが、私には、柴田のことばは「母が死んだ」という事実を隠している。明確に語らずに、その事実を「肉体(ことば/思想)」で隠しながら、母がこう言った、それをおぼえている、と語る。
そのとき隠しているのは、「母が死んだ」という事実だけではなく、柴田は「母を愛していた」という事実を隠している。
クエクエ、クエヨクエヨと言われ「クウヨクウヨ」と追い詰められてる。追い詰められているのは、母を拒絶するからではなく、母を受け入れ、抱きしめるからである。この抱擁に柴田の愛が隠されている。すこしみっともない姿を晒すことで、必死になって、その愛を隠そうとしている。
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評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
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