詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柴田三吉『桃源』

2020-06-08 16:43:17 | 詩集
柴田三吉『桃源』(ジャンクション・ハーベスト、2020年06月01日発行)

 柴田三吉『桃源』には「母」が出てくる。生きているか、死んでいるのかよくわからない。「介護施設」が出てきたりするから、生きていたこともあったと言うことになる。
 よくわからない。古谷鏡子『浜木綿』の感想でも書いたのだが、このよく「わからない」と言う部分には、詩人がそのまま出ているからである。詩人が対象を隠しているからである。詩人の側からだけ、「事実」が書かれている。詩人が見たこと、聞いたことだけが書かれているからである。
 そして、私は、こういう「半分」しかわからない「事実」というもの、どうしても隠されてしまう「事実」というものが好きなのだ。
 「鳥語」は、こんなふうにはじまる。

まっくらな鳥がのどに棲みついて
母は鳥のことばをしゃべるようになった

クエ
クエ

 これは「比喩」と考えることができる。そしてその「比喩」は、「事実」のあとから、「時系列」を無視してつくられている。つまり、母が「クエクエ」というような奇妙なのどの鳴らし方をはじめた。まるで鳥のようだ。鳥が母ののどにすみついたのだ。
 もちろん、そんなことが「現実」にありうるわけではない。柴田の思ったことが母の「現実」を半分隠している。そして、その半分の隠し方に柴田が出ている。
 柴田以外の人間なら、老いた女が「クエクエ」と言っているのを見ても、「鳥がのどに棲みつい」たとは思わないかもしれない。苦しそうだ、と思うかもしれない。だいたい、その声が「クエクエ」と聞こえるかどうかも、わからない。
 どうして、「クエクエ」と聞こえたのか。どうして「鳥がのどに棲みつい」たと思ったのか。しかも、その鳥は「まっくらな鳥」である。「まっくらな鳥」って、何? 見えない鳥、存在しない鳥である。それは「鳥」というよりも「声」なのだ。「ことば」なのだ。

なにとも知れぬ鳥類のことばで
朝に夕に そう繰りかえすのだ

 「繰りかえす」から「クエクエ」という「こどば」として聞こえるようになった。母は柴田に「クエクエ」と繰り返し言い聞かされたたことがあるのだ。
 どんなふうに、何を?
 それが詩のつづきに書かれている。

夏の盛りというのに
仏壇に供え物が積み上げられていく

日ごとラップの内側で崩れていく
団子や水菓子

クエヨ
クエヨ

生きている者が萎びていくものを
食べなければならない

生きている者が饐えていくものを
食べなければならない

 むかし、私の田舎では葬式はそれぞれの家でおこなった。仏壇のまわりに供え物が並ぶ。盆を想定してもいいのだが、私は、葬式を思い出した。夏ならば、その供え物もすぐに悪くなる。むかしは冷房もない。食べ物は、もったいないから捨てない。悪くなってしまわないうちに「食えよ」と母が子どもに言う。それは、しかし、おいしいものではない。

ものが分泌する甘酸っぱいにおいに
喉がつまり 声をうしなう

唾をため 呑みこんだふりをし
いただきましたと懐にかくす

 子どものとき、柴田は、こういうことをしたことがあるのだ。子どもごころに食べ物をすてることは許されないと意識し、まずいけれど、口に入れる。しかし、呑みこめずに隠した。
 いま、たぶん、現実の葬式のさなかに、柴田はそんなことを思い出している。

熱風のなか腐臭をまとって歩くわたしを
人はいぶかしげに振りかえる

クエヨ
クエヨ

母に似た鳥が畳の目をひっかいて
わたしの喉からことばをひきずりだす

クウヨ
クウヨ

 母を思い出してしまうので、むかしそうしたように、母に従うしかなくなる。「クウヨ、クウヨ」とふところに隠した菓子を食べる。けっして捨てたりはしない。
 柴田と母は、そういう関係にあったのだ。
 母が柴田をしっかりと「しつけ」た。ものに対する向き合い方を教えた。「食べ物」は食べられる限り「食う」。捨ててはいけない。それは「生きている者」の大事な仕事なのだ。

 と、書いて、私は詩をすこし後戻りする。

生きている者が萎びていくものを
食べなければならない

生きている者が饐えていくものを
食べなければならない

 なぜ、「生きている者が」「食べなければならない」を繰り返したのか。それは母が柴田に教えた「しつけ」の基本であるからだ。なぜ「生きている者が」ということばが強く響くように二度繰り返されているのか。母は「生きている者」ではなくなっているからだ。これは柴田の母の葬式でのできごとなのだ。
 葬式の最中に、柴田は、傷んでいく供え物を見た。それを食べたわけではなく、見ただけだと思う。見ただけなのだが、思い出してしまうのだ。母に連れられて行った、だれかの葬式。そのときの供え物。葬式が終わったあと会席者に配られたりする。それを「食え」と言われて、いやいや食べたことがあるのだ。それを思い出している。
 そのとき「思い出」は柴田の思い出か。柴田自身の「つらさ」の思い出か。そうではなくて、そこには母の思い出が含まれる。母はこういう人間だったという「思い出」。
 柴田にとって、母とは、何よりも食べ物を粗末にするなということを教えた母だったのだ。それを葬式の供え物を食べることと結びつけておぼえている。他のことと結びつけてもいいのだが(たとえば、ごはんをこぼしたら「拾って食え」と叱られたという記憶と結びつけてもいいのだが)、柴田は葬式の供え物と結びつける。柴田の隠しておきたかった母との関係が、隠そうとして、逆にここにあらわれている。
 だから、ついつい、柴田は

クウヨ
クウヨ

 とこたえなければならないことになる。

 この詩は、心底、かなしい。そして、おかしい。おかしいから、よけいにかなしい。
 私の「誤読」なのかもしれないが、私には、柴田のことばは「母が死んだ」という事実を隠している。明確に語らずに、その事実を「肉体(ことば/思想)」で隠しながら、母がこう言った、それをおぼえている、と語る。
 そのとき隠しているのは、「母が死んだ」という事実だけではなく、柴田は「母を愛していた」という事実を隠している。
 クエクエ、クエヨクエヨと言われ「クウヨクウヨ」と追い詰められてる。追い詰められているのは、母を拒絶するからではなく、母を受け入れ、抱きしめるからである。この抱擁に柴田の愛が隠されている。すこしみっともない姿を晒すことで、必死になって、その愛を隠そうとしている。





*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(67)

2020-06-08 10:50:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (長椅子に横になっている)

さまざまな想いは
時とはもう少しもつながらない

 「もう」ということばにつまずく。かつては「時」とつながっていた。しかし「いまは」もうつながらない。「もう」のなかに「時」そのものがある。「時」のなかにを意識が動いていることになる。
 一種の反復である。
 そして反復するものだけが「少し」ということばを見つけ出すのだ。だから「少し」のなかにも「時」がある。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄県議選を、どう「読む」か。

2020-06-08 09:52:14 | 自民党憲法改正草案を読む
沖縄県議選を、どう「読む」か。
       自民党憲法改正草案を読む/番外361(情報の読み方)

 沖縄県議選(定数48)が開票された。2020年06月08日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

沖縄県議選/知事派 過半数維持/「辺野古」国と対峙継続へ

 これが今回の選挙結果の「要約」である。
 知事派25議席、反知事派21議席、中立2議席。(告示前は知事派26議席、反知事派14議席、中立6議席、欠員2)。
 これを受けて26面に関連記事と解説が載っている。

知事「何とか過半数」/翁長元知事次男が初当選

 一面の見出しになっていた焦点の「辺野古」については、知事はこう語っている。

 「辺野古反対の訴えはしっかり伝わっていると思う」と強調した。

 今回の選挙のポイントは何よりも「辺野古」。しかし、その焦点のポイントをずらす形で見出しがとられている。見出しに間違いがあるというのではないが、焦点ずらしがおこなわれている。
 翁長元知事次男は「父が残した『オール沖縄』の立場で、玉城県政をしっかり支える」と語っている。つまり「辺野古反対」の姿勢を支持すると語っている。
 「翁長元知事次男が初当選」という見出しの「意味」は、「辺野古反対」に対する強力な支援ということになるが、「辺野古」のことばがないので、見出しを読んだだけでそれがどれだけ伝わるかは判然としない。つまり、間接的に「辺野古」を隠すことになっている。
 これを受けての解説の見出しは、

知事派 磐石とは言えず

 「磐石」が何を意味するかは定義がむずかしい。しかし、「中立派」を加えなくても「過半数」なのだから「脆弱」とは言えない。
 問題は。
 「辺野古 国と対峙継続へ」→「何とか過半数」→「磐石とは言えず」
 という、見出しの「構成」である。このままつづけて読むと、「辺野古反対」という県議会の意思は、いまは「過半数」だけれど、「磐石」なものではなく、やがて国の方針にあわせて変わることが考えられる、と読める。
 選挙直後なのに、県民の意思を読み取るのではなく、県民の意思を誘導しようとしている。国の方針にしたがって辺野古基地を完成させる。そして国からの経済支援で沖縄経済を立て直すのがいい、と誘導している。
 自民党県幹部から、こんなことばを聞き出している。

 「コロナで県の経済が打撃を受けている(略)。2年後の知事選を見据え、中央とのパイプがある自民党にしか経済の立て直しができないと訴えていく」

 ここには「辺野古」のことばはない。
 そして、「解説(沖縄支局長 寺垣はるか)」は、こう結んでいる。

 沖縄は2年後に本土復帰50年の節目を迎える。基地問題について知事はこれまでのように政府と対立するだけでなく、現実を見据えながら負担軽減につなげていくべきである。

 「現実」って何? 何の現実? ここには、自民党県幹部が言った「経済」ということばが隠されている。

沖縄県民が基地の負担に苦しんでいるという現実を見据えながら

 ではなく、

沖縄県への経済的支援がないために、沖縄県経済が停滞しているという現実を見据えながら

 というのが、寺内が引き継いでいる「文脈(論理)」である。そして、こうやって「ことば」を補ってみるとわかるのだが、寺内の論理は論理になっていない。
 もう一度、「ことば」を補いなおしてみる。

①「沖縄県への経済的支援がないために、沖縄県経済が停滞しているという」現実を見据えながら、②「米軍基地が沖縄の負担になっている、その」負担軽減につなげていくべきである。(③基地を受け入れることで、国の経済支援を引き出すべきである。)

 ①では経済的停滞という「経済」の現実がテーマ、②では基地が沖縄に集中しているという「防衛(?)」がテーマ。別個のものが、同じものであるかのように結びつけられている。③を補うと、寺垣の主張が、自民党県幹部のことばに重なる。
 しかし、沖縄経済を活性化するために国の支援が必要ならば、それを要求すればいい。経済支援を要求するなら基地を受け入れろというのは違うだろう。経済と防衛は別問題である。
 多くの自治体が国の経済的支援(経済政策)を頼りにしている。しかし、そのかわりに基地を受け入れているというのは、具体的には、どの自治体があるのか。そう考えれば①②は別個の問題であるとわかる。
 それなのに、寺垣は、ことばを省略することで「論理」をねじまげ、世論を誘導しようとしている。「結論」も、あえて書かずに「暗示」することで、逃げている。明確に書けば、沖縄県民から批判がくるだろう。

 「論理」というのは、いつでも「みせかけ」にすぎない。どうとでも書けるものなのだ。
 たとえば、私なら、寺垣の書いた最後の文章をこう書く。

 沖縄は2年後に本土復帰50年の節目を迎える。県議選で「辺野古反対」という県民の意志が明確に示されたのだから、基地(辺野古)問題について政権(安倍)はこれまでのように沖縄県民の意思を無視し、沖縄県民(沖縄知事)と対立するだけでなく、沖縄にとって基地があらゆる面で重圧になっているという現実を見据えながら、基地負担軽減につなげていくべきである。基地負担が経れば、経済活動も新しい局面を展開できるだろう。基地のない沖縄の経済活性のためにも、国(安倍政権)は沖縄県民に寄り添い、積極的な支援をすべきだろう。

 あえて、ごちゃごちゃと長く書いたが、こう書けば「経済」と「基地」の関係が明確になるだろう。沖縄県民が求めているものが明確になるだろう。
 新聞(ニュース)は「客観的」事実を伝えるもの、であるはずだが、どんな「ことば」も「客観的」ではありえない。いつでも「主観的」だ。報道されていることはいつでも「主観的」事実にすぎない。書かれていることばから「主観」を排除し、自分のことばで語りなおしてみることが、いま、必要だと思う。
 もちろん私の「ことば」も「主観的」である。
 実際に「取材」しているわけでもないし、ニュースからつかみとれる「事実」はかぎられており、それを私は「主観的」に組み立てなおしているだけなのだが。
 「主観」は「間違える」。だが、「主観」は、だれかの「ことば」にはだまされない。私は、「だまされた」といいなくないので、自分のことばで言い直してみる。私は無知だから「間違える」ことには慣れている。批判にも慣れている。だが、私は「だまされたくない」。だから、読み直すのだ。このニュースはほんとうのことを伝えているのだろうか、と。









#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする