詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「喝采」「厭世」

2020-06-17 10:30:54 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「喝采」「厭世」(「森羅」23、2020年07月09日発行)

 粕谷栄市「喝采」「厭世」の書き出しを書き写してみる。

 古いでたらめな夢のなかで、何かの間違いがあったら
しい。ある日、おれは、一人の旅役者になっていた。
 片田舎の町や村を、安い木戸銭で興業をして回る、い
わゆる、三文芝居の一座にいたのだ。芝居小屋の前の色
褪せたのぼり旗が、おれの一座の目印だった。     (喝采)

 たぶん、私の長いだらしない生活のせいだ。ある日、
私は、自分が、六十五人の私になっていることに気づい
た。いや、正確には六十六人だったかも知れない。
 何れにせよ、ばかげている。私にとって、生きること
は、苦痛に満ちている。自分一人でも容易でないのに、
六十五人の私になって、どうして、それを耐えることが
できるというのか。                 (厭世)

 書いていることは違うのだが、違うことが書かれている感じがしない。「森羅」に書きつがれてきているこれまでの詩と、どこが違うのか、ということもよくわからない。非常に似ている。あるいは、まったく同じもの、という気がする。
 「六十五人の私」「六十六人の私」。その「差」としての「一人」が常に描かれているのだが、これは「六十五」と「六十六」の違いであって、それはあってないにひとしい。「違い」を指摘することは簡単だが、それではどこが違うかというと、指摘しても無意味だということに気がつく。
 「喝采」では「旅芸人」、「厭世」では「多重人格者(?)」と、「主人公」を定義することはできるだろうが、その定義は「属性」を定義しただけであって、人間の「本質」を定義しているわけではないからだ。
 「本質」の部分が同じなのに「属性」でわけてみても、何もつかみとったとは言えない。こういう考え方は、たぶんに「重要なのは本質である」という哲学の影響であり、もちろん間違いなのだが、間違いを生きるというのが私の癖(本質?)なので、とりあえず、そう書いておく。

 で。
 では粕谷の「本質」、そのことばの「本質」は何か。この詩から、二つのものを引き出すことができる。
 ひとつは「ある日」の「ある」。この「ある日」の「ある」というのは、不特定のものを指す。「何月何日」ではなく、どの日を想像してもらってもかまわないが、ともかく「日(時間)」には違いない。そして、同時にそれは「不特定」でありながら、想像した瞬間に「特定」にかわるという性質を持っている。「ある日」が「何月何日」でもかまわないが、「ある日」を想像した瞬間から、その日は「〇月〇日」であり「△月△日」ではない。「何月何日」が特定されるわけではなく、「想像力」が特定されるのである。つねに、想像した日を想像し続けなければならない。つまり、「ある」は「持続」を強要してくるなにかなのだ。「ある日」が求めてくるのは、「別の日」へと想像力を動かしてはならないということなのだ。
 「ある日」「旅芸人」を想像する。そうすると、その「ある日」からはじまる時間は「旅芸人」を想像し続けなければならない。そこに「持続」というものが生まれる。「ある日」「多重人格者」を想像する。そうすると、その「ある日」につづいていく時間は「多重人格者」であり続けなければならない。「持続」がポイントなのだ。
 もちろん読者は「別の日」「別の人間」を求めることもできるが、それは粕谷の詩を(ことばを)離れてしまうことである。

 そして。
 この「持続」の問題を考えるとき、粕谷の、もうひとつの「本質」が見えてくる。リズムである。ことばのリズム、語り口のリズムが、どの詩においても「同じ」なのである。「本質」とは「永遠に変わらぬもの/いつまでもおなじもの」と定義すれば、粕谷の本質は「語り口のリズム」である。
 その特徴は、飛躍が少ない。同じことが繰り返し語られる。
 「喝采」は「要約」して言えば、旅芸人が舞台で血を吐いて死んでしまう。それを「台芝居」と勘違いした観客が「喝采する」というもの。こんな安直なストーリーなら、いままでも何度も書かれてきたことだろう。
 だが、詩、あるいはことばの「本質」というのは「要約」できるものではない。「要約」からはみだしてしまうものである。
 粕谷はほとんど同じことばを、少しずつ新しい要素を付け加えながら繰り返す。これが粕谷のリズムの基本だ。古いことばを持続しながら、新しいことばで変化をつける。そういう変化を持続し続け、ときには何度も何度も前に書いたこと(過去)を思い出す。過去をひっぱりだす。過去を「いま」にひきずる。そこには「過去の持続」が生まれ、「いま」へと持続させられた「過去」こそが「未来」をあらわすということが起きる。
 時間が「無限」になる。
 「喝采」の最後に「大団円」ということばが出てくるが、粕谷の描いているのはいつも「大団円」を実現するリズムなのである。

 散文にもリズムはあるか、詩は散文よりもリズムを生きる度合いが強い。粕谷の詩は「散文詩」として分類されるものだが、そのことばのリズムは散文とは違う。たとえば鴎外のことばのように、事実をつかみながらどこまでも進み続けるリズムとは違う。鴎外の「渋江抽斎」は渋江抽斎が死んだあとも事実をもとめてことばが動くが、粕谷の「喝采」は旅芸人が死んだあと、さらにその先の「事実」を求めたりはしない。





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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(69)

2020-06-17 08:40:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

現実

時の鍵が失われて
永遠がはじまる

 この「永遠」は、ふつうに言われる「永遠」とは逆である。「時」を超越した「理想」のことではない。むしろ理想から遠い「現実」のことである。

こころの隅の一語も
何一つ身動きができない

 「身動きができない」、「動き」が「ない」。静止している。これが「永遠」であり、それは求めているものではないからこそ「現実」である。
 「動く」とき、そこに必然的に「時」は生まれる。必要なのは「時」なのだ。



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