粕谷栄市「喝采」「厭世」(「森羅」23、2020年07月09日発行)
粕谷栄市「喝采」「厭世」の書き出しを書き写してみる。
書いていることは違うのだが、違うことが書かれている感じがしない。「森羅」に書きつがれてきているこれまでの詩と、どこが違うのか、ということもよくわからない。非常に似ている。あるいは、まったく同じもの、という気がする。
「六十五人の私」「六十六人の私」。その「差」としての「一人」が常に描かれているのだが、これは「六十五」と「六十六」の違いであって、それはあってないにひとしい。「違い」を指摘することは簡単だが、それではどこが違うかというと、指摘しても無意味だということに気がつく。
「喝采」では「旅芸人」、「厭世」では「多重人格者(?)」と、「主人公」を定義することはできるだろうが、その定義は「属性」を定義しただけであって、人間の「本質」を定義しているわけではないからだ。
「本質」の部分が同じなのに「属性」でわけてみても、何もつかみとったとは言えない。こういう考え方は、たぶんに「重要なのは本質である」という哲学の影響であり、もちろん間違いなのだが、間違いを生きるというのが私の癖(本質?)なので、とりあえず、そう書いておく。
で。
では粕谷の「本質」、そのことばの「本質」は何か。この詩から、二つのものを引き出すことができる。
ひとつは「ある日」の「ある」。この「ある日」の「ある」というのは、不特定のものを指す。「何月何日」ではなく、どの日を想像してもらってもかまわないが、ともかく「日(時間)」には違いない。そして、同時にそれは「不特定」でありながら、想像した瞬間に「特定」にかわるという性質を持っている。「ある日」が「何月何日」でもかまわないが、「ある日」を想像した瞬間から、その日は「〇月〇日」であり「△月△日」ではない。「何月何日」が特定されるわけではなく、「想像力」が特定されるのである。つねに、想像した日を想像し続けなければならない。つまり、「ある」は「持続」を強要してくるなにかなのだ。「ある日」が求めてくるのは、「別の日」へと想像力を動かしてはならないということなのだ。
「ある日」「旅芸人」を想像する。そうすると、その「ある日」からはじまる時間は「旅芸人」を想像し続けなければならない。そこに「持続」というものが生まれる。「ある日」「多重人格者」を想像する。そうすると、その「ある日」につづいていく時間は「多重人格者」であり続けなければならない。「持続」がポイントなのだ。
もちろん読者は「別の日」「別の人間」を求めることもできるが、それは粕谷の詩を(ことばを)離れてしまうことである。
そして。
この「持続」の問題を考えるとき、粕谷の、もうひとつの「本質」が見えてくる。リズムである。ことばのリズム、語り口のリズムが、どの詩においても「同じ」なのである。「本質」とは「永遠に変わらぬもの/いつまでもおなじもの」と定義すれば、粕谷の本質は「語り口のリズム」である。
その特徴は、飛躍が少ない。同じことが繰り返し語られる。
「喝采」は「要約」して言えば、旅芸人が舞台で血を吐いて死んでしまう。それを「台芝居」と勘違いした観客が「喝采する」というもの。こんな安直なストーリーなら、いままでも何度も書かれてきたことだろう。
だが、詩、あるいはことばの「本質」というのは「要約」できるものではない。「要約」からはみだしてしまうものである。
粕谷はほとんど同じことばを、少しずつ新しい要素を付け加えながら繰り返す。これが粕谷のリズムの基本だ。古いことばを持続しながら、新しいことばで変化をつける。そういう変化を持続し続け、ときには何度も何度も前に書いたこと(過去)を思い出す。過去をひっぱりだす。過去を「いま」にひきずる。そこには「過去の持続」が生まれ、「いま」へと持続させられた「過去」こそが「未来」をあらわすということが起きる。
時間が「無限」になる。
「喝采」の最後に「大団円」ということばが出てくるが、粕谷の描いているのはいつも「大団円」を実現するリズムなのである。
散文にもリズムはあるか、詩は散文よりもリズムを生きる度合いが強い。粕谷の詩は「散文詩」として分類されるものだが、そのことばのリズムは散文とは違う。たとえば鴎外のことばのように、事実をつかみながらどこまでも進み続けるリズムとは違う。鴎外の「渋江抽斎」は渋江抽斎が死んだあとも事実をもとめてことばが動くが、粕谷の「喝采」は旅芸人が死んだあと、さらにその先の「事実」を求めたりはしない。
*
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粕谷栄市「喝采」「厭世」の書き出しを書き写してみる。
古いでたらめな夢のなかで、何かの間違いがあったら
しい。ある日、おれは、一人の旅役者になっていた。
片田舎の町や村を、安い木戸銭で興業をして回る、い
わゆる、三文芝居の一座にいたのだ。芝居小屋の前の色
褪せたのぼり旗が、おれの一座の目印だった。 (喝采)
たぶん、私の長いだらしない生活のせいだ。ある日、
私は、自分が、六十五人の私になっていることに気づい
た。いや、正確には六十六人だったかも知れない。
何れにせよ、ばかげている。私にとって、生きること
は、苦痛に満ちている。自分一人でも容易でないのに、
六十五人の私になって、どうして、それを耐えることが
できるというのか。 (厭世)
書いていることは違うのだが、違うことが書かれている感じがしない。「森羅」に書きつがれてきているこれまでの詩と、どこが違うのか、ということもよくわからない。非常に似ている。あるいは、まったく同じもの、という気がする。
「六十五人の私」「六十六人の私」。その「差」としての「一人」が常に描かれているのだが、これは「六十五」と「六十六」の違いであって、それはあってないにひとしい。「違い」を指摘することは簡単だが、それではどこが違うかというと、指摘しても無意味だということに気がつく。
「喝采」では「旅芸人」、「厭世」では「多重人格者(?)」と、「主人公」を定義することはできるだろうが、その定義は「属性」を定義しただけであって、人間の「本質」を定義しているわけではないからだ。
「本質」の部分が同じなのに「属性」でわけてみても、何もつかみとったとは言えない。こういう考え方は、たぶんに「重要なのは本質である」という哲学の影響であり、もちろん間違いなのだが、間違いを生きるというのが私の癖(本質?)なので、とりあえず、そう書いておく。
で。
では粕谷の「本質」、そのことばの「本質」は何か。この詩から、二つのものを引き出すことができる。
ひとつは「ある日」の「ある」。この「ある日」の「ある」というのは、不特定のものを指す。「何月何日」ではなく、どの日を想像してもらってもかまわないが、ともかく「日(時間)」には違いない。そして、同時にそれは「不特定」でありながら、想像した瞬間に「特定」にかわるという性質を持っている。「ある日」が「何月何日」でもかまわないが、「ある日」を想像した瞬間から、その日は「〇月〇日」であり「△月△日」ではない。「何月何日」が特定されるわけではなく、「想像力」が特定されるのである。つねに、想像した日を想像し続けなければならない。つまり、「ある」は「持続」を強要してくるなにかなのだ。「ある日」が求めてくるのは、「別の日」へと想像力を動かしてはならないということなのだ。
「ある日」「旅芸人」を想像する。そうすると、その「ある日」からはじまる時間は「旅芸人」を想像し続けなければならない。そこに「持続」というものが生まれる。「ある日」「多重人格者」を想像する。そうすると、その「ある日」につづいていく時間は「多重人格者」であり続けなければならない。「持続」がポイントなのだ。
もちろん読者は「別の日」「別の人間」を求めることもできるが、それは粕谷の詩を(ことばを)離れてしまうことである。
そして。
この「持続」の問題を考えるとき、粕谷の、もうひとつの「本質」が見えてくる。リズムである。ことばのリズム、語り口のリズムが、どの詩においても「同じ」なのである。「本質」とは「永遠に変わらぬもの/いつまでもおなじもの」と定義すれば、粕谷の本質は「語り口のリズム」である。
その特徴は、飛躍が少ない。同じことが繰り返し語られる。
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だが、詩、あるいはことばの「本質」というのは「要約」できるものではない。「要約」からはみだしてしまうものである。
粕谷はほとんど同じことばを、少しずつ新しい要素を付け加えながら繰り返す。これが粕谷のリズムの基本だ。古いことばを持続しながら、新しいことばで変化をつける。そういう変化を持続し続け、ときには何度も何度も前に書いたこと(過去)を思い出す。過去をひっぱりだす。過去を「いま」にひきずる。そこには「過去の持続」が生まれ、「いま」へと持続させられた「過去」こそが「未来」をあらわすということが起きる。
時間が「無限」になる。
「喝采」の最後に「大団円」ということばが出てくるが、粕谷の描いているのはいつも「大団円」を実現するリズムなのである。
散文にもリズムはあるか、詩は散文よりもリズムを生きる度合いが強い。粕谷の詩は「散文詩」として分類されるものだが、そのことばのリズムは散文とは違う。たとえば鴎外のことばのように、事実をつかみながらどこまでも進み続けるリズムとは違う。鴎外の「渋江抽斎」は渋江抽斎が死んだあとも事実をもとめてことばが動くが、粕谷の「喝采」は旅芸人が死んだあと、さらにその先の「事実」を求めたりはしない。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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