詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩村映二『カツベン』

2020-06-30 22:47:36 | 詩集
詩村映二『カツベン』(季村敏夫編)(みずのわ出版、2020年06月25日発行)

 詩村映二は無声映画の「活弁士」という。私は、無声映画を活弁士の語りで見たことがない。だから想像するだけなのだが、こういう仕事は、単に自分のことばを語るだけではなく、観客の反応をみながらことばを変えていかなければならない仕事だと思う。そういう「仕事」でつちかったリズムが、詩にも反映されていると感じる。
 二つの作品がある。

催眠術

少女はパラソルを斜めに廻しながら
ぴかぴか坂路を下りて来ます

一疋の蝶の色彩に移動する白い雲

望遠鏡の中のあかるい遠景が
催眠術にひつかかつてゐます



白日

少女は花びらのやうに日影を流れてゐる。美しい足が
影の中に沈んでしまふかのやうにさうして空一ぱいに
パラソルをさしあげようとしてゐる。一匹の白い白い
蝶が旅のつれづれに、ふとそのパラソルに翅をやすめ
たならば、蝶は哀れにも一本の望遠鏡を欲するであら
う。
 望遠鏡は妖しい夢の世界を見せてくれはしない。け
れども蝶は愚かにも花粉のやうに高く高く飛翔したい
と思ふであらう。

少女の瞳にはパラソルを透して虹色の空が静かに泛ん
でゐた。

 この二篇は同じ世界である。少女と蝶とパラソルと望遠鏡。さらに空の色彩。詩村は、この組み合わせが生み出す世界に愛着があったのだろう。どちらが好きかは、人の好み次第だろう。
 「催眠術」には、私は宮沢賢治の音を感じる。「ぴかぴか坂路を下りて来ます」の「ぴかぴか」や「あかるい遠景」の「あかるい」、「催眠術にひつかかつてゐます」の「ひつかかつて」の「か」の音に、特にそれを感じる。破裂する明るさ。硬質の響き。賢治の「か」である。
 「白日」から感じられるのは、「音の響き」というよりも、「息」のつながり、息がつくりだす「旋律」のようなものである。
 「影の中に沈んでしまふかのやうにさうして」という読点なしの、急いでつないでいくことばや、「白い白い」「高く高く」という同じことばの繰り返し(同じことばだけれど、強弱は違うはずだ)、さらに「翅をやすめたならば、蝶は哀れにも一本の望遠鏡を欲するであらう。」の「……ならば、……らろう」、「けれども蝶は愚かにも花粉のやうに高く高く飛翔したいと思ふであらう。」の「けれども……あらう」の論理的推量展開には、相手の(観客の)反応をみながら、即座にことばを追加する(論理を展開する)口調が感じられる。「哀れにも」「哀しい」「愚かにも」というのは、観客に感情を念押しするような口調である。
 そういう意味では、「白日」の方が、イメージとしては間延びするが、詩村の「肉体」そのものを感じさせる。
 「少女の瞳にはパラソルを透して虹色の空が静かに泛んでゐた。」と「一疋の蝶の色彩に移動する白い雲」を比較すれば、「虹色」と書かれた方が、「白い」と一色しかつかわれていないことば比べると、ことばの強さははるかに弱い。「虹色」と言われたとき、せいぜいが七色しか思い浮かばないのに(あるいは七色を思い出そうとして、七色思い出せないのに気づくのに対して)、「白い」ということばを聞いたときは、白以外の色が炸裂し、反射し、無数の色を瞬間的にかき消していく激しさを感じる。
 そして、そのことばの弱さの中に、観客次第でことばを変えていく、ある意味では迎合していく奇妙な力を感じる。なまなましさを感じる。自分の信じる美よりも、他人が反応する美を尊重するようなところがある。芸術至上主義からいわせれば、それは弱点かもしれないが、ずるくて強い「世間」のようなしぶとさがあり、とてもおもしろい。ことばそれ自体よりも、ことばに対する他人の反応を信じていたのかもしれない。「世渡り」の強さと言うべきか。

 この一冊について語るとき、季村敏夫についても語らなければならない。季村は私にとっては、何よりも『日々の、すみか』の詩人である。「出来事は遅れてあらわれる」ということを教えてくれた詩人である。
 その季村はまた『一九三〇年代モダニズム詩集―矢向季子・隼橋登美子・冬澤弦』という本も出している。私は、詩村を知らなかったように、矢向季子、隼橋登美子、冬澤弦を知らない。彼らは、私にとっては「遅れてあらわれた」詩人である。季村は、そういう詩人たちを「遅れた」かたちであるかもしれないけれど、きちんと「あらわれる」ようにことばをととのえる仕事をしている。詩が死なない、ことばは死なない、それはかならず「遅れてあらわれる」。そのときのために、産婆術をほどこしている、といえる。
 こういう仕事を、私たちは忘れてはならないと思う。

 




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(73)

2020-06-30 16:54:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは帰つてきた)

稲妻が宇宙を一方的に横なぐりするような荒野を

 「一方的」を「横なぐり」が言い直している。この暴力が「稲妻」と「宇宙」と「荒野」を強く結びつける。強靱に結びつけるためには「一方的」と「横なぐり」というふたつのことばが必要だったのだ。
 この世界をさらに、

なぜかたつたひとりで

 と言い直す。
 このとき、「ぼく」は「稲妻」か「宇宙」か「荒野」か。区別することはできない。
 区別せずに、一気につかみ取ってしまうのが、詩だ。「ひとり」のなかに「みっつ」の世界が凝縮する。





*

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