詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

神田さよ『海のほつれ』

2020-06-28 09:53:08 | 詩集


神田さよ『海のほつれ』(思潮社、2020年05月01日発行)

 神田さよ『海のほつれ』の「村の春」。

重機の爪
がつん
土をケズル
ケズッテ
除いて
さらに地の間

 「除染」のためである。そうした作業をみつめながら、こんな思いに襲われる。

おれたちなんで
にげるんだっぺか
怒りを
ケズル
ケズル

 「おれたちなんで/にげるんだっぺか」は、何か。疑問だ。疑問からはじまる怒りがある。この疑問は「ひとはなんで/たすけてくれないんだ」に変わる。もちろん「ひと」とは「国」のことである。だが、「ひと」を「国」と言い換えた瞬間に、私は何かに負けている。たぶん「国」に負けている。これは「組織」の問題ではなく、「私個人」の問題なのだ。もちろん私にできることは少ない。私は「おれたちなんで/にげるんだっぺか」というひとに対して何もできない。無力である。無力であることを自覚して、傍にいるだけである。
 書くこと。読んだ、と書くことが、私にできることである。だから、それをする。

 「奏でる壺」にも忘れられないことばがある。

いつからかわたしは壺になって
海の底に没(しず)んでしまった
砂に埋まりもう浮き上がれないだろう
ときおり潮のながれが
わたしを揺さぶる
漏れ出るおと
内耳の水圧
くぐもる響き
声なのかもしれない
吐き出される 人の
かつて聞いたことのある
震える声

 「内耳の水圧」。「水圧」は「声の記憶の圧力」だ。
 「かつて聞いた」ということばには、阪神大震災を体験した神田の思いがある。東日本大震災のときに聞く声は、神田がかつて阪神大震災で聞いた声なのだ。同じ声が、いま繰り返されているのだ。
 「おれたちなんで/にげるんだっぺか」は「疑問の声」だ。それは、ぽつりと漏らされる。その漏らされた「声」が、疑問から怒りに変わり、「吐き出される」。疑問から怒りに変わるときに生まれてくる「圧力」。怒りの圧力によって「くぐもる響き」は明瞭な「声」にかわる。
 これを「論理」と呼ぶ人がいる。
 だが、私は、それを「肉体」と呼びたい。「怒りのことば」は「肉体」そのものである。怒ることによって、人は人として生まれ変わる。東日本大震災の被災者の声が、神田の肉体の中に生き続けている阪神大震災の被害者の声を呼び覚まし、阪神大震災の被災者の声が東日本大震災の被災者の、まだ声になりきれない声、くぐもった響きをことばに整えるよう、寄り添う。
 聞かなければならない。聞いて、聞いて、聞いて、耳の内側から、「くぐもる響き」を発した人に生まれ変わらなければならない。阪神大震災を体験した直後、神田は、やはりくぐもった響きしか発することができなかったのだと思う。
 だれだって、はじめて体験することをことばにはできない。ことばは、あとからやっと体験に追いつくのだ。
 「内耳」は「耳の内側」、「肉体の内部」ということではないが、私は「耳の内側」「耳の奥」「肉体の、まだことばにならないものを抱え込んでいる部分」と「誤読」しながら、そんなことを思うのである。

いつからかわたしは壺になって
海の底に没んでしまった
砂に埋まりもう浮き上がれないだろう

 と神田は書くが、これは「浮き上がらない」という決意でもある。「浮き上がらない」ことが、神田にとって「生まれ変わる」ことなのだ。沈んだまま、その沈んだところで、他者の声を支えるようにして生きる。その他者が、生きている人ではなく死者ならば、なおさらそうしなければならない。
 神田は、そう決意している。

死者たちの声で
ざらざらの表面は膨らんできた
深淵の潮流にのせて
わたしはひび割れた音を
鳴らし続けている

 その「ひび割れた音」は、東日本大震災被災者の声だけではない。阪神大震災の被災者の声だけでもない。よりそって、あわさって、これからもっと強い「怒り」となるための「響き」なのだ。鳴動なのだ。



 




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(71)

2020-06-28 08:33:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
ピノキオと白菖蒲の花

もぎたての果物の匂いのような
性の苦(にが)い匂い

 この果物は完熟した果物ではない。実をつけたばかりの青い果物だろう。青梅の苦さを私は思い出す。「もぎたて」の「たて」(したばかり)ということばのなかに、「若さ」がある。
 一方、逆のことも私は知っている。「完熟」の、その頂点を超えた果物の、甘さの中に隠れている苦さ。腐敗がはじまる寸前の刺戟。たとえば木から落ちる寸前の柿。それは「もぎたて」とは違う。違うのだが、それは、もがないと落ちてしまうものなのだ。
 梅の木も柿の木も、田舎の家の庭にあった。田舎では、性はいたるところに、隠れているのではなく、あからさまにあふれていた。そういうことを思い出した。





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