詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「つばきとの境界で」、池田清子「ピンポン玉」

2020-06-11 11:32:27 | 現代詩講座
青柳俊哉「つばきとの境界で」、池田清子「ピンポン玉」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年06月02)

つばきとの境界で    青柳俊哉

夜の畳のすみで 
八重のつばきの花が
劇的に長い帯状の筋をひいてちっている

うすいピンクの中にフラミンゴ色の線をひいて
しっとり重なっている花びらを拾いあつめ
両手に盛って水盤にはなつ

深紅の草花の簡素な絵柄のうえで
それらの星がざわめいてうかんでいる
人の世界との境界で

翌朝もつづく残響に 
母木( ははぎ) のしたの 真新しい花びらの空間に
それらをかえした

 一連目の「劇的に長い帯状の筋をひいて」がわからない。わからないのは、ここに青柳の「過剰」な思いが込められているからである。なぜ、そんなにこだわって書くのか、これがわからない。わかるのは青柳が散った椿を「劇的」と感じていることだ。
 「帯状の筋をひいて」は二連目で「フラミンゴ色の線をひいて」と言い直されている。「線」と「劇的」は関係があるのかもしれない。青柳には「散った」椿が見えるのではなく、散るときの落下の線、落下する椿が描き出す線が見えるのか。
 三連目で「線」は消える。水盤に放たれた椿は「星」のように、ざわめく。「散る(落ちる)」前、椿は星のように煌めいていたのか。その椿のざわめきを「人の世界との境界で」と青柳は書く。人の世界ではなく、椿の世界でもなく、その「境目」。
 それは、どこにあるのか。
 四連目に「残響」ということばがある。「ざわめく」につながる。
 そしてまた、四連目には「空間」のということばがある。「星」があるのは宇宙の「空間」。「星」と「椿の花びら」が「空間(空)」のなかで重なり合う。「ざわめき」と「残響」も重なり合う。この二重に重なり合う「場」の「接点」「境界」ということになるかもしれない。
 「ざわめき」が整理され「残響」になる。そういう変化を引き起こす「場」としての「境界」。もし「人の世界」を「ざわめき」の世界だとすると、ひと以外が存在する(ひとを超える何かが存在する)世界には「残響」が広がっているのかもしれない。「記憶」のようなものが。何かを思い出させずにはいられないものが。
 その「思い出さずにはいられない何か」に誘われて、青柳はことばを書いている。「劇的」なものは、青柳に何かを思い出させたということになる。
 何か。
 それは、私には、やはりわからないままだった。
 
 この詩について、青柳は、椿が線状に散っていた。それは「銀河(天の川)」のように見えた。それを水盤に放つと星になった。しかし、それは青柳自身の勝手な想像(世界の変更)であって、椿にとって水盤の上に浮かんでいることがいいことなのか、どうかわからない。そのため、翌朝、散った椿を、椿の木にかえした。そういうことを書いたと解説した。
 散った椿、それが「天の川」に見えたということ。それが劇的だったのだ。
 この「劇的」な瞬間と向き合いなおすために、二連目が書かれ、三連目に展開し、四連目までことばが動いていく。
 三連目、四連目に「それら」ということばが出てくる。繰り返されてる。「それら」とは何か。「散った椿の花びら」と言い直すことはできるが、そう言い直した瞬間に消えてしまうものもある。「劇的」と感じた瞬間の思いから、ずれてしまう。
 「ずれ」を拒むために「それら」と抽象的に(論理的に?)、指し示す。
 動きつづける「ことば」、変化し続ける「比喩」は、「それら」としか呼ぶことができないものかもしれない。「自分ではわかっている」、けれど、それを「他人にもわかる」ことばで言い直すというのは、むずかしい。
 試行錯誤して、ことばを書き続けるしかない。


ピンポン玉        池田清子

そわそわ
ざわざわ

壁当てのピンポン玉が
反応を確かめるように
返ってくる

そわそわ
ざわざわ

強く 
返せなくて
ごめん

 新型コロナで外出ができない。運動不足を解消するために、壁に向かって、ひとりでピンポンをしている。そのときのことを書いている。
 一連目、三連目で「そわそわ/ざわざわ」が繰り返されている。これを、ほかのことばで言い直せるか。むずかしい。なんとも思いつかない。「そわそわ」も「ざわざわ」もことばとして知っている。説明がいらないくらい「肉体」にしみついている。だからこそ、言い換えがきかない。
 この言い換えのきかない「そわそわ/ざわざわ」は何をあらわしているのか。
 私は、壁から返ってきたピンポン玉の「気持ち」をあらわしているのだと感じた。ところが、池田は、「コロナのためにどこにもでかけることができない自分自身」の気持ち、こころの声だと言った。
 「そわそわ/ざわざわ」しているから(気持ちが集中していないから)、壁あてピンポンもうまくいかない。そういうことを描いたのだといった。
 私は、「そわそわ/ざわざわ」をピンポン玉の声だと思って読んだ。
 壁に向かって強い玉を打ってこないので、もっといろいろな跳ね返り方かしたいのに、それができない。欲求不満だなあ。それが「そわそわ/ざわざわ」。
 なぜ、私はそう思ったのか。
 ピンポンがネットを挟んでの「対話」だからだ。池田はだれかと「対話」している。人間の相手がいないときは、壁かピンポン玉か、どちらかと対話することになる。
 これは、私が卓球を固定観念で見ているからかもしれない。

 詩人が書きたいと思っていること、読者が読みたいと思うことは、たいていの場合、違う。
 だから、おもしろい。
 みんなが同じことを考えるのではなく、ひとりひとりが違うことを考える。その「違い」に出会うために、詩を読む。






*

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