ワン・シャオシュアイ監督「在りし日の歌」(★★★)
監督 ワン・シャオシュアイ 出演 ワン・ジンチュン、ヨン・メイ
映画はいつでも「いま」を描くものである。
この映画は、中国の「ひとりっこ政策」の時代から「現代」までを、しっかりと俯瞰している。俯瞰している、というのは、「いま」から「過去」をみつめていると言うことである。しかし、この「過去」をみつめるという「動詞」はなかなかやっかいなものである。「思い出した」瞬間、それは「過去」ではなくなる。「いま」になる。40年前が、「きのう」よりも鮮やかに「きょう」のとなりに存在する。それは「いま」を突き破って、「未来」にさえなってしまう。映画のラストシーンは、まさに「それ」である。「過去」が「過去」にとどまっていてくれない。「過去」の「夢」(見たかったけれど、みることのできなかった夢)が、「いま」を突き破って、主役二人の「未来」を語るのだ。その美しい「夢」は、「いま」がどんなに哀しいかを語る。「未来の夢」は「過去」にそれを夢みたときよりも不可能になっている。不可能を知って、それでも「夢みる」という「いま」がある。それは、「過去」を生きるということにつながる。
あ、何が書いてあるか、わからないでしょ?
わからなくて当然なのです。実は、私もわかって書いているわけではないのだから。私がわからずに書いていることが、読んだ人にわかるということは、ありえない。それを承知で、しかし、私は書く。わかりたいから。
と書けば、これがそのまま映画のストーリーにもなる。「事件」のストーリーではなく、主人公たちの「こころのストーリー」になる。
「わかる事実」と「わかることのできないこころ」があり、その「わからないこころ」は「わからない」がゆえに、こころを占領してしまう。これを言い直すと、いま思っていること、それ以外はわからないということになる。
だれもが自分の苦悩だけて手いっぱいになり、自分の行動が相手にどう影響するのか。その結果、社会がどうなるのか。そんなことは、わからない。わかるのは、自分がこんなに苦しんでいるということだけである。そして、だれもがそうなのに、「わかるでしょ?」「知っているでしょ?」と迫る。
そうなのだ。
みんな、「わかる」のだ。わかるから、「わからない」としか言えないところに追い込まれる。ひとは一人で生きているのではないのだから。
この複雑なこころのドラマを、主役の二人が熱演する。後半の、子どもの幼友達の話を聞くシーン、子どもの墓参りをするシーン、そしてラストの電話のシーンでは、思わず涙がこぼれる。とくに、最後の電話のシーンでは、もうスクリーンが見えなくなる。私は中国語がわからないから、字幕を読み間違えているかもしれないが、字幕を読み間違えたいほど(つまり自分の感じを優先させてスクリーンを見てしまうほど)、感動的で美しい。
この映画に問題があるとすれば、あまりにも「ストーリー」になりすぎているということだろう。どこにでもありそうで、どこにもないかもしれない。「特異」すぎるのだ。そして、その「特異」を消すためにカメラが非常に大きな演技をしている。時間の流れの中で、かわらないものがある。たとえば「地形」。あるいは見すてられた「生活の場(古い家/室内)」。これをアップでとらえる。このときのき「アップ」というのは接近してとうよりも、「人間」を小さいな存在として、「人間」よりも「地形」や「室内」を大きなものとして、浮動のものとしてとらえるということである。「大小」そのものでいえば、人間はいつでも小さいが、映画はその小さいはずの人間をスクリーンに拡大し大きくして見せるものである。この映画は、逆をやる。人間はあくまでも小さい存在である。「自然」「地形」「室内(家庭という場)」の方が大きい。それは、ちいさな人間が死んでも、なにもなかったかのようにつづいていく。
そして、ここから、この映画の重要なテーマが浮かびあがる。
ひとりの人間よりも、複数の人間の方が大きい。ひとりの人間の苦悩は、複数の人間によって共有されることによって大きくなり、それは「時間/時代」を超えて存在し続ける。私たちは、ひとりの人間の苦悩を、ひとりの固有のものとしてその個人にまかせてしまうのではなくて、私たちのものとして引き受けていかなければならない。
こういうことは、しかし、わかってはいけないのだ。「わからない」まま、「わからない何か」として、そこに存在しなければならないのだが、カメラが「わかるもの」にしてしまっている。
わたしには、そんなふうに見えた。
コロナ感染拡大の影響で、2か月半ほど映画を見ていなかった。その間に、映画の見方を忘れてしまっているかもしれないが、どうも落ち着かないのである。あまりにも「わかる」が堂々として、そこに存在していることに。まるで、ふるさとの(つまり、熟知した、忘れられない)山や河を見ている感じがするのである。
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と書いたあとで、少し反省。
この映画の、たとえば主人公(夫)が、いつも鍵の束を腰にぶら下げている(「ET」の冒頭に出てくる警官?のように)小道具のつかい方、妻の方はいつも料理をつくっている最中であるとか、人間を浮き彫りにするときのキーワードのようなものをきちんと「演出」しているところは、見ていて非常に気持ちがいい。
こういう「細部」を中心にして語りなおすと、まったく違った映画として見えてくるかもしれない。子どもの墓参りのあと、妻が墓前にそなえた蜜柑(?)を手に取り、皮をむき、半分を夫に渡すシーン、あるいは食事のとき妻が饅頭を半分に割って、その半分を夫に渡すシーンとか。繰り返し繰り返し積み重ねてきた時間が、無言で「日常」を完成させる。その二人がことばを必要としないまま重なるということが、最後の「ことばの重なり」という美しいシーンにつながる。
「ニューシネマパラダイス」のラストシーン。カットされたキスシーンが続けざまに映し出された。あれを見たとき、わたしはやっぱり涙がとまらなかったが、この映画のラストシーンはそれに似ている。このシーンだけ、もう一度、いや、何度でも見てみたいなあ、と思う。
ほんとうは、とてもいい映画なんですよ。
私は、ひさびさに映画を見たので、やっぱり映画についていけていないのだなあ、と思いなおした。
(KBCシネマ1、2020年06月14日)
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