詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤大蔵「春とパルス」、蜆シモーヌ「みっしんぐ」

2020-06-01 19:22:04 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤大蔵「春とパルス」、蜆シモーヌ「みっしんぐ」(「現代詩手帖」2020年06月号)

 新人作品の選者が時里二郎と暁方ミセイに代わった。ふたりはどんな詩を選ぶのだろうか。とても関心がある。

 伊藤大蔵「春とパルス」は時里が選んでいる。

脈をとりますから

ひとさしゆび
なかゆび
くすりゆび
が寄り添ってきて
ひだり手首に止まる
舟底の
流れを聞き取るよう
つよく よわく ちからを変えて
とおく拍動する

 とても美しいリズムだ。署名がなければ、私は、時里が書いたと言っても、信じたと思う。
 「脈をとる」という「動詞(行為)」を「ひとさしゆび/なかゆび/くすりゆび」という具体的な「ことば」にいったん分解して、「寄り添ってきて」「止まる」という動詞に落ち着かせる。そして、この「寄り添ってきて」と「止まる」のあいだに「ひだり手首」という具体的な「ことば」をさしはさむときの、切断と接続のあり方。
 これは時里のリズムそのものである。
 そしてまた、その切断と接続のあとの、「舟底」からの転調、「よわく つよく ちから」のリズム、同じ三音の「とおく」への連続性。
 私はわくわくしてしまった。
 このあとの展開をどう評価するかは、少しむずかしい。
 時里の場合は、「物語/論理」を支えにして、ことばが音とイメージを、ことば自身が楽しむように展開する。そこに「ことばの愉悦」が始まる。
 伊藤のことばの運動も、そういうものをめざしているかもしれない。「おかあさん」と「みなし児」が「物語」の枠組みをつくっている。
 「物語」がはじまると、どうしても、私の場合は「好み」が出てきてしまって、ついていけるものとついていけないものに分かれてしまう。「おかあさん」と「みなし児」では、「脈を取る」という「機械的」ともいえる行動がそのまま「機械的」で終わってしまう。色っぽさがなくなる。
 書き出しの「わくわく」は色っぽいのになあ、と残念な気持ちが先に立ってしまう。言い直すと「物語」の「結末」を読む気がしなくなる。
 「詩」は「物語」ではないから、まあ、気にしなくてもいいのだろうけれど。
 このあたりを、時里はどう読んだのか。選評でこう書いている。「あえて言えば、言葉のかなしさ。言葉自身が、言葉の行方に途方にくれている」。なるほどね。時里なら、違う「物語」のなかで「ことば」に「古典的肉体(文学史的肉体)」を与えるということだろう。「ことば」が「ことばの肉体」をひきついで生きるという方法を与えるということだろう。しかし、伊藤は時里ではないから、違う方法をとる。

 蜆シモーヌ「みっしんぐ」は暁方が選んでいる。

 お指のはらみ
 慰なみ おなみにこなみ お
 ミル貝 みゅるうぽふくら
み みもはむゅれ

 何のことかわからないが「み」の音が印象に残る。「み」の音にひっぱりまわされているうちに、何かを見失う(ミッシング)ということか。見失ったけれど、「み」の音をみつけたから、それでいい、ということか。
 詩はたしかに、なんだかわからないものを見つけてしまい、それにとらわれることだ。だから、見つけたものと見失ったもの、その接続と切断のあいだで自分の「肉体(ことば)」をまかせてみる。その瞬間を生きてみるということを、読者と作者が共有すればいいということなのだろう。
 私は、暁方の詩を、ここまで「音」そのものとして読んだことがなかったので、新鮮な感じがした。あ、暁方の詩を読んでいるわけではないのだから、こういう言い方は奇妙かもしれないが、選んだ詩を読むということは、選んだ人の世界を読むということでもあるのだから、こういう感想も自然に出てきてしまうことになる。
 暁方は、レオナルドマイコ「Re:Re:Re」も選んでいる。

透明な籠が 壊され修繕されもせず
に けばだつままに凍結した   

 と始まっている。「透明」「凍結」の呼応、「籠」や「修繕」という「字づら」に、私は、暁方を感じた。
 投稿者と選者の「戦い」のようなものが、ここから始まる。
 「戦い」のなかで、どんな新しいことばが動き始めるのか。
 とても楽しみだ。



*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(62)

2020-06-01 09:50:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
*  (その色はだれも大事にしているわけではない)

さらにあなたの哀しみのなかにすら
あなたが歩いてくる足音のなかにも忍んでいたことがある

 「哀しみ」と「足音」が「肉体」を浮かびあがらせる。「歩いてくる」と時間を浮かびあがらせる。そして、それが「忍ぶ」につながる。「忍ぶ」のなかに時間があり、「忍ぶ」時間が「哀しみ」なのだ。「忍ぶ」けれども、持ちこたえられないものがあって、「肉体」を歩かせる。「足音」を聞くしかない「哀しみ」。それを「色」に置き換えてみる。
 「大事にする」とは、そんなふうに、ことばをいろいろ動かしてみるということだろう。だれも大事にしないけれど、嵯峨は大事にするのだ。「あなた」の色だから。





*

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