伊藤大蔵「春とパルス」、蜆シモーヌ「みっしんぐ」(「現代詩手帖」2020年06月号)
新人作品の選者が時里二郎と暁方ミセイに代わった。ふたりはどんな詩を選ぶのだろうか。とても関心がある。
伊藤大蔵「春とパルス」は時里が選んでいる。
とても美しいリズムだ。署名がなければ、私は、時里が書いたと言っても、信じたと思う。
「脈をとる」という「動詞(行為)」を「ひとさしゆび/なかゆび/くすりゆび」という具体的な「ことば」にいったん分解して、「寄り添ってきて」「止まる」という動詞に落ち着かせる。そして、この「寄り添ってきて」と「止まる」のあいだに「ひだり手首」という具体的な「ことば」をさしはさむときの、切断と接続のあり方。
これは時里のリズムそのものである。
そしてまた、その切断と接続のあとの、「舟底」からの転調、「よわく つよく ちから」のリズム、同じ三音の「とおく」への連続性。
私はわくわくしてしまった。
このあとの展開をどう評価するかは、少しむずかしい。
時里の場合は、「物語/論理」を支えにして、ことばが音とイメージを、ことば自身が楽しむように展開する。そこに「ことばの愉悦」が始まる。
伊藤のことばの運動も、そういうものをめざしているかもしれない。「おかあさん」と「みなし児」が「物語」の枠組みをつくっている。
「物語」がはじまると、どうしても、私の場合は「好み」が出てきてしまって、ついていけるものとついていけないものに分かれてしまう。「おかあさん」と「みなし児」では、「脈を取る」という「機械的」ともいえる行動がそのまま「機械的」で終わってしまう。色っぽさがなくなる。
書き出しの「わくわく」は色っぽいのになあ、と残念な気持ちが先に立ってしまう。言い直すと「物語」の「結末」を読む気がしなくなる。
「詩」は「物語」ではないから、まあ、気にしなくてもいいのだろうけれど。
このあたりを、時里はどう読んだのか。選評でこう書いている。「あえて言えば、言葉のかなしさ。言葉自身が、言葉の行方に途方にくれている」。なるほどね。時里なら、違う「物語」のなかで「ことば」に「古典的肉体(文学史的肉体)」を与えるということだろう。「ことば」が「ことばの肉体」をひきついで生きるという方法を与えるということだろう。しかし、伊藤は時里ではないから、違う方法をとる。
蜆シモーヌ「みっしんぐ」は暁方が選んでいる。
何のことかわからないが「み」の音が印象に残る。「み」の音にひっぱりまわされているうちに、何かを見失う(ミッシング)ということか。見失ったけれど、「み」の音をみつけたから、それでいい、ということか。
詩はたしかに、なんだかわからないものを見つけてしまい、それにとらわれることだ。だから、見つけたものと見失ったもの、その接続と切断のあいだで自分の「肉体(ことば)」をまかせてみる。その瞬間を生きてみるということを、読者と作者が共有すればいいということなのだろう。
私は、暁方の詩を、ここまで「音」そのものとして読んだことがなかったので、新鮮な感じがした。あ、暁方の詩を読んでいるわけではないのだから、こういう言い方は奇妙かもしれないが、選んだ詩を読むということは、選んだ人の世界を読むということでもあるのだから、こういう感想も自然に出てきてしまうことになる。
暁方は、レオナルドマイコ「Re:Re:Re」も選んでいる。
と始まっている。「透明」「凍結」の呼応、「籠」や「修繕」という「字づら」に、私は、暁方を感じた。
投稿者と選者の「戦い」のようなものが、ここから始まる。
「戦い」のなかで、どんな新しいことばが動き始めるのか。
とても楽しみだ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
新人作品の選者が時里二郎と暁方ミセイに代わった。ふたりはどんな詩を選ぶのだろうか。とても関心がある。
伊藤大蔵「春とパルス」は時里が選んでいる。
脈をとりますから
と
ひとさしゆび
なかゆび
くすりゆび
が寄り添ってきて
ひだり手首に止まる
舟底の
流れを聞き取るよう
つよく よわく ちからを変えて
とおく拍動する
とても美しいリズムだ。署名がなければ、私は、時里が書いたと言っても、信じたと思う。
「脈をとる」という「動詞(行為)」を「ひとさしゆび/なかゆび/くすりゆび」という具体的な「ことば」にいったん分解して、「寄り添ってきて」「止まる」という動詞に落ち着かせる。そして、この「寄り添ってきて」と「止まる」のあいだに「ひだり手首」という具体的な「ことば」をさしはさむときの、切断と接続のあり方。
これは時里のリズムそのものである。
そしてまた、その切断と接続のあとの、「舟底」からの転調、「よわく つよく ちから」のリズム、同じ三音の「とおく」への連続性。
私はわくわくしてしまった。
このあとの展開をどう評価するかは、少しむずかしい。
時里の場合は、「物語/論理」を支えにして、ことばが音とイメージを、ことば自身が楽しむように展開する。そこに「ことばの愉悦」が始まる。
伊藤のことばの運動も、そういうものをめざしているかもしれない。「おかあさん」と「みなし児」が「物語」の枠組みをつくっている。
「物語」がはじまると、どうしても、私の場合は「好み」が出てきてしまって、ついていけるものとついていけないものに分かれてしまう。「おかあさん」と「みなし児」では、「脈を取る」という「機械的」ともいえる行動がそのまま「機械的」で終わってしまう。色っぽさがなくなる。
書き出しの「わくわく」は色っぽいのになあ、と残念な気持ちが先に立ってしまう。言い直すと「物語」の「結末」を読む気がしなくなる。
「詩」は「物語」ではないから、まあ、気にしなくてもいいのだろうけれど。
このあたりを、時里はどう読んだのか。選評でこう書いている。「あえて言えば、言葉のかなしさ。言葉自身が、言葉の行方に途方にくれている」。なるほどね。時里なら、違う「物語」のなかで「ことば」に「古典的肉体(文学史的肉体)」を与えるということだろう。「ことば」が「ことばの肉体」をひきついで生きるという方法を与えるということだろう。しかし、伊藤は時里ではないから、違う方法をとる。
蜆シモーヌ「みっしんぐ」は暁方が選んでいる。
お指のはらみ
慰なみ おなみにこなみ お
ミル貝 みゅるうぽふくら
み みもはむゅれ
何のことかわからないが「み」の音が印象に残る。「み」の音にひっぱりまわされているうちに、何かを見失う(ミッシング)ということか。見失ったけれど、「み」の音をみつけたから、それでいい、ということか。
詩はたしかに、なんだかわからないものを見つけてしまい、それにとらわれることだ。だから、見つけたものと見失ったもの、その接続と切断のあいだで自分の「肉体(ことば)」をまかせてみる。その瞬間を生きてみるということを、読者と作者が共有すればいいということなのだろう。
私は、暁方の詩を、ここまで「音」そのものとして読んだことがなかったので、新鮮な感じがした。あ、暁方の詩を読んでいるわけではないのだから、こういう言い方は奇妙かもしれないが、選んだ詩を読むということは、選んだ人の世界を読むということでもあるのだから、こういう感想も自然に出てきてしまうことになる。
暁方は、レオナルドマイコ「Re:Re:Re」も選んでいる。
透明な籠が 壊され修繕されもせず
に けばだつままに凍結した
と始まっている。「透明」「凍結」の呼応、「籠」や「修繕」という「字づら」に、私は、暁方を感じた。
投稿者と選者の「戦い」のようなものが、ここから始まる。
「戦い」のなかで、どんな新しいことばが動き始めるのか。
とても楽しみだ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com