詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ティエン・ユアン(田原)文、くさなり・絵『ねことおばあさん』

2020-06-26 18:09:28 | 詩集


ティエン・ユアン(田原)文、くさなり・絵『ねことおばあさん』(みらいパブリッシング、2020年06月20日発行)

 『ねことおばあさん』は絵本。

ぼくが物心がついたころ、
おばあさんは猫を飼っていました。

 と、はじまる。
 猫との交流が、少しずつ語られる。私は苦手で(非常に怖い)、「猫」ということばだけでも、ぞっとするときがあるし、実際に見かけると近づかないようにしている。
 この絵本の猫は、ネズミを捕って食べたあと、

猫はかならず
雑巾のところに行って
口を拭き、

水のあるところに行って
口をすすぎました。

 という、非常に非常に怖い生き方をしている。田原は怖いとは思っていないし、くさなりも怖さが際立つような絵を描いていないが、私は、こういうところが怖いのである。奇妙に人間的、あまりにも人間的なのだ。猫というのは。
 もし私がネズミだったら、こんなふうに証拠もなく、この世から消されてしまうのだ。そう思うと、怖いでしょ?

 でも、そんなことを田原は書こうとしているわけでもないし、くさなりも私のようには感じなかっただろう。
 その猫は、さらに人間的になる。

そして、停電の夜にきらめく猫の目は、
おばあさんにとって
たったひとつの光でした。

 私は田舎で育った。田舎の家の便所は、離れたところにある。私の家では、母屋から納屋を通り抜けて、その納屋の端っこにある。そこまでの距離はかなり長い。真っ暗な納屋の中で、猫の目が光っていたりすると、それは猫というよりももっと怖い存在のように感じられる。「悪いことをする何か」に感じられる。「悪いことをする」のは人間なのだ。
 もろちん、田原は、「悪者」として猫を描いているわけではない。

冬になると、猫は孫たちと同じ、
おばあさんの生きたストーブです。

 これも、おばあさんにとって、猫は「よろこび」をもたらす存在であることを示すことばなのだが、私は、猫が触れたときの「ぐにゃっ」とした感触がどうしてもなじめなくて、この絵本のおばあさんのようには、猫に接触できない。
 このあと、おばあさんは死ぬ。

猫は悲しんでいるように見えませんでした。
おばあさんが横たわっているところに
やってくると、
にゃあにゃあ鳴くこともなく、
目を閉じたおばあさんの顔を
ただ静かにじっと見つめて、
ときに舌でおばあさんの顔を舐めました。

 この部分で、私は、一瞬、「猫」を忘れた。
 中国の漢詩を読んでいると、自然(人間以外の生きもの)が「非情」な存在として目の前にあらわれてくることがある。「断腸の思い」ということばの語源になった猿でさえ、私には「人間的」というよりも、「人間を超える絶対的なもの」(人間の「情」など気にしない超越的なもの)に感じられる。
 田原の猫も、ここでは人間的に「鳴く」ということはしない。鳴かないことで、人間の死に対する思いを断ち切る。もっと違った何かに触れていると感じさせる。
 このあと猫は「人間的」な存在にもどり、

猫はいつものようにおばあさんの
寝ていたベッドに入って、
おばあさんを待ちながら寝ていました。

 とういようなことをする。しかし、そのうちに年をとって死んでしまい、おばあさんの墓のそばに埋められる。
 ということろで、田原のことばは終わっているのだが。
 絵は終わらない。
 どういう絵がつづくのか、世界が展開するのかは書かないが、これはとてもいい絵本だなあと感じた。
 田原のことばが終わったところから、田原のことばを読んだ読者のことばが動き始めるのだ。
 鴎外の「渋江抽斎」は、「評伝」なのに、渋江抽斎が死んだあともことばがつづいていく。渋江抽斎が書かれていないのに、渋江抽斎が動いて見える。
 それに似た感動だ。
 田原のことばはない。田原はおばあさんと猫の「交流」を、猫の死で閉じているのだが、「生死」を超えたものが、その後、「絵」を突き動かしていく。
 あとがきを読むと、くさなりも、死んだおばあさんに対する猫の姿に突き動かされて、後半の絵を加えたと書いている。
 私は、最初に書いたように猫は苦手だが、この田原の猫は、猫を超えている。人間が考える猫(情のなかの猫)を超えている。それがおもしろい。
 たいへん貴重な体験をした。







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Estoy loco por espana(番外篇76) Eduardo Mun'oz

2020-06-26 10:34:50 | 考える日記


?Por que’ entendemos a Don Quijote cuando ves este trabajo? Don Quijote, que se especializa en usar un lavabo de un barberi’a.

Eduardo recoge unos hierros abandonados y los combina.
Luego, entre las combinaciones, aparecera’n la que esta’ ocultanda en hierro hasta ahora.
De ninguna manera, Don Quijote se escondi’a entre estos hierros.

Por supuesto, todo esto se puede llamar una ilusio’n.
Pero como Don Quijote, queremos ilusionarnos con todo.
Todo es un suen’o, y un suen’o tiene un pasado humano.
El pasado humano vive en el hierro abandonado.

ドン・キホーテとわかるのはどうしてだろう。床屋のタライを魔力を持ったヘルメットと勘違いしてになっている得意になっているドン・キホーテ。

エドゥアルドは捨てられてしまった鉄を拾い集めて組み合わせる。
そうすると、その組み合わせの中から、いままで隠されていたものがあらわれてくる。
まさか、こんなものたちのなかにドン・キホーテが隠れていたなんて。

もちろん、このすべてを錯覚(誤解)と呼ぶことはできる。
だが、私たちはドン・キホーテと同じように、すべてを錯覚したいのだ。
すべては夢であり、夢には人間の過去がある。
人間の過去は捨てられた鉄の中にも生きている。




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Estoy loco por espana(番外篇75) Joaquín Llorens ” Serie Animus Ferri ”

2020-06-26 10:06:33 | estoy loco por espana



Joaquín Llorens ” Serie Animus Ferri ”

Un ritmo ligero creado por tres superficies curvas.
Parece tres, pero tal vez uno.
?Los tres son uno? ?Se divide uno en tres?
La sombra esta’ bailando a este ritmo misterioso.
No solo la escultura crea un espacio, sino tambie’n la sombra crea un nuevo espacio.
Muchas cosas se encuentran, interactu’an entre si’ y completan la belleza.

三つの曲面がつくりだす軽やかなリズム。
三つに見えるが、一つなのかもしれない。
三つが一つになっているのか、一つが三つにわかれているのか。
この不思議なリズムにあわせて、影がダンスをしている。
彫刻が空間をつくるだけではなく、影もまた新しい空間をつくる。
幾つもののものが出会い、互いに影響しあって、美を完成させる。
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