詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』

2020-06-22 11:40:52 | 詩集
たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』(思潮社、2020年04月20日発行)

 たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』を読みながら思うのは、どんなこともけっして終わらない、ということだ。
 たかとうは東日本大震災のことを書いている。やっと「ことば」がやってきたのだ。「ことば」はすぐにはやってこないのだ。
 「耳凪ぎ目凪ぎ」の書き出し。

闇は波立ち
わたし
不在のような気がしてならない

 あの日、大震災は「闇」のなかで起きたのではない。午後だった。私は現場にいたわけではないから天候のことまでは明確には認識していないが、雨は降っていなかったと思う。暗くはなかったと思う。でも「闇」としかいいようのないものが直立し、押し寄せてきた、ということなのだ。
 そして、そのとき、「わたし」は「存在している」。しかし、ほんとうか。「不在」なのではないか。
 この書き出しでは、「不在」の主語が何なのか明示されていないが、私は、だれかが不在になったと感じる前に、あ、あの瞬間、たかとう(わたし)そのものが不在になったのだと感じた。これは、私の直感であり、直感というのはいつも「誤読」に支配されているものだが……。
 詩はつづく。

いないという名の地平
掴もうとしてのばした指先
たしかにさわった
屈折や伸縮
裏返し
耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて
誰かが入ってきた気配はするがすでにその町名は沖に流されて
張りつめた恐怖が横切っていった

 そこにあった「町」は流されて、もうない。不在だ。「町名」は記憶に残っているが、町がなくなれば、それは「町名」が奪われたということだろう。
 「耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて」という一行は、「誤読」を誘う。「誤読」をまっている。つなぎとめられていたものが、「解かれて」、地図は記憶として、そこにないもの(不在)があったことを教えてくれる。
 あのとき、何があったのか。
 「わたし」は誰かの指にたしかに触ったのか。現実に触らなくても、想像力のなかで、肉体で触るよりも、もっと切実に触ったかもしれない。しかし、そう考えるのは、不遜なことかもしれない。実際に、触ったのに、その触ったいのちを奪われた人もいる。そういうとき、想像力で触った、それは肉体で触るよりも記憶に深く刻み込まれている、と書いていいのかどうか。そう読んでいいのかどうか。
 こんなことを考えるとき、「私(たかとう、ではなく、谷内)」は存在しているといえるのか。「私」は、いのちを奪われた人にとっては「不在」である。だれも、わたしのことなど思わない。
 私(谷内)もまた、たかとうのことばのなかで「不在」になる。
 しかし、たかとうのことを思うひとはいるだろう。そのたかとうにとって、「わたし」が「不在」なのか、それともいのちを奪われたひとが「不在」なのか。
 これは、わからない。わからないから、私は、それを「保留する」。
 詩のつづきを読む。

闇はなお波立ち
不在のわたし
キンモクセイの内側にもぐりこむ
ささやかな生活の痕跡にさわる
闇は波立ち
虚空に
魚の影

 「不在のわたし」と言い直される。
 だが、どう言い直されているのか。
 「わたし(たかとう)」は、この詩を書いているとき、存在している。その「存在の場」と、たかとうが書いている「たかとう以外のひとの存在の場」は、同じであっても同じではない。震災の後、たとえたかとうが「現場」にいったとしても、そこでことばを動かしたとしても、「同じ場」とはいえない。「場」のなかにある「時間」が違う。
 いま「存在する」ということは、あのとき「存在していない」ということだ。あのとき、そこに「存在していない」から、いま、「ことば」が存在する。その「ことば」の発話者は、「不在のわたし(存在しないことによって存在するわたし)」なのだ。

 入り乱れる。論理的に書こうとすると、どうしても何かを間違えているという気持ちに追い込まれる。
 そう感じさせる何かが、

わたし
不在のような気がしてならない

 という書き出しのことばからつづいている。
 どうしたら、「不在」ではなくなるのか。

国会答弁なんか聞いているばあいではない
どんな手続きをするにせよ待ってなんかいられない
ああ
早くみつけてほしい
音になって落ちたすっかり汚染された海

 「早くみつけてほしい」。「見つける」しかないのだ。「見つけた」とき、「わたし(たかとう)」は存在しているといえる。それは、たかとうのことばであるけれど、たかとうを突き破って動いている「いま」のことばだ。
 「手続き」ではないのだ。「手続き」のさきに、何かがあらわれてくるのではない。「手続き」を超えるものがあるのだ。「国会答弁」の「手続き」など、信じてはいけない。ふいにあらわれる「国会答弁」に、たかとうの怒りが込められている。無念がこめられている。
 
 こんな断片的な感想では、たかとうの肉体に触れたとはいえないのだが、私は私の感じていることを書いておくしかない。
 詩の最後。

時がとまっている
対岸の突堤まで延びはじめる
耳や目やその凪ぎ
これを伝っていけば逃げられる
あるいは時間が経てばきっと
と思ったのは誤算だった
草色の部分がかすんで
むこうの沖合の暗いずっと下の見えないところ
さわぐ
草模様
その勢いはただごとではない
言葉ではとうてい太刀打ちできない
渇いたまま
しばし立ちすくむ

 時間がたてばたつほど、書かなければならなくなるのだ。「ことば」で太刀打ちできないが、「ことば」は太刀打ちせよとたかとうにいいつづけるのだ。「不在」であると知りつつ、あるいは「不在」であると知っているからこそ、「不在」であることを突き破ろうとする。
 その「方法(手続き)」は、きっと、永遠に確立されない。だからこそ、「早く」それを見つけたいとあせるように書くしかない。遅れて書くことの、あせりの強さが、いまたかとうの向き合っているものなのだ。この強いことばに向き合うためには、繰り返し繰り返し、この詩集を読まないといけない。






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コロナ第二波

2020-06-22 10:15:43 | 自民党憲法改正草案を読む
コロナ第二波
       自民党憲法改正草案を読む/番外365(情報の読み方)

 コロナ報道は「下火」になってきたが、それだけにいろいろな「情報操作」がしやすくなっている。
 2020年06月20日の読売新聞(西部版・14版)にはコロナ関係のニュースが何本が書かれている。
 1面には「感染症に強い社会築け/安心取り戻す医療・経済」という「提言」が掲載されている。これは「提言」だから「主観」が前面に出ていても、私は気にしない。(「首相直属の本部を設けよ」という提言には「感染防止と経済再生を両立」という安倍政権に寄り添った主張がかかれている。7、8、9、10面に詳細な提言が掲載されているが、いまは、読まない。)
 「主張」ではなく、「客観的事実」をどうつかえるか。「客観的」を装って、そこに「主観」をどれだけもぐりこませるか。それをどう読むか。そのことに目を向けたい。
 
 2面。

中国「感染封じ込め」揺らぐ/新型コロナ 北京「第2波」200人超す

 これは「事実」である。記事を要約すれば「20日に20人の有症感染者が確認された。11日以降の有症感染者の累計は227人になった」。だから、中国が感染症の封じ込めに成功したとは一概にいえない。信用してはいけない、といいたいのだろう。
 一方、26面には、国内の感染者一覧が載っている。

国内56人感染 福岡2日連続ゼロ

 一方、東京(日本の首都)はどうか。35人の感染を確認している。有症/無症の区別はないので単純に比較することはできないが、35人は北京の20人よりはるかに多い。さらに記事には「1日あたりの感染者数が30人を超えるのは4日連続」とある。北京のように「11日以降」の累計ではどうなるのか。北京の「227人」を超えるかもしれない。「東京アラート」解除後、40人を超える日が続いた記憶している。
 有症/無症の区別をどこまで配慮すべきなのかわからないが、東京の方が北京よりも深刻な状況かもしれない。
 けれど、読売新聞は、簡単には比較できないように2面と26面に記事をわけて書き、北京(中国)がたいへんだ。封じ込めが成功したというのは嘘だ(信頼性が揺らいでいる)と印象づける書き方をしている。
 世界の状況に目を向けると、6面に「主な国・地域の感染状況」が載っている。記事はない。いま、中南米で感染が拡大していて、ペルーでは感染者が25万人を超えたというニュースがあったばかりだが、読売新聞の一覧表では「ブラジル103万人」があるだけで、ペルー、チリの数字は載っていない。世界では感染がまだまだ拡大し続けている。「第2波」ではなく「第1波」状態だということがわからない。
 「情報」は「分断」されている。その「情報」を読者がつないで「ひとつ」にしないと状況がわからない。これは、一種の「情報操作」である。世界中が対処に困っている。それなのに、北京(中国)の感染拡大だけが問題である(中国が感染封じ込めに成功したというのは嘘だ)と印象づけようとしている。
 中国を批判するなら批判するでいいのだが、もっとていねいに「事実」を分析し、世界の今の状況(日本の今の状況)と比較しないことには、「客観的」とはいえないだろう。
 さらに。
 26面には、たいへん興味深い記事がある。

新型コロナ/医療機関 経営に影/受診控え進み患者減

 感染を恐れて、コロナ以外の患者が来なくなり、経営が悪化している、という。これは、別なことばで言い直せば「医療(経営)崩壊」が起きている、ということである。
 この「医療崩壊」は、コロナ感染が拡大していたとき、患者が殺到すると助けられる患者も助けられなくなるという意味でつかわれたのだが、コロナ感染者も「助けなければならない患者」であるはずなのに、そこから除外されていた。「医療崩壊」を叫んだ医療現場(経営者)は、「高額の治療費を支払ってくれる人を助けられなくなる」、つまり収入が減る(医療「経営」崩壊が起きる)と「無意識」に言っていたのだ。「医療倫理崩壊」が起きていたのだ。
 いま、診察にくる患者が減って「医療経営崩壊」が起きている、と医療関係者(経営者)は言うのだが。
 これは、よくよく考えると、とても奇妙な主張である。
 医療は受診する人が少なければ少ないほど、国民が健康である「証拠」になる。もちろん金がなくて受診できないという人もいるかもしれないが、原則的に、患者が減れば病院へ行くひとは減ると考えるべきだろう。
 医療の経営はたしかに苦しいのだろうが、国民が健康ならば、それはいいことではないのか。「医療経営崩壊」は「国民健康の増進」である。そういう視点があっていいはずなのに、完全に欠如している。
 コロナの影響で、国民が自分の健康に配慮し、手洗い・うがいなどを徹底したことにより、ふつうの風邪などが減った、ということなら、それはとてもいいことだろう。
 そういうときに、「医療経営崩壊」が起きている、とそれをニュースにするのは、何か「論点」がずれていないか。手洗いの励行により、風邪や食中毒などの患者が例年よりどれだけ減ったかという「朗報」もニュースとして知らせるべきだろう。その方が、国民の健康への関心を高めることになるだろう。これからの生活の「よりよい指針」になるだろう。
 いま守るべきなのは、国民の健康だろう。医療の経営環境ではないだろう。
 私は読売新聞の「提言」をまだ詳細には読んでいないが、先に書いた「感染防止と経済再生の両立」という提言や、1面の「安心取り戻す医療・経済」という見出しを読むと、「経済」のために感染症を防止すると言っているだけのように聞こえる。「経済」は、人間が生きていれば、やがて復活するだろう。しかし、人間は死んでしまったら、もう生きかえれない。人間は「数」ではなく、ひとりひとり、かけがえのない存在なのだ。人間を「数(労働力)」としてとらえるという視点が、いま、あらゆるところで問題になっているが、コロナ報道ひとつをとってみても、それを感じてしまうのである。







#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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