たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』(思潮社、2020年04月20日発行)
たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』を読みながら思うのは、どんなこともけっして終わらない、ということだ。
たかとうは東日本大震災のことを書いている。やっと「ことば」がやってきたのだ。「ことば」はすぐにはやってこないのだ。
「耳凪ぎ目凪ぎ」の書き出し。
あの日、大震災は「闇」のなかで起きたのではない。午後だった。私は現場にいたわけではないから天候のことまでは明確には認識していないが、雨は降っていなかったと思う。暗くはなかったと思う。でも「闇」としかいいようのないものが直立し、押し寄せてきた、ということなのだ。
そして、そのとき、「わたし」は「存在している」。しかし、ほんとうか。「不在」なのではないか。
この書き出しでは、「不在」の主語が何なのか明示されていないが、私は、だれかが不在になったと感じる前に、あ、あの瞬間、たかとう(わたし)そのものが不在になったのだと感じた。これは、私の直感であり、直感というのはいつも「誤読」に支配されているものだが……。
詩はつづく。
そこにあった「町」は流されて、もうない。不在だ。「町名」は記憶に残っているが、町がなくなれば、それは「町名」が奪われたということだろう。
「耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて」という一行は、「誤読」を誘う。「誤読」をまっている。つなぎとめられていたものが、「解かれて」、地図は記憶として、そこにないもの(不在)があったことを教えてくれる。
あのとき、何があったのか。
「わたし」は誰かの指にたしかに触ったのか。現実に触らなくても、想像力のなかで、肉体で触るよりも、もっと切実に触ったかもしれない。しかし、そう考えるのは、不遜なことかもしれない。実際に、触ったのに、その触ったいのちを奪われた人もいる。そういうとき、想像力で触った、それは肉体で触るよりも記憶に深く刻み込まれている、と書いていいのかどうか。そう読んでいいのかどうか。
こんなことを考えるとき、「私(たかとう、ではなく、谷内)」は存在しているといえるのか。「私」は、いのちを奪われた人にとっては「不在」である。だれも、わたしのことなど思わない。
私(谷内)もまた、たかとうのことばのなかで「不在」になる。
しかし、たかとうのことを思うひとはいるだろう。そのたかとうにとって、「わたし」が「不在」なのか、それともいのちを奪われたひとが「不在」なのか。
これは、わからない。わからないから、私は、それを「保留する」。
詩のつづきを読む。
「不在のわたし」と言い直される。
だが、どう言い直されているのか。
「わたし(たかとう)」は、この詩を書いているとき、存在している。その「存在の場」と、たかとうが書いている「たかとう以外のひとの存在の場」は、同じであっても同じではない。震災の後、たとえたかとうが「現場」にいったとしても、そこでことばを動かしたとしても、「同じ場」とはいえない。「場」のなかにある「時間」が違う。
いま「存在する」ということは、あのとき「存在していない」ということだ。あのとき、そこに「存在していない」から、いま、「ことば」が存在する。その「ことば」の発話者は、「不在のわたし(存在しないことによって存在するわたし)」なのだ。
入り乱れる。論理的に書こうとすると、どうしても何かを間違えているという気持ちに追い込まれる。
そう感じさせる何かが、
という書き出しのことばからつづいている。
どうしたら、「不在」ではなくなるのか。
「早くみつけてほしい」。「見つける」しかないのだ。「見つけた」とき、「わたし(たかとう)」は存在しているといえる。それは、たかとうのことばであるけれど、たかとうを突き破って動いている「いま」のことばだ。
「手続き」ではないのだ。「手続き」のさきに、何かがあらわれてくるのではない。「手続き」を超えるものがあるのだ。「国会答弁」の「手続き」など、信じてはいけない。ふいにあらわれる「国会答弁」に、たかとうの怒りが込められている。無念がこめられている。
こんな断片的な感想では、たかとうの肉体に触れたとはいえないのだが、私は私の感じていることを書いておくしかない。
詩の最後。
時間がたてばたつほど、書かなければならなくなるのだ。「ことば」で太刀打ちできないが、「ことば」は太刀打ちせよとたかとうにいいつづけるのだ。「不在」であると知りつつ、あるいは「不在」であると知っているからこそ、「不在」であることを突き破ろうとする。
その「方法(手続き)」は、きっと、永遠に確立されない。だからこそ、「早く」それを見つけたいとあせるように書くしかない。遅れて書くことの、あせりの強さが、いまたかとうの向き合っているものなのだ。この強いことばに向き合うためには、繰り返し繰り返し、この詩集を読まないといけない。
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たかとう匡子『耳凪ぎ目凪ぎ』を読みながら思うのは、どんなこともけっして終わらない、ということだ。
たかとうは東日本大震災のことを書いている。やっと「ことば」がやってきたのだ。「ことば」はすぐにはやってこないのだ。
「耳凪ぎ目凪ぎ」の書き出し。
闇は波立ち
わたし
不在のような気がしてならない
あの日、大震災は「闇」のなかで起きたのではない。午後だった。私は現場にいたわけではないから天候のことまでは明確には認識していないが、雨は降っていなかったと思う。暗くはなかったと思う。でも「闇」としかいいようのないものが直立し、押し寄せてきた、ということなのだ。
そして、そのとき、「わたし」は「存在している」。しかし、ほんとうか。「不在」なのではないか。
この書き出しでは、「不在」の主語が何なのか明示されていないが、私は、だれかが不在になったと感じる前に、あ、あの瞬間、たかとう(わたし)そのものが不在になったのだと感じた。これは、私の直感であり、直感というのはいつも「誤読」に支配されているものだが……。
詩はつづく。
いないという名の地平
掴もうとしてのばした指先
たしかにさわった
屈折や伸縮
裏返し
耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて
誰かが入ってきた気配はするがすでにその町名は沖に流されて
張りつめた恐怖が横切っていった
そこにあった「町」は流されて、もうない。不在だ。「町名」は記憶に残っているが、町がなくなれば、それは「町名」が奪われたということだろう。
「耳や目やその凪ぎ地図ほど枯れて」という一行は、「誤読」を誘う。「誤読」をまっている。つなぎとめられていたものが、「解かれて」、地図は記憶として、そこにないもの(不在)があったことを教えてくれる。
あのとき、何があったのか。
「わたし」は誰かの指にたしかに触ったのか。現実に触らなくても、想像力のなかで、肉体で触るよりも、もっと切実に触ったかもしれない。しかし、そう考えるのは、不遜なことかもしれない。実際に、触ったのに、その触ったいのちを奪われた人もいる。そういうとき、想像力で触った、それは肉体で触るよりも記憶に深く刻み込まれている、と書いていいのかどうか。そう読んでいいのかどうか。
こんなことを考えるとき、「私(たかとう、ではなく、谷内)」は存在しているといえるのか。「私」は、いのちを奪われた人にとっては「不在」である。だれも、わたしのことなど思わない。
私(谷内)もまた、たかとうのことばのなかで「不在」になる。
しかし、たかとうのことを思うひとはいるだろう。そのたかとうにとって、「わたし」が「不在」なのか、それともいのちを奪われたひとが「不在」なのか。
これは、わからない。わからないから、私は、それを「保留する」。
詩のつづきを読む。
闇はなお波立ち
不在のわたし
キンモクセイの内側にもぐりこむ
ささやかな生活の痕跡にさわる
闇は波立ち
虚空に
魚の影
「不在のわたし」と言い直される。
だが、どう言い直されているのか。
「わたし(たかとう)」は、この詩を書いているとき、存在している。その「存在の場」と、たかとうが書いている「たかとう以外のひとの存在の場」は、同じであっても同じではない。震災の後、たとえたかとうが「現場」にいったとしても、そこでことばを動かしたとしても、「同じ場」とはいえない。「場」のなかにある「時間」が違う。
いま「存在する」ということは、あのとき「存在していない」ということだ。あのとき、そこに「存在していない」から、いま、「ことば」が存在する。その「ことば」の発話者は、「不在のわたし(存在しないことによって存在するわたし)」なのだ。
入り乱れる。論理的に書こうとすると、どうしても何かを間違えているという気持ちに追い込まれる。
そう感じさせる何かが、
わたし
不在のような気がしてならない
という書き出しのことばからつづいている。
どうしたら、「不在」ではなくなるのか。
国会答弁なんか聞いているばあいではない
どんな手続きをするにせよ待ってなんかいられない
ああ
早くみつけてほしい
音になって落ちたすっかり汚染された海
「早くみつけてほしい」。「見つける」しかないのだ。「見つけた」とき、「わたし(たかとう)」は存在しているといえる。それは、たかとうのことばであるけれど、たかとうを突き破って動いている「いま」のことばだ。
「手続き」ではないのだ。「手続き」のさきに、何かがあらわれてくるのではない。「手続き」を超えるものがあるのだ。「国会答弁」の「手続き」など、信じてはいけない。ふいにあらわれる「国会答弁」に、たかとうの怒りが込められている。無念がこめられている。
こんな断片的な感想では、たかとうの肉体に触れたとはいえないのだが、私は私の感じていることを書いておくしかない。
詩の最後。
時がとまっている
対岸の突堤まで延びはじめる
耳や目やその凪ぎ
これを伝っていけば逃げられる
あるいは時間が経てばきっと
と思ったのは誤算だった
草色の部分がかすんで
むこうの沖合の暗いずっと下の見えないところ
さわぐ
草模様
その勢いはただごとではない
言葉ではとうてい太刀打ちできない
渇いたまま
しばし立ちすくむ
時間がたてばたつほど、書かなければならなくなるのだ。「ことば」で太刀打ちできないが、「ことば」は太刀打ちせよとたかとうにいいつづけるのだ。「不在」であると知りつつ、あるいは「不在」であると知っているからこそ、「不在」であることを突き破ろうとする。
その「方法(手続き)」は、きっと、永遠に確立されない。だからこそ、「早く」それを見つけたいとあせるように書くしかない。遅れて書くことの、あせりの強さが、いまたかとうの向き合っているものなのだ。この強いことばに向き合うためには、繰り返し繰り返し、この詩集を読まないといけない。
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週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。
推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)
先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。
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