詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古谷鏡子『浜木綿』

2020-06-05 10:04:03 | 詩集
古谷鏡子『浜木綿』(空とぶキリン社、2020年06月10日発行)

 古谷鏡子『浜木綿』の巻頭の「街角」に引き込まれた。ほかにもっとおもしろい詩が収められているかもしれないが、引き込まれた瞬間の、そのことを書いておきたい。

街角。まちかどという語のひびきが
あなたを今ここから連れだそうとしている どこか遠いところ
あなたの近辺に街角はない
蔓草のからまった垣根 白い小花が咲きみだれ
「あのコンビニの角をまがって」とひとがいう

 「街角」は「いま/ここ」から「遠いところ」にあって、人を「遠いところ」へ連れ出す。「街角」をそう定義したあとで、「あなたの近辺に街角はない」という。では何がある。「コンビニの角」がある。「コンビニの角」はなぜ「街角」ではないのか。「遠いところへ」人間を連れて行かないからである。
 では、その「遠いところ」とはどういうところ?
 たとえば、

蔓草のからまった垣根 白い小花が咲きみだれ

 ている場所。それはたとえば「コンビニの角」と同じ場所かもしれない。しかし、その風景を「コンビニの角」と呼んだ瞬間に、それは「街角」ではなくなる。
 街角とは……。

街角。甃のゆるやかな坂道をあがったところ
煉瓦づくりのばら色の塀 格子窓の奥にレースのカーテンが揺れて
石造の家屋があり ひとが佇んでいる
記憶の底をけずるようにそれがあなたにとってのまちかどか
あるいは古い書物のなかの一頁

 街角とは、まず「ことば」なのだ。
 「古い書物のなかの一頁」が象徴的だが、その描写は「古い」かもしれない。しかし、ことばとはもともと「古い」ものだ。繰り返しつかわれることで、「ことば」は「ことば」になる。「ことば」はつかわれることで「記憶」になる。それは単なる「いま/ここ」の情景ではなく、「いま/ここ」と「記憶」をつなぐ情景、人間を「歴史」にひきもどす「情景」である。
 「どこか遠いところ」とは「ここ」から「遠い」のではなく、「今」から「遠い」のである。しかし、その「遠さ」は思い出した瞬間に、「今」よりももっと「近く」なる。「一秒前」よりももっと「肉体」に密着している。いや「肉体」のなかにある「時間」そのものになる。「肉体」のなかから、「遠いはずの時間(過去)」が、「肉体」そのものをつきやぶって噴出してくる。「今」が、新しく生み出される。
 このとき「あなた」とは、だれだろうか。

街角。たとえそこが貧しい町のはずれ
両側に低い家並の石の壁面がつづき
ぬかるむ泥の道のむこうがパンパスの草の大地であろうと
街角に立って 詩人は はじめておとずれたこの町で
循環する時間 無限を 実感する ある秋の夜更けに と

 「詩人」が出てくる。「パンパス」が出てくるから、日本ではない。註釈によれば、ここに登場しているのはボルヘスである。しかし、その註釈をつきやぶって、ここには古谷がいる。その「街角」はボルヘスにとって「はじめて」であって、古谷にとって「未知」であったとしても、「記憶」のなかでは古谷の「街角」である。
 「ことば」とは、そういうものである。
 読んだ人が、そのことばをとおして「いま/ここ」を感じたならば、それは読んだ人間のものである。「ことば」は、そうやって生きていく。
 「だれが書いた/だれが読んだ」と入れ替わる。つまり「循環する」。ひとが「循環する」だけてはなく「時間」が循環する。その運動は「無限」だ。「無限」とは「静止した状態」ではなく、「動き」そのものを指している。

街角。を探してあなたは古都をゆく 日常は捨てる
林のなか きっちりと寺院の庭を仕切って瓦屋根の土塀がつづく
土塀は直角にまがり くずれない 土に菜種油をまぜて築いたので
少しずつ壁土の色は変化していると解説書にある 時空を超え
その土壁の色の変りようをだれが見届けるというのだろう

 「ことば」が見届ける。「ことば」は「時間」の証言者である。
 古谷の詩は「現代詩」と呼ぶには「古くさい」かもしれない。けれど「時間を証言することば」というのは、いつでも「新しい」。どんな「証言」にも、「証言する人」の必然性がある。その必然性を「新しい」と、私は呼ぶ。





*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(65)

2020-06-05 08:58:20 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「小人間史-他」から

* (もう愛情の失せた太股をおまえの腹の上に乗せてみた)

 「おまえ」とはだれだろうか。人間だろうか、女だろうか。私は、ふと「犬」を思ってみた。「腹の上」は「銅の上」でもある。「愛情の失せた」は「太股」をとびこえて「お前の腹」を修飾している、と読む。

むなしい街燈がひとつそこいらを照らしているばかりである

 ホームレスと犬。嵯峨がこの詩を書いたとき、ホームレスということばがあったかどうかわからない。路上で生活している男。夜、犬と寄り添っている。
 「愛情の失せた」は冷たいことばだが、もう「肉体」になじんでしまっていて、「愛情」ということばが必要ではない、という意味に読んでみる。





*

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