詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇72) Fermin Garcia Sevilla“Lirios”

2020-06-12 16:24:12 | estoy loco por espana


Fermin Garcia Sevilla“Lirios”

Desde el trabajo de Fermín García Sevilla, siento la "densidad" del espacio en lugar de la extensión del espacio.
No es la luz ni el color lo que hace que el espacio sea denso.
Es humedad .
Además, no es el agua (lluvia) la que cae del cielo.
No es el agua que refleja la luz.
El agua que las plantas absorben del suelo oscuro sin luz y exhalan en el aire.
En otras palabras, contiene vida vegetal.
La vida de las plantas hace que el espacio sea denso.

Fermin Garcia Sevillaの作品から感じるのは、空間の広がりというりよりも空間の「密度」である。
空間を濃密にしているのは光でも色でもない。
湿度(水分)だ。
しかも天からふってくる水分(雨)ではない。
光を反射する水分ではない。
光の存在しない暗い地中から、植物が吸い上げ、空中に吐き出す水分。
つまり、そこには植物のいのちが含まれている。
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砂東かさね「浮動」、齋藤健一「朝」

2020-06-12 15:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
砂東かさね「浮動」、齋藤健一「朝」(「乾河」88、2020年06月01日発行)

 砂東かさね「浮動」の一連目。

削りたての鉛筆をノートに立てたら
つ、と
尖端が粉になり
散らばった

 この鉛筆は、自分でナイフで削ったものだろう。「削りたて」の「たて」に、そういう気持ちを私は感じてしまう。短いことばに、そのひとの「肉体(思想)」があらわれるのである。

一文字目から
かすれた線がついてくる
ある一点がどこにあるのか
私は根気づよく
付き合わねばならない

 これは「記憶」であると同時に、いまだから言える「記憶」かもしれない。鉛筆をナイフで削って、ノートを取る。それが日常だったころは、こういうことは「ことば」にはならなかっただろうと思う。
 こういうところにも「肉体」というのはあらわれてくる。
 そして、その「肉体」は、こんな自己主張をするのだ。

私たちの教室には
エアコンがなかった
水泳の授業を終えたばかりの
生乾きの髪からは
スライメイトひとりひとりの
体温であたためられた
塩素の匂いが立ちのぼる

 これは美しい。
 佐多稲子の『キャラメル工場から』に、主人公の少女が朝の電車に乗るシーンがある。満員だ。そして、そこには各家庭の、ひとりひとりの、味噌汁の「匂い」がまじっている。人の吐く息の中に味噌汁の匂いがまじり、それが充満しているのだ。
 それを思い出した。
 「ひとりひとり」の「体温」。
 こんなことばは、やはり中学生(だと思う)には、思いつかない。「肉体」が「思想」となる。「思想」が「肉体」となるということに、年齢は関係がないが、それをはっきり「ことば」として自覚できるようになるには時間がかかる。
 もちろん中学生がこういうことばを書いてもいい。しかし、書けば「早熟」ということになる。「早熟」は「早熟」でいいのだろうが、私は「遅れてやってくることば」の方が安心する。
 そこには、ことばと「根気づよく」「付き合ってきた」時間がある。



 齋藤健一「朝」。

雨にたたかれる。自転車を漕ぐ。自分である。咽から草
から水から塩辛さだ。追いかけてくる。ペダルやハンド
ルの光沢。目を地面にむけている。ぬれた石がはねかえ
した。ぐるぐると足首を廻した。きつく締めたゴムの昨
日がある。如何にして廻りつづける。

 「咽から草から水から塩辛さだ。」には、ことばを補足する必要があるだろう。
 雨が顔をたたく。顔を伝った雨が口に入り、喉で「塩辛さ」を感じる。汗の味だ。それに人間特有のものかもしれないが、草にもし「口、喉」というものがあれば、草もそれを感じるかもしれない。
 「想像」が齋藤の「肉体」を追いかけてきて、齋藤の「肉体」は「草」とも一体になる。
 この一体感は、すべての存在に広がっていく。齋藤はいま、雨なのか、自転車なのか、草なのか、石なのか。眼なのか。
 「はねかえした」ということばがある。「はねかえる」という運動が「肉体」なのである。「昨日」は過去に過ぎ去っていくのではなく、「あす」になってあらわれ、時間を廻しつづける。
 きょうの「朝」は、きのうの「朝」であり、あすの「朝」である。そのつながりのなかで、「肉体」が「肉体」に、つまり「ことば」になる。
 「記憶」は「夢」ではなく、いまであり、まだやってきていない、何かである。







*

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