古谷鏡子『浜木綿』(2)(空とぶキリン社、2020年06月10日発行)
どんな詩にも「わからない」ところがある。つまずくところがある。
古谷鏡子『浜木綿』の「影の木」。
壁がある
壁である なんの変哲もない
ちいさな小屋のような二階家の
ちょっと汚れたモルタルの壁 窓はない 入口もない
壁がひっそりと そこに立っている
夜となく 昼となく
朝の光 夕暮れの薄明のなか
壁には 一本の木の影があり
古谷が見かけた家の「壁」を描いている。「ちょっと汚れたモルタルの壁 窓はない 入口もない」という一行は、その「壁」の部分には窓や入り口がないということであって、家に窓も入り口もないということではないだろう。古谷は「壁」に特化して書きたいから、窓や入り口がどこにあるかは書かない。一面の壁、ということを書きたい。「ちょっと汚れたモルタルの」という修飾語は、「壁」をなじみやすいものにしている。「壁」を特化しているのだが、特別な存在ではない、どこにでもある壁であると同時に語る。私たちの世代なら「ちょっと汚れたモルタルの」と言われれば、それだけでひとつの情景が浮かぶ。そういう自然なことばの「論理」、ことばが浮かびあがらせる情景の「論理」がある。
それが「光」ということばを通って、「影」にかわり、「一本の木の影」ということばなる。それは
壁には 一本の木の影があり
という、完結しないことば(言っている途中のことば)を経て次の連へとつづいていく。ここには静かな「論理」がある。ことばは、つづきますよ。これから「木の影」のことも語りますよ、という「論理」が用意されている。
そしてその連。
影である
うすずみ色の木の影
光がつれてきた どこからか そしてどこへ
ほそい幹 たわんだ枝が左右に腕をひろげ 夏も冬も
裸木のまま一枚の葉さえなく
夏も冬も 朝も夜も 光の忘れもの 映像のように
ほっそりとした木の影
最初の二行は「描写」である。目で見ることのできる「情景」である。しかし、すぐにそれは「描写/情景」を超える。
光がつれてきた どこからか そしてどこへ
光がある。物体にあたる。影ができる。この現象を、古谷は「光がつれてきた」と、ふつうはつかわない「つれてきた」ということばで言い直す。光がなければ影はない、ということを踏まえて、「光が(影を)つれてきた」と主語を変えてしまう。
ここに語られていることは「目撃した情景」ではなく、「論理で整えなおした世界」である。微妙な変化がここにはある。しかし、それは「論理」を含んでいるので、説得力がある。
それは、その後の描写の変化へとつながっていく。
前の連では「朝の光」「夕暮れの薄明」が描かれている。朝から夕方までも長い時間ではあるけれど、まだ、「記憶」ではなく「体験(目撃)」として語ることができる。
しかし「夏も冬も」になると、簡単に「体験(目撃)」として語るわけにはいかない。繰り返し繰り返し、それを「見る」ということが必要になる。それは繰り返し語りなおすということであり、ことばを整えるということである。長い時間を「夏も冬も」という形で把握しなおす。それは「描写」であっても、直接的な「情景」ではない。つまり「論理の世界」なのである。
「論理の世界」では「木の影」は「木の影」であると同時に、
光のわすれもの
ということになる。それは「映像」である。「実像」ではない。「影」であると同時に、常にそこには「光」がつきまとっている。光が「つれてきて(持ってきて)」「忘れていった」もの。それが「木の影」である。
「わすれもの」ということばには何か哀しい響きがある。
ここまでは、私は何の抵抗もなくすいすいと読んでしまう。それだけではなく「ちょっと汚れたモルタルの壁」「うすずみ色」「ほそい幹 たわんだ枝」「ほっそりとした」ということばには「わすれもの」に通じる「哀しさの定型」さえ感じてしまう。たぶん「定型」が含まれているから「すいすい」読むのだろう。
ところが。
壁のまえにはまがりくねった道 道には
錆色の柵があり柵のむこうはだだっぴろい広場
ブランコが揺れていた だれもいない
突然「転調」する。「転調」は、もちろん前に繰り返されたものを含んでいるから「転調」したと感じるのである。「壁のまえには」「道」がある。もちろん、あってかまわない。道には「錆色の柵」がある。「錆(色)」が「ちょっと汚れたモルタル」、「ほそい」「裸木のまま一枚の葉さえなく」に通じる。
それは「だれもいない」ということばを引き出す。「哀しさ」ということばを私は補ったが、「哀しさ」のようなものが、そこに漂っている。
ここまでは「論理」的である。「転調」しても「論理」は生きている。「転調」は詩の技法の「起承転結」の「転」である。これは、いわば、古くからある方法である。
しかし。
朝ごとにそこをとおり
夜道では影の木に
なにごともなく
雲帰る という言葉にであう
雲は緋の色の衣を着て西の空に帰った
影は帰らない そこに佇んでいる
この「起承転結」の「結」のような部分に、私はびっくりする。
「木の影」は「影の木」と入れ替わる。木の影は「光」の位置によってかわる。ところが「木」そのものは同じ位置にある。
なぜ、そんなことが気になるのか。
「雲帰る という言葉にであう」、つまり「雲」は帰っていく。しかも夕暮れ、緋色に染まって夜へと帰っていく。ところが木は帰らない。動けない。そして、そのとき「影」は?
影は帰らない そこに佇んでいる
それはその通りだが、この雲が緋色に染まって西の空へ帰ったあと、つまり「夜」に「影」が存在するか。「光」がないから、存在しない。もし、そこにあるとすれば「影」をつくりだしていた「木」があるだけである。しかし、古谷は「影」と呼んでいる。
ここには、それまでの「論理」とは違うものがある。だから、なんだろうこれは、どう読めばいいのだろうとつまずく。
「わからない」は「論理がわからない」である。
ここには「論理」以外のものが動いている。それは何か。古谷の「肉体」が「ことばの運動(論理)」を隠している。「論理」の代わりに「古谷の肉体」が、ことばを隠している。「古谷の肉体」がことばにとってかわっている。
こういうとき、どうするか。
私は、「論理の乱れ」を生み出している「木」を「古谷の肉体」と読み直すのである。「木」は古谷なのだ。
「光」があったとき、「木」は「木」であると同時に「木の影」であった。「木」は注目されず、「木の影」が注目された。「木の影」は「光」を間接的に語るからである。「木の影」を語ることは「光」を語ること。「光」を語ることは「木の影」を語ること。「木」もきっと「影」を自分のように認識していた。
そこには「論理/関係」があった。
しかし「光」がなくなってしまったら「論理」はなくなる。「関係」はなくなる。それでも「木」は存在する。そのことを古谷は発見した。そして、その発見したものに古谷は自分の「肉体」を重ねた。古谷は「木の影」ではなく「影の木(影をつくりだしている木そのもの)」になった。
ひとりで佇んでいる。「影」の記憶、つまり「光」の記憶を「肉体」のなかに秘めて、「いま/ここ」にいる。
そこに「哀しさ」と「強さ」がある。
影は帰らない そこに佇んでいる
これを
影の木は帰らない そこに佇んでいる
と「木」を補って、読み、そうすることで、私は古谷に出会う。
「わからない」は「論理がわからない」である。そして、それは「作者の肉体」が「論理」を隠してしまうからである。「論理」を呑みこんでしまうからである。
だれだって「他人」のことが「わからない」。「わからない」ところがあるからこそ「他人」である。「わからない」を「わからない」と拒絶、排除するのではなく、この「わからない」ところにその人が生きている、生きている証拠が「わからなさ」なのだと受け止める。
私は古谷のことをまったく知らない。だから、「誤読」する。古谷は最愛のひとを失ったのかもしれない。ひとりで生きていて、ふと最愛のひとを思い出すことがある。そのとき、古谷は「影の木」になるのだ。
「木の影」ではなく「影の木」と一回だけ「主客」が逆転した「木」そのものとして、姿をあらわす。
私はその木に近づき、その木に触れ、その木を抱きしめる。「わからない」から、わからないまま、ただ「私はここにいる」と告げる。しかし、これは「私の強がり」というものだろう。つまずいた人間は、つまずいた先に支えてくれるものをみつけ、それに取りすがって自分の態勢を整えなおすというのが、ほんとうに起きたことだろう。
私は「わからなさ」につまずいたのだが、「わかる」と思っていたときよりも自然な形で立っていると感じる。古谷の詩を読んだおかげで、私は自然に立てるようになっていると、いま、感じている。会ったことはないのだが、その会ったことのない古谷に出会っているような気がするのだ。その「肉体」を見つめている気がしてくるのだ。
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