詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇71) Joaquin Llorens Santa “Serie constructivismo A”

2020-06-07 21:42:11 | estoy loco por espana


Varias ventanas abiertas.
El mundo comienza desde esa ventana.
Los cambios en las ventanas cuadradas crean el ritmo.
La mu'sica comienza
La mu'sica interior y la mu'sica exterior se mezclan y se convierten en mu'sica nueva.


いくつもの開かれた窓。
世界が、その窓からはじまる。
四角い窓の変化が、リズムをつくる。
音楽がはじまる。
室内の音楽と、屋外の音楽が、まじりあい、新しい音楽になる。
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Estoy loco por espana(番外篇70) Miguel Gonza’lez Diaz MUJER EXTRAN’A

2020-06-07 15:05:02 | estoy loco por espana


Miguel Gonza’lez DiazのMUJER EXTRAN’A

La mujer esta’ sentada sobre una rodilla. La mujer esta’ gritando. La cara esta’ distorsionada de acuerdo con la forma de la boca que grita como el "grito" de Munch.
Pero au’n ma’s me llamativo es el hueco creado por la mano.
Parece otra boca. Puedo ver la cavidad.
De la boca real, se exhala la angustia en el interior del cuerpo.
Pero, ?’que’ escupe el hueco creado por la mano?
No importa cua’nto grite, la mujer no captara’ la voz. La mujer esta’ vomitando la desesperacio’n y el vaci’o.
Siento que la postura de las rodillas de pie muestra la voluntad de la mujer de ponerse de pie.
Siento esperanza por la forma y la fuerza de un pie sano.
La mujer esta’ angustiada y desesperada. Sin embargo, la mujer esta’ viva y tiene el poder de vivir au’n ma’s.
No son los gritos con los que tengo que acurrucarme, sino su fuerza para vivir.

片膝を立てて座っている女。叫んでいる。ムンクの「叫び」のように叫ぶ口の形にあわせて、顔が歪んでいる。
だが、それ以上に目を引くのは、手がつくりだす空洞だ。
もう一つの口に見える。空洞が見える。
本物の口からは、体の奥にある苦悩が吐き出される。
だが、手がつくりだしている空洞は何を吐き出すのか。
叫んでも叫んでも、その声を受け止めてもらえない絶望、虚無を吐き出している。
立て膝の姿勢には、女の立ち上がろうとする意志があらわれている、と感じる。
健康的な足の形、力に、私は希望を感じる。
苦悩し、絶望している女。しかし、女は生きていて、さらに生きていく力をもっている。
私が寄り添うべきなのは、叫びではなく、その生きていこうとする力だ。
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古谷鏡子『浜木綿』(2)

2020-06-07 10:45:29 | 詩集
古谷鏡子『浜木綿』(2)(空とぶキリン社、2020年06月10日発行)

 どんな詩にも「わからない」ところがある。つまずくところがある。
 古谷鏡子『浜木綿』の「影の木」。

壁がある

壁である なんの変哲もない
ちいさな小屋のような二階家の
ちょっと汚れたモルタルの壁 窓はない 入口もない
壁がひっそりと そこに立っている
夜となく 昼となく
朝の光 夕暮れの薄明のなか
壁には 一本の木の影があり

 古谷が見かけた家の「壁」を描いている。「ちょっと汚れたモルタルの壁 窓はない 入口もない」という一行は、その「壁」の部分には窓や入り口がないということであって、家に窓も入り口もないということではないだろう。古谷は「壁」に特化して書きたいから、窓や入り口がどこにあるかは書かない。一面の壁、ということを書きたい。「ちょっと汚れたモルタルの」という修飾語は、「壁」をなじみやすいものにしている。「壁」を特化しているのだが、特別な存在ではない、どこにでもある壁であると同時に語る。私たちの世代なら「ちょっと汚れたモルタルの」と言われれば、それだけでひとつの情景が浮かぶ。そういう自然なことばの「論理」、ことばが浮かびあがらせる情景の「論理」がある。
 それが「光」ということばを通って、「影」にかわり、「一本の木の影」ということばなる。それは

壁には 一本の木の影があり

 という、完結しないことば(言っている途中のことば)を経て次の連へとつづいていく。ここには静かな「論理」がある。ことばは、つづきますよ。これから「木の影」のことも語りますよ、という「論理」が用意されている。
 そしてその連。

影である
うすずみ色の木の影
光がつれてきた どこからか そしてどこへ
ほそい幹 たわんだ枝が左右に腕をひろげ 夏も冬も
裸木のまま一枚の葉さえなく
夏も冬も 朝も夜も 光の忘れもの 映像のように
ほっそりとした木の影

 最初の二行は「描写」である。目で見ることのできる「情景」である。しかし、すぐにそれは「描写/情景」を超える。

光がつれてきた どこからか そしてどこへ

 光がある。物体にあたる。影ができる。この現象を、古谷は「光がつれてきた」と、ふつうはつかわない「つれてきた」ということばで言い直す。光がなければ影はない、ということを踏まえて、「光が(影を)つれてきた」と主語を変えてしまう。
 ここに語られていることは「目撃した情景」ではなく、「論理で整えなおした世界」である。微妙な変化がここにはある。しかし、それは「論理」を含んでいるので、説得力がある。
 それは、その後の描写の変化へとつながっていく。
 前の連では「朝の光」「夕暮れの薄明」が描かれている。朝から夕方までも長い時間ではあるけれど、まだ、「記憶」ではなく「体験(目撃)」として語ることができる。
 しかし「夏も冬も」になると、簡単に「体験(目撃)」として語るわけにはいかない。繰り返し繰り返し、それを「見る」ということが必要になる。それは繰り返し語りなおすということであり、ことばを整えるということである。長い時間を「夏も冬も」という形で把握しなおす。それは「描写」であっても、直接的な「情景」ではない。つまり「論理の世界」なのである。
 「論理の世界」では「木の影」は「木の影」であると同時に、

光のわすれもの

 ということになる。それは「映像」である。「実像」ではない。「影」であると同時に、常にそこには「光」がつきまとっている。光が「つれてきて(持ってきて)」「忘れていった」もの。それが「木の影」である。
 「わすれもの」ということばには何か哀しい響きがある。

 ここまでは、私は何の抵抗もなくすいすいと読んでしまう。それだけではなく「ちょっと汚れたモルタルの壁」「うすずみ色」「ほそい幹 たわんだ枝」「ほっそりとした」ということばには「わすれもの」に通じる「哀しさの定型」さえ感じてしまう。たぶん「定型」が含まれているから「すいすい」読むのだろう。
 ところが。

壁のまえにはまがりくねった道 道には
錆色の柵があり柵のむこうはだだっぴろい広場
ブランコが揺れていた だれもいない

 突然「転調」する。「転調」は、もちろん前に繰り返されたものを含んでいるから「転調」したと感じるのである。「壁のまえには」「道」がある。もちろん、あってかまわない。道には「錆色の柵」がある。「錆(色)」が「ちょっと汚れたモルタル」、「ほそい」「裸木のまま一枚の葉さえなく」に通じる。
 それは「だれもいない」ということばを引き出す。「哀しさ」ということばを私は補ったが、「哀しさ」のようなものが、そこに漂っている。
 ここまでは「論理」的である。「転調」しても「論理」は生きている。「転調」は詩の技法の「起承転結」の「転」である。これは、いわば、古くからある方法である。
 しかし。

朝ごとにそこをとおり
夜道では影の木に
なにごともなく
雲帰る という言葉にであう

雲は緋の色の衣を着て西の空に帰った
影は帰らない そこに佇んでいる

 この「起承転結」の「結」のような部分に、私はびっくりする。
 「木の影」は「影の木」と入れ替わる。木の影は「光」の位置によってかわる。ところが「木」そのものは同じ位置にある。
 なぜ、そんなことが気になるのか。
 「雲帰る という言葉にであう」、つまり「雲」は帰っていく。しかも夕暮れ、緋色に染まって夜へと帰っていく。ところが木は帰らない。動けない。そして、そのとき「影」は? 

影は帰らない そこに佇んでいる

 それはその通りだが、この雲が緋色に染まって西の空へ帰ったあと、つまり「夜」に「影」が存在するか。「光」がないから、存在しない。もし、そこにあるとすれば「影」をつくりだしていた「木」があるだけである。しかし、古谷は「影」と呼んでいる。

 ここには、それまでの「論理」とは違うものがある。だから、なんだろうこれは、どう読めばいいのだろうとつまずく。
 「わからない」は「論理がわからない」である。
 ここには「論理」以外のものが動いている。それは何か。古谷の「肉体」が「ことばの運動(論理)」を隠している。「論理」の代わりに「古谷の肉体」が、ことばを隠している。「古谷の肉体」がことばにとってかわっている。
 こういうとき、どうするか。
 私は、「論理の乱れ」を生み出している「木」を「古谷の肉体」と読み直すのである。「木」は古谷なのだ。
 「光」があったとき、「木」は「木」であると同時に「木の影」であった。「木」は注目されず、「木の影」が注目された。「木の影」は「光」を間接的に語るからである。「木の影」を語ることは「光」を語ること。「光」を語ることは「木の影」を語ること。「木」もきっと「影」を自分のように認識していた。
 そこには「論理/関係」があった。
 しかし「光」がなくなってしまったら「論理」はなくなる。「関係」はなくなる。それでも「木」は存在する。そのことを古谷は発見した。そして、その発見したものに古谷は自分の「肉体」を重ねた。古谷は「木の影」ではなく「影の木(影をつくりだしている木そのもの)」になった。
 ひとりで佇んでいる。「影」の記憶、つまり「光」の記憶を「肉体」のなかに秘めて、「いま/ここ」にいる。
 そこに「哀しさ」と「強さ」がある。

影は帰らない そこに佇んでいる

 これを

影の木は帰らない そこに佇んでいる

 と「木」を補って、読み、そうすることで、私は古谷に出会う。

 「わからない」は「論理がわからない」である。そして、それは「作者の肉体」が「論理」を隠してしまうからである。「論理」を呑みこんでしまうからである。
 だれだって「他人」のことが「わからない」。「わからない」ところがあるからこそ「他人」である。「わからない」を「わからない」と拒絶、排除するのではなく、この「わからない」ところにその人が生きている、生きている証拠が「わからなさ」なのだと受け止める。
 私は古谷のことをまったく知らない。だから、「誤読」する。古谷は最愛のひとを失ったのかもしれない。ひとりで生きていて、ふと最愛のひとを思い出すことがある。そのとき、古谷は「影の木」になるのだ。
 「木の影」ではなく「影の木」と一回だけ「主客」が逆転した「木」そのものとして、姿をあらわす。
 私はその木に近づき、その木に触れ、その木を抱きしめる。「わからない」から、わからないまま、ただ「私はここにいる」と告げる。しかし、これは「私の強がり」というものだろう。つまずいた人間は、つまずいた先に支えてくれるものをみつけ、それに取りすがって自分の態勢を整えなおすというのが、ほんとうに起きたことだろう。
 私は「わからなさ」につまずいたのだが、「わかる」と思っていたときよりも自然な形で立っていると感じる。古谷の詩を読んだおかげで、私は自然に立てるようになっていると、いま、感じている。会ったことはないのだが、その会ったことのない古谷に出会っているような気がするのだ。その「肉体」を見つめている気がしてくるのだ。






*

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