詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広田修『societtas』

2020-06-23 10:19:05 | 詩集


広田修『societtas』(思潮社、2020年06月01日発行)

 広田修は、散文体のスタイルが印象に残っているが、今回の詩集には行分けスタイルと散文体スタイルが混在している。行分けスタイルでも、広田散文体につながるものを持っている。
 巻頭の「銃弾」という作品。

銃身の鈍重さを仮装しながら
銃弾のようにすばやく生きるのだ

 書き出しの二行の中に、すでにすべてが書かれている。「銃身」と「銃弾」。それはまとめて言ってしまえば「銃」なのだが、「銃身」と「銃弾」という二つの「存在形態」として言い直される。つまり「定義」しなおされる。ここに広田散文体(広田論理)の基本がある。ひとつの存在を複数の視点でみつめることで、「存在形態」を活性化させる。
 「銃身」と「銃弾」は、「鈍重」と「すばやく」と言い直されることで、もはや「銃身」でも「銃弾」でもない。「仮装」と「生きる」という複雑な運動になる。「仮装」とは「隠す」でもある。何かを隠し、隠しながらも、その奥にある「運動」は統合されるのである。「仮装し」「生きる」のは「銃」でも「銃身」でも「銃弾」でもなく、それを「象徴(比喩)」として統合する存在である。

この秋の穏やかな一日は
最大限の速度で組み替えられていくから
この君の静止した生活も
信じがたい高速で雑踏に埋没していくから
撃ち出す可能性しかない母体を装い
撃ち出された現実性しかない弾丸を生きるのだ

 「母体(銃身)を装い」「弾丸を生きるのだ」と最初の二行でつかわれていた動詞が再びつかわれる。そうすることで、ここに書かれていることは、最初の二行の言い直しだと説明される。広田の散文は、とても「ていねい」である。
 その言い直しまでの間に、何があったか。
 「仮装し」「生きる」以外のことばが、やはり言い直されているのだ。「穏やか」は「最大限の高速」と対比され、「高速」は「静止した」と対比され、「静止した」は「埋没する」と言い直される。どんなに「高速」であっても、それは「静止し」「埋没する」。これは物理運動としてはありえないともありえるともいえる。どちらを「信じる」かは、「心情」次第である。「心情」であるからこそ、これが「抒情」になりうるのである。「論理の抒情」に。
 「撃ち出す可能性しかない」「撃ち出された現実性しかない」の「しかない」は「心情」である。そして、それは「信じがたい」の「信じる」という動詞で、先に言われていることでもある。「心情」は「信条」になり、「装い」「生きるのだ」という決意になる。「可能性」だけが「現実」なのだ。つまり、夢だけが現実なのだ。これを「抒情」と呼ばずに、なんと呼んでいいのか、私にはわからない。
 詩の後半を、解説(私の「誤読」)を省略して引用しておく。この後半でも相反するものの対比が運動のエネルギーになっている。弁証法が広田論理の原点であることがわかる。

この浜辺の町の風景には
夢の遊び込む一片の亀裂も存在しないから
この復旧されていく時間には
もはや現在の証明しか存在しない
銃身の優しさで横たわり
銃弾の鋭さで何もかもつんざいていく
責任も罪も悪徳も無効になるこの秋の日
弾丸となりすべてを傷つけていく

 散文スタイルの場合は、こんな具合である。「三十五歳」の一連目。

本質は本質として朽ちていき、装飾や細部にこそ神は宿るのだった。仕事は論理によって組み立てられた城であるが、その堅固さを基礎づけているのはむしろ至る所にある建具の装飾なのである。龍の形をしたり雲の形をしたり山水を描いたり、それらの装飾の綾こそが仕事を別の原理から基礎づけている。虚栄心や嫉妬に基づく競争や攻撃、そういった装飾的な外部をうまく克服することに、仕事はその本質の裏側でぴたりと癒着している。

 「本質」は「朽ちない」からこそ本質というのであり、「本質」と「神」は本来「一体」でなければ意味がない。「神」が「本質」でなかったら、「神」を信じる意味がない。「本質」が永遠に頼ることのできないものであるなら、もう「本質」ではない。
 広田散文の特徴は、こういう「矛盾」にある。「対象」を「矛盾した視点」でとらえなおし、定義する。弁証法の是と非(否)である。ここから「止揚」へ向けての運動がはじまる。矛盾しているからこそ、運動が誘い出される。
 この「矛盾」は「仕事」と言い直されて、「哲学」の領域から「労働」の領域へと場を移し、言い直される。「城」という存在があるとして、その「本質」は「装飾」にあると言い直された後、「装飾(細部)」のひとつを取り出し、それは「装飾」を生み出した(つくった)「心情」に還元される。つまり「虚栄心」「嫉妬」などが、「装飾」を必要とし、「外部」をつくる。そういう「運動」こそが、つまり「心情の発露」こそが、「本質」として「細部(装飾)」に宿る。この「心情」を広田は「原理」と呼んでいる。「装飾」は表面的(表層的)なものだが、その表面の「裏側」には、語られない「心情」が「ぴたりと癒着している」。それが「原理」(永遠に朽ちない「本質」)なのだ。このとき「心情=原理」は「神」になるのである。
 この広田論理のなかで、いちばん重要なことばは「癒着」であるように見えるが、そうではなくて、その前の「ぴたり」だろう。「癒着」は「合体」とか「接着」とか「密着」とか「接合」とか、あるいは「融合」とか、いろいろ言い直しが可能である。もちろん、そのとき文全体が変わってくる。(だからこそ、広田は、同じ運動をさまざまな「変奏」として詩にできるわけである。)だが、「びたり(と)」だけは、言い換えがきかない。
 「ぴたり(と)」は省略しても、第三者(読者)に「意味」が通じる。しかし、それがないと広田の「心情(こころ)」納得できない。そういう無意識に書かれたことば。「肉体」になってしまっていて、書いたかどうか意識できないことば。
 こういう、言い換え不能のことばを、私は「キーワード」と呼んでいる。(広田が言い換えができないから、読者の方も、それを言い換えることができない。ためしに「ぴたりと」を自分のことばで言い直すとどうなるか、やってみるとわかる。)
 広田論理(広田抒情)は、「ぴたり」をめざしているのだ。しかも、その「ぴたり」は矛盾しているが、「ぴたりと」合致するというあり方なのだ。矛盾によって、より「接合(癒着)」が強烈になる。そういう運動。それを、弁証法では「止揚」と呼んでいる。

 こういう「表層的」な分析は、まあ、どうでもいいことかもしれない。
 広田散文の特徴は、そういう「見かけ」とは別に、軽やかなリズムを持っている。このリズムは「弁証法」と書いたが、ヘーゲルのドイツ哲学とは一線を画している。構造が先にあるわけではない。フランスの、ベルグソン(古くはデカルト)の自発重視のいいかげんさ(自発的だから正しいという主張)とも違う。なんとなく、「英語」特有の、何でも後から追加すればいい、という成り行き文体という感じがする。「後出しじゃんけん文体」と言ってもいい。
 こういう言い方は、いい加減すぎるのだが、ほんとうに書かなければいけないのは、この私の「いい加減」で指摘している部分である。ことばのリズムだとか、文体の印象というのは、ひとそれぞれによって受け止め方が違う。つまり「相性」がある。しかし、最後は「相性」でことばを読んでしまうものなのだ。「文学」というのは。「どれが、いい?」という質問は、文学の場合、「どれが、好き?」という問いかけに他ならない。
 私は広田の文体が好きである。



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