松浦寿輝「人外詩篇 6」、金石稔「時の岸辺の……」(「現代詩手帖」2020年06月号)
松浦寿輝「人外詩篇 6」に奇妙なことばが出てくる。「ニンゲン」。
ガラスの天蓋におおわれた
ターミナル駅の巨大な列車発着ホール
十いくつものプラットフォームが並んでいるが
そこに停まっている列車は一台もない
しかしそれでも ニンゲンたちはいるのだ
「人間」ではなく「ニンゲン」と書いたのはなぜか。「ニンゲン」を松浦は、こう言い直している。
よごれたベンチにへたりこみ
背をまるめてじぶんの手を見つめている老人も
地べたにしいた毛布にくるまって
犬ころのように身を寄せ合っている家族も
じぶんの長い髪のあいだに両手をつっこんで
声をたてすに肩をふるわせている女も
わたしに目をくれようともしない
「老人」「家族」「女」。共通項は「わたしに目をくれようともしない」。別なことばで言えば(というよりも、別のことばの方が先に出てくるのだが)、「じぶん」に集中している。「じぶん」に集中し、つまり、「わたし」に目を向けようとしない「老人」「家族」「女」を松浦は「ニンゲン」と定義している。
その「定義」が正しいかどうか、そういうことを言いたいのではない。
こんな具合に、ことばというのは必ず「定義」しなおさないといけない。「定義」しなおすことで、「ことば」は「肉体」となる。松浦は、そういうことを丁寧につづけている。そこから「文体」というものが自然に生まれる。あるいは「文体」は「自然」になる、と言えばいいのか。
「ニンゲン」を「定義」したあとで、もういちど松浦は「ニンゲン」をつかう。
そのちいさなものだけが動いている
足音もたてず 影もおとさず
世界はどこもかしこも磨耗しつつある
愚昧なニンゲンたちのすさんだ心が溶けだして
霧とまじりあい 悪臭をはなっている
「悪臭をはなっている」と書きながらも、松浦は、その存在を排除していない。「ニンゲン」を「すさんだ心」と言い直しているが、その言い直しのときに「心」ということばで寄り添っている。
「心」は最後の部分で、こう言い直されている。
いとおしくいとわしい亡霊たち
きみたちに出会うために
わたしはさらにあるいていった
「亡霊」。しかもその存在は「いとおしくいとわしい」。矛盾したまま、からみついている。切断しようにも切断できない。「ことば」にするということは、「接続」してしまうことだからだ。「切断」もまた「出会い」なのだ。つまり「接続」なのだ。
「ことば」は先へ進んでいるのか、先へ進むことを阻まれているのか。
それがわかるのは、もっともっと「先」のことだ。あるいは、永遠にわからないことだ。その「わからなさ」を「わからなさ」のまま、ここに存在させるために「文体」というものがある。
松浦の「文体の出自」は、どこにあるのか。いろいろ考えてみるが、「出自」を探すことに意味はない。それは言い直せば、松浦が「松浦の文体」をすでに生み出しているからである。その「生み出し方」は「言い直し/繰り返し」である。「言い直し/繰り返し」には「発見」というよりも「伝統」の方が根強く忍び込んでくる。(つまり、古くさく見えることがある。)松浦は、その忍び込んでくる「文学の力(いのち)」に向き合いながら、それを「いとおしく/いとわしい」と呼べるところにまで引き上げていく。「持続」していく。
*
確立した「個人の文体」(出自を求めなくてもいい文体)というものを、私は、金石稔「時の岸辺の臥所にゆめ揺らぎ/まどろみの散り行く果てに」にも感じる。
音はまったく聞こえないし、むしろ爽やかな朝つゆのしずくが頬にあたっているという
思いにまどろみ、その中をひとが過ぎて行った気がしたが
その影が行間に消えて行ったのを確かに触った思いとはうらはらに、それが忍び泣く声
もことばで名指すほどにははっきりとせず、こんなかぼそさや限りなく細い息など
ここにはもともとなかったはずではないか
「確か(に)」ということばがあるが、「確か」なのは「細部」ばかりで、「全体」は「確か」ではない。「全体」が「確か」ではないからこそ、「触る」(肉体が対象に接触する)ときの「実感」だけが濃密になる。
これは「全体」に対して、常に「細部(個人)」から世界(全体)をとらえなおすという姿勢を維持し続けた結果として、「文体」になったのだ。
他人の言う「全体/世界」などというものは、「ここにはもともとなかった」。それは、いままでもそうだし、これからもそうである。ことばにするときだけ「細部」が「存在」として生まれつづける。この「生まれつづける細部」が「世界」なのだ。
松浦も金石も、「自分の文体」しか信じていない。「他人の文体」を信じていない。そこに美しさがある。
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